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英語のリズムを学ぶ その2

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英語のリズムを学ぶ その2

英語のリズムを学ぶ その2

2022/03/16

癖のない英語を目指して

英語のリズムに身を任せるコツ

1.到達目標としての英語のレベル

 A. 目標としての標準英語

 英語のリズムやイントネーションは、私たちの英語の学びの目標と深い関係があります。なぜなら、英語独特のリズムやイントネーションは、英語が英語らしくあるための必要条件であると同時に、十分条件に極めて近いからです。と言うのも、自然な英語のリズム、自然な英語のイントネーションは、しゃべる英語の内容も含めて、文法、発音、語彙のいずれにおいても、大きな落ち度がないことを前提とします。であれば、それは私たちのオンライン英語講座が掲げる、英語学習の最終到達目標に極めて近いからです。

 英語は、御承知のように、表現力豊かな言語です。ネイティブの人たちの英語の会話は、溌溂としていて、イントネーションが縦横に駆使されていて、私たちを圧倒します。ですから、私たちが英語を学ぶに当たって、自然なリズムとイントネーションで英語を話し、また自然なリズムとイントネーションで英語を音読できるようになることを、英語学習の最終目標に設定するのは必ずしも間違ってはいません。そこを目指すのは、立派な目標を掲げて英語を学ぶのとイコールであり、推奨に値するからです。勿論、英語は言語ですから、まず目に入る英文が読めなければなりません。新聞でも小説でも、中味をしっかり理解できなければなりません。また、耳に入る英語を聞いて理解し、人に英語で話しかけ、手助けをしたり、情報を得たり、説得したり、議論に応じたりできなければなりません。

 さて、その時必要な英語は、アメリカ英語でしょうか、イギリス英語でしょうか、それともオーストラリア英語でしょうか。残念ながら「日本英語」と言う選択肢はないかもしれません。現時点では、日本式の英語と言うと、むしろマイナスのイメージが伴いかねません。ですから、日本式英語を私たちの目標として設定するのは、当分の間、賢明ではありません。もっとも、日本式英語でなぜ悪い?と開き直る人もいらっしゃるでしょう。それを一概に否定するものではありませんが、一番多いのは「アメリカ英語、もしくはイギリス英語で十分じゃない?」と言う声でしょう。勿論、私もこれに全く異存はありません。

 ただ、私は、英語に関しては、ネイティブの英語にこだわらなくともよい、と考えている一人です。あるイギリス人が何かの用事でアメリカに行き、誰かの電話番号を知ろうと思って電話局に電話したところ、あなたの英語は、英語として認識できませんという自動音声の返事が返ってきたそうです。アメリカ英語が世界を席巻していることが伺えますね。少なくともアメリカでは、アメリカ英語こそが英語なのです。私の娘がイギリスへ旅行したとき、駅で切符を買うのに随分苦労した、と言っていました。行き先を言っても、中々通じなかったからです。おなじ英語をしゃべっているはずなのに、ずいぶん不便な話です。実は、それくらい、英語にはお国訛りがあるのです。まして、英語が公用語でない多くの国の人たちにとっては、自分の学んだ英語が果たしてどれくらい通じるか、と言うことこそが切実な問題のはずです。そして、通じる英語を学ぶのはとても大変なことです。では、自分の英語をしっかり相手に通じさせるうえで、一番大切なことは何でしょうか。

 それは、英語を構成している要素を一つ一つ学習して学び取り、それをドリルで効率よく体得することです。ですから、私の経験にも合致していることですが、こういってよいでしょう。英語の基礎をしっかり固め、文法も語彙も発音も一定程度学び終えた段階の英語力、すなわち弊社の基準で言えば、中級程度の実力があれば、相手がアメリカ人であろうと、イギリス人であろうと、全く何の問題もなく通じます。つまり、一番大事なことは、基礎をしっかり固める、と言うことです。その結果、あるレベルの英語力に到達していれば、たとえ日本式の発音を一部に残していようと、全く問題ないのです。英語は、あるレベルまでくれば、自分の英語に少々癖があっても、確実に通じます。ですから、英語学習においては、総合的に英語のレベルが上がるということが肝心なのです。でも、総合的であれ何であれ、英語のレベルが上がるとはどういうことでしょう。あるいは具体的な到達目標をどこに置けばよいのでしょうか。

 B. 訛りを超える英語のレベル

 a. 日本語の訛りについて

 実は、英語のレベルが上がるということと、標準の英語をマスターするということとは、ほとんどイコールなのです。ですから、英語学習の到達目標は、標準的な英語をマスターするということです。でも、標準的な英語って、何でしょう。例えば、日本語の問題に置き換えてみると分かりやすくなります。

 日本では標準語と言う言葉はありますが、最近はめったに聞きません。「関西弁」とか「京ことば」と言う言い方は今でも普通に使われています。でも、「東京弁」と言う言葉はほとんど聞きません。それは、東京が明治維新以来日本の首都となって、その頃の江戸弁が、東京言葉として、後の標準語に吸収されていったからです。明治政府は、日本の近代化を推し進める中で、日本人同士のスムーズな意思疎通を図る必要から、日本人の使う言葉を全国的に統一し、「標準的な口語および文語(書き言葉)」を作り出すべく、「国定教科書」を制定・発行し、全国の小学校で使わせたのです。言文一致運動とも関係がある話です。

 近年は、いまだに、地方の人口の都市部への流出が止まらず、東京一極集中のデメリットが大きく注目を浴びるようになり、それを意識してか、朝ドラの主人公が地方出身であることが多く、出演者には丁寧な方言指導がなされています。地方創生の動きと相俟って、方言の価値が見直されているのなら喜ばしい話ですが、会社や役所では、依然として「標準語」が基本になっています。新聞、ラジオ、テレビなど、日本人のマスコミュニケーションの拠り所は、何と言っても「標準語」だということがよく分かります。日本人は、地元の方言はしっかり生かしながらも、いざというときは一斉に標準語で情報をやり取りできる態勢が出来ています。緊急速報は勿論、国会での議論、時事ニュースで話される日本語、新聞の社説や記事、雑誌の論評、どれをとっても標準の日本語でないものはありません。

 b. 英語の訛りについて

 では、英語のお国訛りはどうなっているのでしょう。英語は、本国のイギリスの他に、米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、香港、フィリピン、シンガポール、南アフリカ、ケニア、などで第一言語、もしくは公用語として使われています。そこで、英国内の方言に加え、英国外でも、一部、原住民の言語の影響を受けるなどして語彙が少し変化し、地方化も確実に進んでいます。今ではイギリス英語と同列に、アメリカ英語、オーストラリア英語、ニュージーランド英語、カナダ英語、インド英語、などと言う言い方が定着しています。

 興味深いのは、有名な映画俳優で、自国以外でも活躍している人、あるいは外国出身のアメリカ人俳優の場合、その英語にお国訛りが入ることです。例えば、フランスの名優、アラン・ドロンは、三船敏郎と共演し、映画の中ではもっぱら英語で話しましたが、フランス語訛りが隠しようもなく出ていました。アーノルド・シュワルツェネッガーはオーストリア出身で、その英語には、どこかドイツ語風の訛りがかすかに入っているのに気づいた方も多いと思います。オードリー・ヘップバーンはデビュー作『ローマの休日』でヨーロッパのどこかの国の王女を演じ、その気品のある英語で世界を魅了しましたが、後に、『マイフェアーレディー』でも、ロンドンの下町娘から英国の貴婦人への、蛹から蝶への脱皮を思わせる、夢のような女性の変身・変貌をテーマにした映画で、上流社会と下流社会の分断を象徴する、断崖のような言語的ギャップを、一人の人間として鮮やかに掘り下げ、ファンを唸らせる天性の演技力を見せました。

 C. アメリカ英語とイギリス英語

 以前は、標準英語と言えばイギリス英語だというコンセンサスが存在しました。私がまだ30代後半くらいの頃だったでしょうか、ある短大に非常勤で英語を教えに行っていましたが、休憩時間に、初めて見るアメリカ人講師が、日本人学生の英語力のレベルの低さを嘆き、憤懣を私に向かってぶつけてきました。私がそれに対して何を言ったのか記憶が定かではありませんが、次の瞬間、彼は180度態度を変え、「自分も今、イギリス英語を学んでいるところだ。」と言いました。どうやら、私の英語がイギリス英語に聞こえたのでしょう。

 他にも、あるまことしやかな噂話を聞いたことがあります。アメリカ人は、例えば学会などでイギリスへ行くと、英国に着いた途端に、イギリス英語のアクセントに切り替えてしゃべることにしているのだそうです。そこで思い出すのは、先ほど例に出した『マイフェアーレディー』の準主役で、あらゆる手段を使って下町娘のひどい訛りを矯正する言語学者、ヒギンズ教授です。彼は、イギリス英語をこよなく愛し、その特色である、あのジェットコースターのように急転直下、一息に流れ下る抑揚、絶妙なリズムの取り方を、自画自賛する場面があります。英語こそは英国文化の華、国の誇りだと言うのですが、彼にしてみれば、自分が属する上流階級の英語こそ、英国の誇りなのです。そういえば、ブリティシュイングリッシュ、あるいは、クイーンズイングリッシュと言う言葉もあります。

 さて、上流階級の英語と言えば、その子弟を育てるオックスフォード大学とケンブリッジ大学の教授や学生には、そこで話されている英語こそ世界最高だという誇りが、そのアクセントの中に、自然に備わっているようにさえ思われます。ところでケンブリッジ出身者と言えば、吉田茂に重用され、日本国憲法の英語草案を日本語に翻訳する際に活躍した白洲次郎に、いかにも彼らしいエピソードが残っています。彼は、一緒に仕事をしていたアメリカ人将校が、「君は上手に英語を話すね。」と言ったとき、「何、大したことはない。あなたも少しだけ努力をすれば、すぐに僕程度にはなれるよ。」と答えたそうです。

 アメリカ英語をしゃべる人が、イギリス英語を身につけるのは、そうたやすいことではありません。面白い例があります。真田広之と言えば、The Last Samurai で渡辺謙やトム・クルーズと共演した国際的な俳優ですが、あるとき、ロンドン公演を前提とした蜷川幸雄演出の英語版『リア王』に道化役で出演することが決まったまでは良かったのですが、急遽、彼のアメリカ英語をイギリス英語に変える必要がある、ということになり、何か月かの発音矯正訓練を受けたそうです。またショーン・コネリーは、英国の諜報部員の活躍を描く「007」シリーズの初代ボンド役として名を馳せましたが、元々トラックの運転手で、強い訛りがあったのを、これまた特訓を経て、ついに、あの見事に洗練された英語を話せるようになった、と言う裏話を聞いたことがあります。

 D. 訛りのない英語って、何?

 以上からお分かりのように、特定の英語話者が、自分の話す英語訛りAから、自分の話さない英語訛りBへ切り替えるには、相当に厳しい訓練が必要です。では、英語以外の言語を母語とする人が、初めて英語を学んで、どの訛りにも属さない、それでいて、国際標準の英語を身につけることは可能なのでしょうか。もしそれが出来れば、訛りが、何らかの程度にコミュニケーションの障害になるのを防ぐ効果が期待できます。

 端的に言って、それは可能です。外国語としての英語を学び、自分の国の訛りも含めて、いかなる訛りにも影響を受けず、いずれの訛りにも属さない中立地帯に立って、国際標準の英語を身につけることは、実は、十分に可能です。それは、いわば無国籍で文化的に無臭、そして思想的に無色透明な英語かもしれません。でもこの英語は、ある一定のレベルに達すれば、あらゆる国際的な交渉、取引、議論などに、縦横無尽に使うことができます。もちろん、日常レベルのコミュニケーションを超える、専門性の高い学びや、専門分野の議論に参加するには、別途、多くの訓練が必要です。たとえば、目指す分野の多量の文献を読み込む必要があります。しかし、外国語として、癖のない英語を学び、一定のレベルに達すれば、その英語は、訛りがない分、癖や歪みもなく、どの国の誰に対しても、分かりやすい英語なので、英語を使ったコミュニケーション一般において、信じられないほどの威力を発揮する可能性があるのです。

 でも、訛りのない英語って、なかなかイメージしにくいですね。ラジオやテレビの司会者の話す言葉は、どの国の司会者であっても、その国の言語の標準条件を満たしています。日本放送協会、すなわち、NHKのニュース番組のアナウンサーのしゃべる日本語は、特訓のせいで、どの地方の訛りも感じさせません。英語において、NHKのアナウンサーの日本語に相当するのは、イギリスBBCの司会者たちの英語です。それは、アメリカ英語、オーストラリア英語、インド英語などに対して、本家本元の英語であると、自他ともに許しているのが、BBCだからです。でも、私が敢えて提唱したいのは、必ずしも、BBCの英語ではありません。また、CNNの英語でもありません。あえて言えば、それは「無国籍の」標準英語です。

 実はこんなエピソードがあります。私は三十年以上も前、家族ともども英国に滞在中、子供が熱を出し、最寄りのクリニックで診てもらいました。症状を簡単に英語で報告していると、担当の医師が、突然、"Your English has no accent!" と言いました。子供の病気とは関係のないコメントなので、私はあえて何も返事はしませんでした。医師もそれ以上は何も言いませんでした。でも、内心はっとしたことを今でもはっきり覚えています。不意を突かれて、その言葉の真意が理解できなかったことも事実です。ただ、私の英語の発音がおかしいとか、聞きずらい、などという否定的なコメントでないことは瞬時に分かっていました。実は、ご承知のように、"accent" という言葉には、「強勢」と言う意味の、いわゆるアクセントの他に、「訛り」と言う意味もあります。「あなたの英語には訛りが全く無いですね。」 と言う一種の「言語診断」だったのです。以来、その言葉を折に触れて反芻する機会がありました。今ではこう考えるようになりました。自分の英語は、有体に言えば、無国籍だ。けれども、ポジティブな面もないわけではない。分かりやすく、癖がないので、敢えて名辞矛盾的な命名をすれば、「無国籍型標準英語」なのかもしれない、と思うようになりました。

 それは、すべての方言や訛りから、意図的に、等距離の地点に身をおくことで、初めて手に入る種類の英語です。言い換えれば、既存のどんな権威にも媚びない、自立した、毅然たる英語をマスターする、と言う意味です。それは、英語でのコミュニケーションに必要な、発音、文法、語彙の総てにわたって、私が推奨する多岐にわたる一連の訓練やノルマのすべてをクリアーした時、学習者が自然に到達できているはずの英語であり、また、その水準なのです。

2.英語のリズムをつかむ

 私の言う標準英語をマスターするには、すべての英語の方言や訛りから、意図的に、等距離に身をおくべきだと申しましたが、実は、これと正反対の方法が、結果的に、目的を達成することがあります。それは、これだと思うお手本があれば、それがアメリカ英語であれ、イギリス英語であれ、カナダ英語であれ、そのままそっくりまねるという方法です。「これだ」と思う英語は、自分がその中に理想のリズムを見ている証拠です。私はかつてNHKのラジオ英語講座を聞いていました。中学生の私は、その英語にいたく感動し、それをそっくりまねしました。個々の単語の発音は勿論、息継ぎからイントネーションにいたるまで、そっくりまねようとしました。また、大学生のときにはリンガフォンを毎日飽きもせず聞き、そっくりまねしました。別の機会には、シェイクスピアのドラマが録音されているレコードを借りてきて、下宿で何度も聴きました。そのリズムに身も心も魅了されたからです。また、毎日ラジオの米軍放送に耳を傾けました。それから、ケンブリッジ大学出身の若い詩人の英語の授業に魅了されたこともあります。また、YMCAの英会話学校で教えるカナダ人講師の英語を学んだ経験があります。その英語は、何の癖もなく、それでいて品格のある英語で、ご本人も、素晴らしい先生でした。また、聞きやすいアメリカ英語でしゃべる アメリカ人牧師による、週一回の聖書クラスに、一年ほど通ったこともあります。それらはみんな素晴らしい学びの機会でした。こうなると、手当たり次第になんでも食べる、雑食の勧めのようですが、魅了される、と言うことがポイントです。とことん惚れ、夢中になって吸収した英語は、結局、すべて自分の血肉になるのです。ですから、その時々に自分が最も必要としている栄養をしっかり吸収できたかどうかが問題なのです。向こうからやってくる機会に身を任せ、その音に聞きほれることが、英語のリズムを会得する王道であり、結局、英語学習の一番の近道なのです。

 その都度、音のすばらしさに惚れ込んで真似る、と言う方法に勝る英語リズムの習得法はありません。ある程度、自分でも自信がつくと、この経験を活かす意味で、逆に、学生諸君に対して私が英詩を音読することもよくありました。ワーズワースでもウイリアム・ブレイクでも、代表作を私が音読して聞かせました。音読は実は非常に大切な部分です。でも、なぜそれが大切なのでしょうか。例を挙げて説明してみましょう。

 たとえば、Shall I compare thee to a summer's day? と言えば、ある有名な詩(=シェイクスピアのソネット第18番)の最初の一行です。吉田茂の息子の吉田健一は、卓抜な評論で知られ、英国人が最も信用した日本の文学者ですが、彼がまだ、これが誰の作品かも知らない若いころ、ロンドンのとある街角でふとこの詩行を目にし、途端にその美の虜になった体験を、ある本で語っていました。実際、この詩行の美しさに触れるのは、そしてその美しさに目覚めるのは、本当に至福の瞬間です。ああ、生きていてよかった、と言いたくなるほどのかけがえのない体験です。でも、この詩が何人の日本人の目に触れるでしょうか、また、その良さが何人の日本人に分かるでしょうか。英語を英語たらしめる英語本来のリズムが、予め、自分の身体に入っていなければ、この詩行のリズムに即応することは不可能だからです。例えば、日本語の訳を見て、なるほど美しい、と言うのではいささか遅すぎます。それでも、この詩行の意味を確認することは重要です。「君を夏の一日に譬えてみようか?」と吉田健一は、思い入れたっぷりに訳しました。ただし、compare A to B は、現代英語だと、吉田訳のように、AをB に譬える、と言う意味ですが、この詩が書かれた16世紀末から17世紀初頭のころには、今日の compare A with B、すなわちA をB と比較する、と言う意味が一般的でした。それに従うと、「君を夏の一日と比較してみようか?」となります。

 この一行は、英詩を代表する有名な詩の書き出しなのですが、シェイクスピア一流の、人の魂をとろかすような、甘い蜜の味を持っています。これは「詩人」(必ずしもシェイクスピアその人ではない)が「若い貴公子」(誰なのか分かっていない)に結婚を慫慂する(=勧める)18個のソネットの最後を飾る詩で、その美貌にすっかり惚れ込んだ詩人は、結婚によって次世代に君の美貌を残せないなら、自分が詩の中に(=自分が今書いているこの詩の中に)その美を刻印するからね、そうすれば、その美は永遠に生きるだろう。そして、死(神)さえ、君が黄泉(あの世)をさまよう、と勝ち誇ることはあるまい、と自負しますが、数百年後の今日から見て、その予言は見事的中してしまったのを確認することができます。なるほど、有言実行、誠に稀有な作品です。

 この詩のリズムの精妙さは、中々一言では語りつくせませんが、これを黙って聞き、そのリズムに身を任せることは誰にでもできます。英語のリズムを体得する上で、この詩が果たしうる役割は、決して小さなものではありません。英語のリズムを自分の身体に流し込むのに打ってつけのテキストとして、この詩は十分に人の役に立ちます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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