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英語のリズムを学ぶ その1

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英語のリズムを学ぶ その1

英語のリズムを学ぶ その1

2022/02/02

a. アクセント

第二課題: 強勢(アクセント)と律動(リズム)について

  日本人の英語がともすればフラットで、やや不愛想に聞こえる傾向があるとしても、私たちは、御存じのように、元来おおらかな国民です。ですから、私たちの話す日本語が特にフラットであるわけではありません。ただ、英語にカタカナでルビを振って発音する癖がついた人は、ある程度うまくなった後でも、日本語の癖に引きずられて、その人の話す英語がフラットに、また幾分、不愛想に聞こえてしまうのです。

 そこで、日本人も、ネイティブの英語話者にそれほど劣らない程度に、時と場所を弁えつつ、表情豊かな英語をしゃべるにはどうすればよいのでしょうか。それには、英語のリズムの構造、言い換えれば、日本語にはない英語独特のリズムが、一体、どのようにして生まれてくるのかを理解する必要があります。英語のリズム構造を学び、英語独特のリズムを生み出す仕組みが分かれば、必要な発音練習メニューを用意することができます。そして、この訓練メニューをこなすことで、誰でも自然に、自分の気持ちを英語のリズムに乗せてしゃべることができるようになるのです。イントネーションについても、何かの出来合いのパターンにそって、取ってつけたような機械的な抑揚でしゃべる必要はなく、気が付けば、いつの間にか、英語に不可欠なリズムの延長上に、適切なイントネーションが自然に湧き出てくるのです。

 しかし、勿論、これには少々手間暇がかかります。まずは、英語のリズムを構造的に理解することであり、併せて、理解した英語のリズムを、例文などで体得する訓練が必要です。そして、さらに、英語の書物を多く読み、英詩を読み、英語のスピーチを聞く必要があります。

 さて、英語のリズムの習得の第一段階は音節の正しい理解です。英語にとって音節とはいかなるものなのか、つまり音節の役割を理解しなければなりません。次に、英語のアクセントを学びます。ただし、これと並行して、日本語とは異なる個々の子音や母音の特質を理解し、それらの正しい発音を口に覚えさせることが必要です。なぜなら、英語の単語は、ほとんどの場合、日本語にはない子音や母音の組み合わせとして、出来上がっているからです。個々の単語を、アクセントを含めて、正しい発音ができるように徹底して練習し、知っているすべての単語の発音が自然に聞こえるまで必要なドリルを重ねます。

 ここまで来るだけでも、実は、かなりの努力が必要ですが、無事、この段階まで進んだとき、人は、初めて、文が持っているリズムに意識を向けることができます。建物で言えば、ここまでが基礎工事です。地面に打ち込んだ鉄骨やコンクリートの基礎に相当します。この上に文章が乗っていきます。分厚い立派な書物も、名演説の草稿も、この基礎の上に立って書かれるのです。英語のリズムは文単位で現れてきますが、話されたり書かれたりした文は、それらの文を支える各単語に、意味もリズムも、基礎をおいています。私たちは、オンライン学習で、これらの基礎を学び、その上で、効率よく、英語のリズムがもっている本来のインパクトを各自が実感できるようになることを目指します。

 以上が全体の見通しですが、今日は、前回のブログで述べた音節に関する解説を踏まえて、英語のアクセント、すなわち強勢アクセント(stress accent)について、その基本を学びます。アクセントは、単語の発音を完成させるための最後のピースです。

 ところで、英語のアクセントは、実は、日本語のアクセントと比較するとき、明確にその本質を理解することができます。そもそも、日本語にアクセントはあるのでしょうか。もしあるとすれば、それは英語のアクセントと同じでしょうか、それとも異なるのでしょうか。

 答えはこうです。まず、日本語にもアクセントはあります。しかし、日本語のアクセントは、強勢アクセント(stress accent)ではなく、高低アクセント(pitch accent)です。つまり日本語のアクセントは、音の強弱ではなく、音の高低の差で語の区別をします。例えば、「橋」や「端」は、「は」と「し」が同じ高さの音で繋がっていきます。しかし、「箸」では、「は」の方が「し」よりも少し音程が高いのです。同様に「柿」は「か」と「き」が同じ高さの音であるのに対して、「花器」や「牡蠣」では、「か」の方が「き」よりも少し音程が高いのです。これに対して、英語のアクセントは強勢アクセントなので、例えば、present の場合、「出席している」とか「現在の」と言う意味で使う場合は、pre-sent と前半を強く発音し、「紹介する」とか「贈り物をする」と言う意味で使う場合には、pre-sent  と後半を強く発音します。また、ホテル(hotel)は日本になってしまっている語で、ローマ字表記すれば、ho-te-ru ですが、正しい英語発音は、ho-tel と、後半の音節にアクセントを置いて発音します。また、同根の語群では、品詞の変化によってアクセントの位置がずれていきます。例えば、pacify (動詞)、pacific (形容詞)、pacification (名詞)などがそうです。

 他方、日本語の高低アクセントでは、文単位、あるいはフレーズ(句)単位で、その場の雰囲気や、醸し出されるべき空気感に応じて、ピッチが変わります。例えば、『水戸黄門』のクライマックスで、髭を生やした黄門様が、「助さん、格さん、懲らしめてやりなさい。」と言い、しばらく勇壮な立ち回りがあった後で、「助さん、格さん、もういいでしょう。」というと、格さんが懐から葵の紋の入った印籠を取り出し、高く掲げて、「 鎮まれい。鎮まれい。えーい、この紋所が入らぬか!」と叫び、すぐに、「こちらにおわすお方をどなたと心得る?恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公に在らせられるぞ。」と言います。次いで、一呼吸おいて、今度は、助さんが、ダメ押しのように、「一堂、ご老公の御前である。頭が高かーい控えおろう!」と、決め台詞を放ちます。(引用部分の黒で示した部分は標準の高さで、赤で示した部分は標準より高く、青で示した部分は標準より低く、発音されます。)テレビの視聴者は、この聞きなれた決め台詞の持つ、小気味よいピッチに自分の気持ちを乗せることで、寸分の狂いもなく醸しだされる独特の空気感に圧倒され、息をのみ、魅了されるのです。

 これに対して、英語のアクセントは強勢アクセントですから、発音されたそれぞれの音節の相対的な強度の差で、アクセントの位置を人に知らせるのです。例えば、platformは、plat-form と言うように、platが強く発音され、formは弱く発音されます。肝心なことは、英語の単語の場合、アクセントは語の一部であって、多音節語は、母音の部分に強弱のメリハリをつけないと、語として認知されないということです。ただし、音節を一つしか持たない語、すなわち単音節語では、音節間の強弱は考えられず、語の内部のアクセントはないと判断されます。そのような語は、与えられた子音や母音をしっかり発音すれば通じます。例えば、dogもcat も、子音+母音+子音という構造を踏まえ、順番に子音および母音を発音すれば意味はしっかり通じます。また、desk では、 sk と子音が重なるところがありますが、母音は e に一つあるだけなので、一音節(=単音節)の単語です。したがって、アクセントの有無は問題になりません。)

 以上をまとめると次のようになります。英語のアクセントは、多音節の語に関してのみ現れる現象であり、その要諦は、「二音節以上の音節、すなわち、多音節からなる単語は、それらの音節のうち、いずれか一個の音節に、アクセント(強勢)が置かれ、残りの音節には、原則として、アクセントは置かれない」ということです。

 ここで、アクセントの置かれる音節を強音節、アクセントの置かれない音節を弱音節と呼ぶならば、すべての多音節語は、一個の強音節と、一個以上の弱音節とで構成されます。そこで、例えば request の場合は、re-quest と言うように、quest にアクセントが置かれ、同じく二音節語のquestionの場合には、ques-tion と言うように、ques にアクセントが置かれます。

ここまでは、学校教育でも教えます。アクセントの位置を問う問題に答えるためには、ここまでの知識は必須です。けれども、英語を本格的に学ぼうとする日本人には、ここから先がむしろ肝心と思ってください。では、ここから先に何があるかと言えば、リズムです。では、リズムとは何でしょうか。

b. リズム

 リズムが何であるかは、日本の詩歌に現れるリズム(音数律)を見ることで分かってきます。五七調とか七五調とかいう言葉がありますが、日本人は、五音と七音でリズムをとるのです。例えば、「火の用心、マッチ一本火事のもと」という標語があります。「火の用心」は五音に数えてよいでしょう。「マッチ一本」は七音に数えます。「火事のもと」は五音です。リズムは五に始まり、七で盛り上がり、最後にもう一度、五に戻って、全体を締めくくります。

 これが俳句由来のリズムです。芭蕉の「静かさや、岩にしみいる蝉の声」では、「静かさや」と詠い出し、「岩にしみいる」でクライマックスを迎え、「蝉の声」で一歩引いて、詠い納めます。俳句におけるリズムは、句切れを上手に使って、イメージと感情を盛り上げ、全体をひとつながりの大きなリズムに包みながら、感情の波をコントロールします。それは、あるパターンに収まる一つの纏まった音の世界なのです。

 ここで大切なポイントは、日本語のリズムは、音の数のボリュームを、大小に割り振ることで、うねりを得る手法が用いられる、ということです。五音か七音かを聞き分ける耳が必要ですが、その前提となるのは、一音の長さの相対的な同一性です。早口でしゃべる人と、ゆっくりしゃべる人とでは、一音にかける時間はずいぶん異なります。しかし、しゃべっている個人の内部では、一音の長さは一定です。「それがですねえ」という日本語を1秒でしゃべる人はずいぶん早口です。しかし、どれかの音が他よりも何倍も長く発音される、などということはありえません。

 ところが、不思議なことに、英語では、ある纏まった音の塊(単語や句、また文)について、必ずいずれかの音節を長く、大きく発音する癖があります。例えば、「田中さん」を英語で言うとき、「ミスタ、タナーカ」となり、「山本さん」は「ミスタ、ヤマモート」となります。また、in Ngasaki を日本人が発音すると「イン・ナガサキ」となりますが、英語母語話者は、大抵、「イン・ナガサーキ」と発音します。

c. ハムレットの独白と英語のリズム

 では、英語のリズムはどのように構成されるのでしょうか。わかりやすい例として、シェイクスピアの有名な悲劇『ハムレット』の主人公ハムレットが、劇を丁度二分する劇中劇の少し前、すなわち、第三幕第一場の冒頭近くでしゃべる次の一文を見てみましょう。

To be or not to be, that is the question. (生きるのか、それとも死ぬのか、それが問題。)

これは、シェイクスピアの四大悲劇の一つ、『ハムレット』の中で、主人公ハムレットが観客に向かって放つ、いわゆる「四大独白」の三番目、すなわち、有名な「第三独白」の最初の一句です。

 独白は当時多用された演劇的趣向の一つで、劇中人物が舞台に一人で立ち、自分自身に話しかける独り言、心の中の自問自答のことです。小説における主人公の内面描写に相当します。ハムレットのいくつかの独白は、劇のターニングポイント、すなわちストーリー展開の要所で、主人公が舞台に一人で立ち、自分の胸の内を、観客に知らせます。

 勿論、主人公は、そのとき、観客を意識してはいません。しかし、主人公の独白は、その時々の主人公の心の動きや感情を、観客に直接届ける演劇手段なのです。この手段を通じて、主人公の屈折した激しい感情や、疑惑、窮状などが切々と観客に向かって訴えられます。主人公の心の動きは、それを如実に反映した英語のリズムによって、観客に浸透し、観客の心を共振させます。例えば、主人公の苦しい心の内を、そのまま、観客に伝えます。ですから、ハムレットのすべての独白、そして特にこの第三独白は、ハムレットがその主人公である演劇『ハムレット』のまさに心臓であり、そのリズムは、心臓の脈動そのものなのです。

d. ハムレットを悩ます問題は何なのか?

 そもそも、英語のリズムは、英語を口にする者の心のありようを、如実に伝えるものだということです。たとえば、英語の歌や英語の演説も、歌詞やスピーチ原稿に込められた思いや感情を、その熱量とともに、的確に人に伝えます。一般に、言葉のリズムが言葉を発する人の心を別の人に伝えるのは、英語に限りません。どんな言語であっても、その言語に特有のリズムがあり、特有の形式に則って、人の思いが他者に伝わります。リズムと思いとは一体なのです。逆に、人の心のありように迫ることは、その人の発する言葉のリズムの源を知ることになります。こういうわけで、有名な To be or not to be, that is the question. という一文には、悲劇『ハムレット」の主人公の万感の思いがこもっています。この一文のリズムは、この言葉を発するハムレットの心と等価なのです。ですから、リズム分析は、心理分析と不可分なのです。また、心理分析の伴わないリズム分析は、ハムレットの独白の場合、明らかに片手落ちになります。

 第三独白は、主人公ハムレットが、乾坤一擲、伸るか反るかの、人生の岐路に立って、自分の生き方と、それと裏表のようにくっついている生死を、真正面言から問題にしている場面です。一つには、亡き父の仇、叔父のクローディアス、を討つべきか否か、と煩悶しているのですが、それは人の命を奪う行為であり、誰でも平静ではいられません。ですから、仇とは言え、一人の人間の殺害行為をためらい、武者震いしたり、ビビっているだけなら、観客にも十分その心情は理解できます。しかし、それだけのことなら、わざわざ演劇に取り上げるほどのことでしょうか。少なくとも、劇の分水嶺において、言い換えれば、演劇的な緊張の頂点において、独白させることではないはずです。

 仇を討つのをためらうかに見えるハムレットの煩悶の核心は、その口ぶりから、何かもっと重要なことが他にあったはず、と考えるのがむしろ自然です。ハムレットを悩ます、ハムレットに特有の問題は何だったのでしょうか。それは次の一点だったはずです。つまり、ハムレットが堂々と父の仇を討つためには、巧妙に隠されてきたクローディアスの犯罪の実態を、確たる証拠とともに、世間に暴露する必要があったという点です。突如、理由もなくクローディアスを殺害したのでは、世間から見れば、ハムレットの邪推が生んだ一人芝居、卑怯な闇討ち、言い逃れのできない凶行、狂った犯罪行為とみなされるほかないからです。

 ここで重要なポイントは、シェイクスピアが依拠したとされる『原ハムレット』の原話であるデンマークの説話では、アムロジ(ハムレットの前身)の父親であるデンマーク王は、アムロジの叔父のフェン(クローディアスの前身)に、衆人環視のもとで殺害されており、背景の事情も、当時の状況も含めて、犯罪はすでに確立した事実でした。ですから、原話の主人公アムロジは、一体どのような巧妙な手段を用いて父の敵を討つのか、という一点にのみ、物語の読者の関心は存在していました。そこで、アムロジは、巧妙に偽の狂気を装って、「狂気」でなければ思いつけないはず、と人に思わせるような、世にも秀逸な警句を発しながら、疑い深い叔父を煙に巻き、隙を伺うのですが、すでに述べたように、叔父フェンの犯罪を暴く必要は全くありませんでした。これに対して、シェイクスピアの『ハムレット』の筋は、原話とはおよそかけ離れています。

 これは非常に重要なポイントです。ただ、ここには、シェイクスピアの批評家たちの間での意見の相違、驚くべき解釈の錯綜という、『ハムレット』批評史上の大きな問題が横たわっています。それは、「ハムレットはなぜ復讐を延ばしたのか?(もっと早く仇を殺害していれば、あのような悲惨な悲劇は避けられたのに。)」という疑問です。そして、すでに述べたように、ハムレットは、アムロジとは全く異なる問題に悩まされていた、という点を考慮するなら、これまで、復讐の遷延のテーマにひっかけて論じられることの多かった第三独白の解釈も、全く異なってきます。

 たしかに、ハムレットは亡霊の言葉の真実を芝居によって確かめた後、すなわちクローディアスが犯人だとの個人的な確信を持った後でも、父の仇のクローディアスを殺すことをためらい、後回しにする場面があります。「劇中劇」を観た後、クローディアスが良心にさいなまれ、一人で神に祈っているときに、ちょうどそばを通りかかる場面です。ハムレットはチャンスとばかりに刀を抜きかかりますが、祈っているときに殺してしまっては、クローディアスを天国へ送り届けてしまう、もっと確実に地獄へ送れる機会を待とう、と「独白」をしながら、すでに呼ばれていた母のところへ行く場面です。そこで、18世紀から20世初頭にかけて、ゲーテをはじめ、世界中の名だたる文人や批評家たちの間で、ハムレットが復讐を先延ばしにしたのは、ハムレットという青年は心優しい理想家で、復讐などという野蛮な行為の要求される使命には、もともと不向きだったとか、ハムレットには、ありとあらゆることを細部まであれこれ考え抜く、際限のない思索癖があったからだ、などと「推測」されてきました。復讐がいたずらに遅延し、結果的に、主だった登場人物がことごとく死に、デンマークという国家までもが滅びる(隣国の支配下に置かれる)、という途方もなく大きな、取り返しのつかない悲惨な事態を招来したことに耐えられない人たちが、精神分析まで持ち出して主人公やシェイクスピアの心を丸裸にし、「ハムレット=優柔不断」という公式が成立するほどに、ハムレットを徹底的に断罪し、大いに留飲を下げようとしたのです。

 でも、一向に収れんを見ない彼らの議論は、どこかが根本的に間違っています。例えば、彼らは、余りにも軽々しく、犯人がクローディアスである、と決めてかかっています。確かに、劇の終わりには、それを疑う人はいません。でも、どうしてそうなったのか、そのプロセスを調べた人はいるのでしょうか。よく『ハムレット」というドラマを読んでみてください。劇の初めには、デンマーク国民の誰一人として、クローディアスが犯人だという人はいませんでした。疑う人さえいませんでした。ですから、クローディアスの犯罪を証明する証拠は何一つありませんでした。「疑う余地のない明白な犯罪」という批評家たちの「小説の読後感」的な安っぽい前提がもし全面的に崩れたら、この手の議論は全面崩壊するのです。

 実は、『ハムレット』の物語は、『原ハムレット』と異なり、そもそも王の殺害などという途方もない大罪が存在したなどと、デンマーク中の誰一人疑っていない状況から始まるのです。一体、クローディアスは、本当に疑う余地のない殺人犯なのでしょうか。そうだとしても、それはいつ、どのようにして、人々の前に明らかになるのでしょうか。これこそ、『ハムレット』の最大のミステリーなのです。そして、そこにこそ、この作品の真のテーマが隠されているのです。『ハムレット』の筋を辿りなおしてみましょう。

e. 『ハムレット』の筋

 自分の父であるデンマーク王の死の知らせを聞いたハムレットは、留学先のウイッテンベルグ大学から急遽帰国します。ところが、そのときには、ハムレットの叔父、クローディアスは、王妃である自分の母親、ガートルードに結婚を申し入れ、二人の結婚を承諾したデンマーク宮廷の廷臣たちの前で、結婚の報告を行い、すでに手回しよく、王位に就いています(第一幕、第二場)。

 ところが、そのころ、ある異変が起こっていました。三晩続けて亡き王の亡霊が城壁の見張りの場所に出現し、見張りの兵士たちがそれを目撃したのです。その話は、ハムレットと前後してデンマークを訪れていたハムレットの親友ホレイショーに伝わり、ホレイショー自身も見張りに立って亡霊を見ます(第一幕第一場)。あくる日の朝、ホレイショーたちからそのことを聞いたハムレットは、兵士たちとともに深夜に見張り台に立ち、その亡霊に会います。手招きする亡霊に付き従い、誰もいないところで、その亡霊から、クローディアスこそ、果樹園で自分の命を奪った「毒蛇」だと告げられます。亡き父を名乗る亡霊は、自分は果樹園での午睡の最中に、弟のクローディアスから、耳に猛毒を流し込まれ、あえなく命を落としたのだというのです。これは、デンマーク王ハムレットは、果樹園で寝ているとき、毒蛇に噛まれて不慮の死を遂げたという、公式の話とは似ても似つきません。 (第一幕第四場、第五場)。

 これを聞いたハムレットは、強く心を動かされ、亡霊に命じられるままに、父親の復讐を堅く誓いますが、肝心の物証は何一つありません。ハムレット自身、このことを気にしており、「亡霊」は父の姿を取って現れた悪魔かも知れない、悪魔は弱い人の心に付け込み、嘘で釣って、奈落の底に引きずり込むことがあるから、と疑う台詞もあります。繰り返しますが、クローディアスの犯罪を裏付ける証拠は、ハムレットにだけ語った亡霊の証言以外、全くないのです。ハムレットのミッションは、この途方もない無理難題を解いて、その後きちんと、大義名分の立つように復讐を行う、ということなのです。そして、これこそがシェイクスピアの『ハムレット』なのです。この難題を命を賭してやり遂げてこそ、主人公ハムレットなのです。ハムレットの数々の名セリフも、この緊張の中からしか生まれ得ないものなのです。

 さて、ここから二か月ばかりいたずらに時がたち、ハムレットが悶々としているところへ、旅回りの役者の一座がデンマークを訪れます。芝居好きでもあったハムレットは、彼らに頼んで、亡霊から聞いたとおりの筋立てをもつ「ゴンザーゴー殺し」という芝居を、クローディアス夫妻の面前で演じさせることにします。そして、「自分の犯罪に似た筋を持つ芝居」を観たクローディアスの表情に、何か怪しい変化などが起こらないかどうか、親友のホレイショーとともに観察することにしたのです。

 芝居とは言え、自分が犯した犯罪にそっくりな筋立ての芝居を見せられたなら、犯人は多分、度肝を抜かれ、周章狼狽するはずであり、それで真相が明らかになる、という判断でした。すると、クローディアスは、まんまとこの罠に引っ掛かり、大声をあげて芝居を途中でやめさせます。ハムレットはこれで、亡霊の言葉に確信を持ちます。

しかし、クローディアスも、ハムレットに対して身構え、直ちに彼を、転地療養と称して、イギリスへ送り、到着次第ハムレットを殺すよう英国王に頼む密書を、付き添いのものに持たせます。

f. ハムレットは果たして優柔不断か?

 さて、問題の第三独白は、芝居の前半と後半をつなぐ結節点、嵐の前の静けさのような、一種微妙な宙釣りの位置に、一際見事なアーチのように置かれています。つまり、主人公が劇中劇の案を思いつき、その実行を旅回りの役者たちに頼んだ後、それが実行されるまでの間に置かれているのです。この位置に着目すると、ハムレットとその一家に起こった悲劇は、すぐにクローディアスを殺さなかったハムレットの優柔不断な性格のせいだとする、19世紀から20世紀にかけて唱えられた説を論破することができます。

 ハムレットは、第三独白の前に、「ゴンザーゴー殺し」の芝居を旅回りの役者たちに演じさせる計画を立てています。優柔不断どころか、一瞬の判断で、一瞬も時を移すことなく、危険を顧みず、友人のホレイショーと組んで、難局を打開する起死回生の一手をすでに打っているからです。この時点での独白なら、主人公ハムレットは、今さら、復讐を思いとどまるべきか否か、などと、弱気になっているのではないことは確かです。

g. ハムレットの煩悶の中身

 ここでもう一歩踏み込んで、ハムレットの煩悶の中身を確認しておきましょう。復讐という行動を前提にしたとき、シャーロック・ホームズでも手の施しようがないほどの難問が行く手を阻んでいました。亡霊の話は根も葉もない作り話かも知れない、という疑問にさいなまれるハムレットは、旅回りの役者がデンマークを訪問したとき、一種の心理作戦を思いつきます。亡霊に聞いた通りのストーリーを持つ芝居を王の目の前で上演させ、その反応を見る、という作戦です。果たして亡霊の言う通り、クローディアスは犯罪者なのか、犯罪者だとしても、どこにその確証を求めるべきか、という難問が、これによって、少なくとも自分の心の内では解消されるはずです。なぜなら、ハムレットが「ネズミ捕り」と名付けた劇中劇の上演で、必ずや事件の真相に迫ることができるはずだからです。この意味において、ハムレットはすでに一歩足を踏み出し、危険を伴う行動を起こしています。

 でも、ハムレットにとっての本当の問題はその後に控えています。つまり、これから先、紆余曲折はあっても、一連の行動の末に、首尾よく復讐は果たせるかもしれませんが、そこに至るまでの行動次第で、自分の「死後の運命」が大きく変わるかもしれないからです。

 第三独白のハムレットは、復讐を思いとどまるべきか否かではなく、「復讐をめぐるごたごたが終わった後、自分は存在するのか、しないのか」という、復讐者の運命、「神の裁定が下る時の、自分の魂の行く末」を心配しているのです。

 ここで、第三独白の冒頭の一文に話を戻しましょう。彼は一体、どのように自分の悩みを吐露しているのでしょうか。

 独白冒頭のto be は、いわゆる「to付き不定詞のbe」であり、勿論、be は「be動詞」の原形です。ところで be は、一般的に、「存在」を表す動詞です。では、ここでは、誰の、あるいは何の、「存在」を表しているのでしょうか。

 それは、明らかに、心の中で思いを巡らしている、ハムレット自身の「存在」です。であれば、これは Am I going to be or not to be?と言い換えることができます。ここから、「果たして自分は、この後、存在することになるのか、それとも存在しなくなるのか」という疑問がハムレットを悩ませていることが分かります。すぐ後で、「あの世」への言及があることからもわかるように、ハムレットは、この世での生死にこだわっているのではなく、もし「あの世」が確実に存在するとすれば、「この世」で人に復讐した者の魂は、果たして「あの世」での存在を(神に)許されるのか、それとも許されないのか、それが問題だ、と言っているのです。

h. 「復讐するは我にあり」

 ここでは、「復讐するは我にあり」という聖書の言葉も同時に思い出されます。親の仇を打たなければ面目を失い、世間から「腰抜け」「卑怯者」「意気地なし」と蔑まれることを覚悟しなければなりません。でも、復讐は神から禁じられています。神の裁きの方が、実はもっと怖いのです(「後生」が大事)。ここにジレンマがあります。

 ですから、この隘路に放り込まれた主人公ハムレットの、のっぴきならぬ心境を、シェイクスピアが、得意の「弱強五歩格」(iambic pentameter)で、真正面から謳いあげたのが、ハムレットの第三独白なのです。ハムレットの優柔不断な性格を印象付けるためではなく、一見、彼を優柔不断にさえ見えさせるほどの、人間なら避けがたい、究極のテーマが、二者択一として、ほかならぬ私たちに、切っ先鋭く、突き付けられているのです。

 その証拠に、緊迫した議論のどの一点においても、彼の魂はおののきません。第独白の、心の深部を抉るような沈思黙考のどの一瞬にも、彼は後ろ向きになってはいません。のっぴきならぬ状況を勘案する行動者の意識、自分を客観的に見つめようとする、醒めた自覚があるのみです。

 繰り返して言えば、究極の問題は、死後の自分の魂の健やかな存在を確保できるかどうかなのです。「ゴンザーゴー殺し」の芝居の実行を悩んでいたのなら、優柔不断の性格が問題になります。そうではなく、実行した後の自分の魂の在りかを心配するのは、神を信ずる人間なら、ごく自然な心配です。

i. 三重に強調される “question” とそのリズム価

 さて、ハムレットの第三独白は、彼の他の大部分の台詞同様、「弱強五歩格(iambic pentameter)」で書かれています。この韻律は、10個の音節からなる一行に、弱音節(弱く発音される音節)と強音節(強く発音される音節)が、交互に五回繰り返される形式(無韻詩=blank verse)です。

 ところで、この有名な独白の最初の一行の最後に、私が前回のブログで問題にした二つの英単語の中の後者、すなわち question が置かれています。この行全体の中で、この語だけが多音節語で、先に見たように、ques の部分が強く発音され、tion の部分は弱く発音されます。ですから、全体は、to (弱)be(強)or(弱)not(強)to(弱)be(強)that(強)is(弱)the(弱)ques(強)tion(弱)となります。

 詩形の要請から言えば、thatは弱音節、isは強音節となるべきですが、thatは「それこそが~だ」というように、意味の上で強調されるため、ここでは強く発音するのがむしろ常識です。するとしかし、、そのあおりを食って、is は相対的に弱くなり、弱音節になります。また、次のtheは冠詞ですから、もともと弱く発音されます。こうして、that is theの部分は、本来ならば、弱、強、弱、となるところを、強、弱、弱となります。そして、that にかかる時間と、is the にかかる時間とはほぼ同じになります。

 ところで、弱で始まった詩行は、本来なら、五回の「弱強」を繰り返して収束するため、最後の音節、すなわち10番目の音節は、強音節なのですが、実際は、tionが字余りのように11個目の音節として、くっついています。

 しかし、question はques の部分が、詩形の上でも、単語内部のアクセントでも、さらには、文全体の意味の上でも、強調されるため、合計で「三重に」強調されます。その挙句、最後の余分な音節は極端に弱くなります。それはある意味、無視して差し支えないのです。 

A. 第三課題について

 すでに前節で大略明らかになった如く、第三独白の書き出しは、ハムレットの魂の苦吟の様相を呈し、「あれか、これか」の選択に悩んでいます。しかし、それはハムレットの個人的な悩みというよりも、人間の究極の選択に直結する類のものでした。独特の言い回しであるにもかかわらず、そこにハムレットの個性が、面目躍如として立ち現れているというよりも、人間の悩みって、全体を取りまとめてみれば、結局この選択に手繰り寄せられるのかもしれないと思わせる、根源的な説得力を漲らせていました。聞く者を、否応なく、引き込んでいく力に満ちており、深く思いを共有させる、論理とリズムの融合が見られました。

 でもそうなると、最後の一語、question は、一体どのような内包的リズムを持っているのでしょうか。

 私は、この語を四つの四分音符で表わすなら、最初の三個の音符はques にあてがわれ、残りの一個は tion に割り振られるべきだと思います。つまり、この語は二音節ではありますが、前半の音節は、後半の音節の三倍のリズム価を与えるべきと考えます。

 前節の最後で、question という語そのものが、ハムレットの独白の冒頭の一行の内部で、三重に強調されていることを見ましたが、本節の課題、すなわち一個の単語の内部のリズムの動きを見届けようとすると、questionの場合、前半の音節が、後半の音節の三倍のリズム価を持っている、という結論になるのです。

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