株式会社 国際遠隔教育設計

現在完了って何?

無料体験はこちら

現在完了って何?

現在完了って何?

2022/11/21

現在完了という時制

現在完了形を使いこなすには

1.完了形を学ぶ難しさ

 英文法が説く重要な概念の一つは現在完了です。現在完了は、時制(tense)一般の範疇に入ります。そして時制は、私たち日本人も無関心ではいられません。ある行為や事件や事象が、なぜ、どのように起こったのか、また、今も起こっているのか、将来、起こるのか、などの時間意識を含んだ議論は、国会や地方議会、また会社などのあらゆる会議で毎日行われているからです。大災害への備えや対策、パンデミックの反省や予防措置にも、いつまでにどうする、などと、時間意識が必ずついて回ります。人間が、日常生活の中で、時間との絡みにおいて、物事をどう管理し、処理するかを、自分でも考え、人にも伝える際、欠かせない言語上の諸規則が時制なのです。そして、残念ながら、多くの他の英文法事項同様、時制も、日本人の英語学習者が、学習の初期の段階で躓きやすい性質を持っています。なぜでしょうか。

 それは、日本語の時制は、英語と違って、必ずしも専用の語形変化によらないからです。例えば、「私は昨日病院へ行きました。」は過去のことで、「私は今日もその病院へ行きます。」は近い未来、もしくは現在のことを表します。「~へ行きました」と「~へ行きます」のわずかな違いで、過去と近未来、もしくは過去と現在が区別されています。「行く」という動詞の連用形「行き」そのものは時制の決め手にはなりません。つまり、日本語の動詞の本体には、時制の区別・識別に関する情報は組み込まれていないのです。また、漢字を組み合わせたある種の名詞は、もともと動詞の意味が閉じ込められていて、それに「する」を加えると簡単に、名詞から動詞を作ることができます。例えば、「勉強」や「旅行」や「料理」は、それぞれ、「勉強する」「旅行する」「料理する」というように動詞化することができます。そして、「~する」を現在、「~した」を過去として使うことができます。そして、これを丁寧に言いかえるには、「~します」「~しました」とすればよいのです。ところが、かなりの数の日本語の動詞は、語尾変化に似た語形変化で、現在と過去を区別することができます。「飛ぶ」ー「飛んだ」、「死ぬ」-「死んだ」、「書く」ー「書いた」、「買う」-「買った」、「落ちる」-「落ちた」、「剃る」-「剃った」などがそうです。でも、やはり、日本人の感覚としては、語尾が変わるという印象はあっても、語形が変化したとは思えません。

 これに対して、日本語の「行く」に相当する語の場合、英語では、

 1. I went to a hospital yesterday. (「私は昨日病院へ行きました。」)

 は 過去の事柄を述べ、

 2.I  go to the  same hospital today, too.  (私は今日も同じ病院へ行きます。」)

は現在、もしくは近未来のことを述べます。 このように、日本語の「行く」に相当する英語の動詞には、過去時制のwent と、 現在時制の go という語形が存在します。これは一見して明らかなように、同一の語の語形変化であって、決して同一の語の語尾変化ではありません。このように、英語では、ある種の動詞の時制変化は、あらかじめ予想しがたい、不規則な形をとります。しかし、一方で、大部分の一般動詞は、先ほど見た、日本語の語尾変化に似たやり方で、規則的に変化します。例えば、 walk (「歩く」)と言う動詞の場合、現在形は walk 、過去形は walked です。次の二つの文を見て下さい。

 3.We walked to the station yesterday.(「私たちは昨日駅まで歩きました。)

 4.Let's walk to the park today. (「今日は公園まで歩きましょう。」)

同様に、work(「働く」)と言う動詞の場合、現在形は work、過去形は worked です。次の二つの文を見て下さい。

 5.We worked eight hours yesterday . (私たちは昨日8時間働きました。)

 6.We will work only four hours today. (私たちは今日は4時間しか働きません。)

 例文3では、動詞 walk の原型である walk に-ed をくっつけた walked が過去形として使われています。他方、例文4では、動詞 walk の原型が、そのまま現在形として使われています。例文5においても、動詞 work の原型である work に-ed をくっつけた worked が過去形として使われており、例文5では、動詞 work の原型が、そのまま現在形として使われています。

 英文法では、例文 1 および例文 2 で取り上げた動詞 go のように、時制の変化に応じて、動詞本体の形が、予想を超えて不規則に変化する(時制による go の変化は、現在形=go、過去形=went、過去分詞形=gone )動詞を、不規則変化動詞と呼んでいます。これに対して、walk や work のように -edのみを語尾にくっつけることで、現在と過去と過去分詞を区別できる(時制による walk の変化は、現在形= walk、過去形= walked、過去分詞形= walked )動詞群を、規則変化動詞と呼びます。規則変化動詞は、すべての動詞の95%以上を占めます。

 ちなみに、不規則変化動詞の例を挙げれば、be, have, make, say, take, sing,  speak, tell, drink, drive, come, fly, blow, sleep, cut などがあり、極めて使用頻度の高い動詞を多く含みます。ですから、不規則変化動詞は規則変化動詞より数が圧倒的に少ないからと言って、決して軽んずべきではありません。不規則変化動詞の歴史的由来は古英語研究者の研究に俟たねばなりません(時制によって動詞の形が大きく変わるのは、フランス語の特色でもあり、一般にラテン系の言語の特色です。ですから、日本語の時制との違いは極めて深刻であり、明らかに、語族間の違いに淵源します)が、日本人が、ほぼすべての不規則変化動詞について、現在、過去、過去分詞の、それぞれ異なるスペリングや発音を、きちんと正確に覚えるのは、相当に骨の折れる話です。

 ところで、言語的に親戚同士のヨーロッパ諸言語とは、かなりかけ離れた文法体系を持つ日本語の母語話者が、英語の時制を学ぶとき、 be動詞においては、過去、現在、未来の「時制」と、一人称、二人称、三人称の「人称」との組み合わせで、動詞の語形が目まぐるしく変化することを知って驚きます。ところが、さらに、同じ時制でも、進行中の運動や作業や変化などを表現する「現在進行形」や、様々な事象・運動・行為についてのある種の叙述は、「完了」、「継続」、「経験」の三相に使い分けられる、と知るのは、これに輪をかけた驚きです。そして、後者は「現在完了」と呼ばれます。このように俯瞰的に見るとよくわかるのですが、英語は、実は、きちんとルール化された時制が、複雑に、しかし、整然と機能している言語なのです。

 ただ、ここまでくると、日本人の初歩の英語学習者は、言葉を失ってしまいます。果たして自分は、いつの日か、これらの規則を十分に使いこなせるのか、と不安になるはずです。そして二言三言の短い説明ではとても把握しきれず、それらの有用性もしくは必然性の議論については、これまでのところですでにパニックに陥るか、意気消沈するあまり、説明を求める気さえ起きないかもしれません。はっきり言って、日本に生まれ、すでに10歳前後まで日本で生活してきた幼い日本人にとっては、これらの法則は理解不能です。従って、この壁を突破しようとすれば、手厚く、思い切った量の学習支援が必要なのです。そこで、すでに自分の経験に照らして危惧を持つ親たちは、現行の学校教育では不十分であることに鑑み、せめて次の世代にはあのつらい思いをさせたくないと思って、子供たちを最寄りの塾に通わせます。しかし、肝心の塾での時制の教え方はどうでしょう。ひょっとして、テストで追い立てたり、和訳を添えた例文をいくつか示すだけに終わってはいないでしょうか。与えらえた英文の和訳がなぜそうなるのか、また、現在完了の例を示した英文は、「完了」、「継続」、「経験」のいずれに属するか、なぜそう判断するのか、などを学習者が完全に納得できるまで、みっちり指導する必要があります。

2.現在完了に関して、血の通った説明をする必要性

 ところで、このような学習支援を行う場合、勿論、しかるべき指導効果を挙げる責任は教える側にある、と言えます。日本人が英語を学ぶ際の厳しい現実をしっかり踏まえたうえで、私たちは、通り一遍の説明に終わることなく、それに「血の通った」説明を加える必要があります。一般論として、英文法は、平等にその恩恵が行き渡ってほしいものです。でも、どの言語を母語に持つかによって、明白なハンディキャップが存在します。日本語文法と大きく異なる英語文法は、公式化できるものは全て公式化し、これを徹底的に覚えることが先決であり、それが日本人の英語学習の基礎を構築します。ただし、それを学習者が自家薬籠中の物として、自在に応用が利くレベルにまで高めるには、教える側に、その目標値を設定する意味において、十分な時間を割き、しかるべき例文を用いて、血の通った説明をする義務が存在するのです。

 現在完了形は、誰でもすぐそのありかを指摘できます。それは「have +動詞の過去分詞」という目立った、特別な形をとっているからです。そこで私は、公式としての完了形が、一旦、学習者の頭に入った時点で、次の質問を発します。「英語の現在完了は、どんなとき、効果的に使われるのでしょうか?」日本人の英語学習者は、現在完了形の公式を正確に覚えた時点で、早とちりをして、自分は現在完了をすでにマスターしたと思いがちです。しかし、もしこの質問に答えられなければ、まだ完了形を自在に使いこなせる段階にはないかもしれません。習熟するには、現在完了形が効果的に使われた実例をじっくり味わうことが一番の近道なのです。

3.『嵐が丘』に使われた現在完了形

 そこで、現在完了形の典型的な事例を一つ、皆さんにご紹介します。そして、ここでなぜ現在完了形が使われたのかを考えてみましょう。それは、Emily Brontё の『嵐が丘』の書き出しに出てきます。まずは、岩波文庫版の『嵐が丘』(河島弘美訳)の冒頭部分を、日本語訳で引用します。

 「一八〇一年――家主をたずねて、いま戻ったとこ ろだ。厄介な近所づきあいもあそこだけですむ。じつにすばらしい土地だ。騒がしい世間からこれほど隔絶したところは、イギリスじゅうさがしても、おそらく見つかるまい。人間嫌いにとっては、まさに天国のようだ。そしてこの寂しさを分かち合うのに、ヒースクリフ氏とぼくはちょうど似合いの相手である。なんと素敵な男だ。ぼくが馬で乗り付けると、ヒースクリフ氏は眉の下の黒い両眼を疑わしそうに細め、ぼくが名乗るのを聞いて、ますます油断なく両手をチョッキの奥に押し込んだ。それを見てぼくの心がどんなに和んだか、向こうは想像もできなかったことだろう。」

 次に対応する英語、すなわち原文を、原作の Wuthering Heights (Penguin Classics, 1995, p.4)から引用します。

 1801  --  I have just returned from a visit to my landlord --  the solitary neighbour that I shall be troubled with. This is certainly a beautful country! In all England, 

I do not believe that I could have fixed on a situation so completely removed from the stir of socoiety. A perfect misanthropist's Heaven -- and Mr Heathcliff and I are such a suitable pair to divide the desolation between us. A capital fellow! He little imagined  how my heart warmed towards him when I beleld his black eyes withdraw so suspiciously under their brows, as I rode up, and when his fingers sheltered themselves, with a jealous resolution, still further in his waistcoat, as I announced my name. (p.3)

 1801 は西暦1801年を表しています。ただし、月と日付は省略されています。投げやりに感じられるかもしれませんが、これは小説です。ドキュメンタリーや日記ではないので、私たちは日付まで求めないのです。およその年代がわかれば、ああ大分前の話なんだな、と「およそ」の時代感覚が情報としてインプットされます。それ以上に詳しく特定しないところが書き出しの奥ゆかしさというものです。例えば、「昔々あるところに・・・(Once upon a time...)」という物語の定番の語り口をここで思い出してください。そして改めて、"1801 --  I have just returned from a visit to my landlord -- the solitary neighbour that I shall be troubled with." (「一八〇一年――家主をたずねて、いま戻ったところだ。厄介な近所づきあいもあそこだけですむ。」)という書き出しの、現代小説としての類まれなすばらしさを味わってください。その自然な口調と、この書き出しがおもむろに私たちを拉致する物語世界の、立ち上がりの見事さを賞味しましょう。まったく、小説の書き出しはこうでなくてはなりません。でもこの書き出しの、何が私たちの心をこれほどまでに鷲づかみにするのでしょうか。

4.現在完了形のかっこよさ

 そのからくりは、I have just returned from a visit to my landlord. という一口サイズのこなれた一文にあります。英語として、これほど自然な文もめったにないでしょう。この文は、使い方次第で、英語レッスンの基本文としても機能します。この文を起点に、様々な質問を相手に投げかけることができるからです。「その家主とやらはどこに住んでいるのですか?」「彼はどんな人物でしたか?」「彼とどんな話をしましたか?」「あなたは家主からどんな家を借りるのですか?」「その家主の家はどんな家でしたか?」「その家はどんな間取りでしたか?」「あなたの借りる家の周囲はどんな環境ですか?」「そこからの眺めは良いですか?」「どのくらいその家を借りる予定ですか?」などと、いくらでも質問が思いつきます。でも、このように始まったこの小説は、実際には、家主の風貌やしぐさや、それから想像される性格など、およそ読者が語り手に語ってくれることを期待するほどのことはすべて、冒頭の一連の語りを通じて、生き生きと描写します。この小気味よい語りこそ、主人公への興味を、読者の心に搔き立てる装置であり、私たちをこの小説に引き付けてやまない理由の一つなのです。

 一般に小説の書き出しは、言葉による一種の魔法が読者にかけられる瞬間です。『嵐が丘』の書き出しも例外ではありません。では、ここにどんな魔法がかかっているのでしょうか。この最初の一文は、現在完了形の have returned の効果を最大限に生かしています。この場合、return は「行って戻ってくる運動」にかかわる動詞ですから、使われた現在完了形は、「語り手」の "I" と「家主」の "my landlord" の間に存在した一個の往復運動を証するものです。しかも、just が、「今ちょうど~したところ」という極めて鮮度の高い《生の時間感覚》を読者に伝えます。ですから、この現在完了形は、「私」、すなわち、"I" と名乗る一人の人間のとった、ある場所への往復運動について、それが「今終わった(=完了した)」ばかりだ、と告げているのです。完了形は、文脈に応じて、経験と完了と継続を表す、と言われますが、ここは、だれが考えても「完了」を表すことは明白です。この文は「家主のところから今帰ったばかりだ」と言っているからです。

5.語り手の魔術

 でも私たち、すなわち、この小説の読者は、だからこそ、一瞬、語り手が伝える、家主との間の、あまりにも明確な「一往復運動」の報告から、いきなり置いてきぼりにされそうになっているのを見出すはずです。え、どこへ行っていたのですって?と思わず聞き直したくなるのです。いきなり「私の家主」って、言いましたよね、それはどこの家主なの?と、0.1秒の間に、鋭い疑問がわくからです。一般に、何か面白そうな話題が新たに持ち出されたとき、それに関する情報から取り残されるのは、誰でも嫌なものです。「ねえ、私も仲間に入れてよ」と言いたくなります。ところが、語り手は、そのような読者の気持ちをもてあそぶように、「近所づきいあもあそこだけですむ。」という一文を加えて涼しい顔をしています。あなた、それで何かを説明したつもりのようですが、私たち読者には何のことかさっぱりわかりませんよ、と言いたくなるのです。しかし、勿論ここは、この語り手にこのように語らせる作者の、小説家としての手腕の見せ所なのです。語り手を縦横に操る作者は、この時の読者の感じる「もどかしさ」を百も承知で、わざと一拍、間を外しているのです。この絶妙なとぼけによって、読者である私たちは、「近所づきあいもあそこだけですむ」って?それどういうこと?と、またしても次の疑問がわいてきます。ところが、作者はその疑問には答えず、いわば、満を持して、すごい変化球を投げてきます。「じつにすばらしい土地だ。騒がしい世間からこれほど隔絶したところは、イギリスじゅうさがしても、おそらく見つかるまい。」がそれです。語り手がいきなり、「じつにすばらしい土地だ」と悦に入っても、読者は、そうたやすく、その気持ちに入っては行けません。「え、そうなの?」と、むしろ、鼻白む思いです。続いて、「騒がしい世間からこれほど隔絶したところは、イギリスじゅうさがしても、おそらく見つかるまい。」と言われると、え?、もしかして、君は、今現在、「世捨て人」の心境なの?と尋ねたくなります。騒がしい世間から隔絶したところをわざわざ探すとなると、私たちなら、どこか人里離れた山村をイメージします。例えば、冬の間、完全に雪に閉ざされる、白川郷のようなところを。でも、なぜそんなところをわざわざ・・・?と言う疑問が残ります。

6.「人間嫌い」の意味

 しかし、その次に、私たちの脳天に衝撃が走るような、どんでん返しが待ち受けています。「人間嫌いにとっては、まさに天国のようだ。」という一文が来るからです。「人間嫌い」となると、世捨て人というよりも、人間不信の人、誰とも打ち解けることのできないない「引きこもり」に近いイメージです。しかし、本来、「引きこもり」は自分の家に引きこもって一歩も外に出ない人であって、都会から田舎に移住する願望、それを実行に移す行動力、都会よりも田舎を評価する評価軸、などは間違っても持ち合わせていないはずです。となると、ここで言われている「人間嫌い」は、精神にダメージを受けた人でも、社会への適応異常者でもなさそうです。自分にとって、この土地は「天国のようだ」と言って、これから家を借りようとしている場所を手放しで称賛する語り手は、世間一般に対して、しかるべき真っ当な批判をもちつつ、独自の世界観、哲学、美意識を持っていそうな気配です。少なくとも、都会とは正反対の、人里離れた田舎に、何か特別の思い入れを持ち、そこに住むことに、「(魂の)救い」という価値(「天国」=Heaven)を見出しているようにも見えます。

7.stir of society の意味

 でも、原文に見られる stir of society とは何でしょうか。この言葉は岩波文庫版では「騒がしい世間」と訳されていますが、stir は、例えば、様々な薬品がごちゃまぜに入った水溶液を掻き混ぜたときのような、予測不能の乱雑な展開、反応、混乱、などを指す言葉です。society は「世間」と訳されていますが、これは人間づきあい、人と人の出会い、交際、世間の習わし、などを意味します。一般に「社会」と訳されることが多い語です。でも、社会はいつも「騒がしい」でしょうか?人間の付き合いを「騒がしい」とか「面倒くさい」と感じる人は確かに人間嫌いになりますが、そこには人を住みにくくする何かが既に存在するのです。では、何故、いつ、社会は「騒がしく」なるのでしょうか。ここには大都市ロンドンの雑踏や都会の人間関係のわずらわしさが暗示されているように、私には思われます。天下の政都であることに加えて、天下の金融・商業の集中する大都市でもあるロンドンが、この語の背後に暗示されているとしたらどうでしょう。あくまでも推測でしかありませんが、大都会の上層部を支配する社交界の際立った階層性、面倒な仕来りの数々、などが、名もない無数の人たちをひたすら疎外してやまない現実が、その当時、既に、作者の目に、明らかに存在し始めていたとしたらどうでしょう。

 もしそうなら、語り手のこの往復運動は、そこに人間嫌いを見つけた喜びという形をとることで、私たち読者に向けた、一つの明快なメッセージ性を獲得します。語り手がこれから借りることにした、明るく健全な田舎の家に、これまで自分が住み続けてきた、暗く不健全な都会のアンチテーゼを見出した、とみることは強ち的外れではないのかもしれません。自称「人間嫌い」の語り手は、おそらく、と私は言いたいのですが、近代が到達した、病んだ大都会からの回復、近代人の生活のゆがみの全面的な修復を夢見る、時代に先駆けた、第一級の、ロマンチストに違いありません。

 

 

 

 

当店でご利用いただける電子決済のご案内

下記よりお選びいただけます。