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仮定法って何?

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仮定法(subjunctive mood)
って何の役に立つの?

仮定法(subjunctive mood)って何の役に立つの?

2023/02/13

仮定法の便利な使い道

仮定法(subjunctive mood)と上手に付き合う方法について

1.仮定法(subjunctive mood)のわかりにくさ

 仮定法はどんな状況の下で使われるのか考えてみましょう。例として、「私」が「あなた」を、何らかの点で、手助けできるかどうか、に関する発言として、次の二つの文を比べてみましょう。

     1.   I hope I can be of some help to you.

     2.I wish I could help you.

 I hope ~ は、何かについて、その実現を期待しながら言う言い方なのですが、I wish ~ だと、何かについて、その実現が難しいことを、折り込んで言うときの、言い方です。1の文は、「何かお手伝いできることがあればうれしいです。(もしあれば喜んでお手伝いします。)」と、いう意味です。2の文は、「お手伝いできれば、どんなにかよろしいのですが。(残念ながら、お手伝いはできそうもありません。)」という意味です。1の文も2の文も「あなた」を助けたい気持ちは共通なのに、1は助けることを、大いに希望を持って考えているのに対して、2は助けたくとも助けられないことを知っているのです。一体どうしてこんなに意味が異なることになったのでしょうか。手がかりの一つは hope と wish の使い分けにあります。

 確かに、hope もwish も、日本語流に言えば、「希望する」とか「望む」という意味です。しかし、英語としての使い方にははっきり違いがあります。 hope は、実現可能性を信じ、まっすぐ未来に向かっていくイメージが強いのに対して、 wishは、どちらかというと、願い通りになるのは難しいと感じているとき、また神に願いを託すときに使います。

 他方、このニュアンスの違いを増幅させ、決定的なものにしているのが仮定法です。二つの文を比べてみると、can という助動詞 が、1の文ではそのまま、can という現在形で使われているのに対して、2の文では、現在形の can が、過去形の could という形で使われていますが、このcould こそ、英文法に言う「仮定法過去」なのです。しかし、ここでなぜ、「仮定法過去」 が使われたのでしょうか。仮定法過去はどのようなときに使うのでしょうか。

  ところで、「自分は学校や塾で仮定法について一通り学んだけれども、仮定法の何たるかがもう一つしっくりこない」と感じておられる方はいらっしゃいませんか。「そんなの簡単だよ。」と入試の難しい難関校を突破して、英語には大いに自信をもっている方が多くいらっしゃる一方で、「仮定法はもう一つ・・・。」と自信が持てないでいる方も、少なからず、いらっしゃるのではないでしょうか。

 そこでお尋ねしますが、「仮定法はなぜ、これほど立派な名称を与えられるほどに、重要なものとして扱われるようになったのでしょうか?」とか、「仮定法の一番の使い道は、何?」などと、疑問を持たれたことはありませんか。「そんなことはどうでもいい。一通り仮定法のことは分かっている。もうそれで充分さ。」ということでしょうか。それとも、「そんな突拍子もないことは考えたこともない。」と思われましたか?実は、私たち日本人が英語を学ぶ際、この程度のことは当然知っておくべきなのです。では、私たちが、仮定法の真実に一歩近づくためには、どうすればよいのでしょうか。

2.後出しじゃんけん的に考える

 ここは、戦略として、後出しじゃんけん的に考えてみましょう。仮定法という独立した名称があるくらいですから、仮定法には「仮定」ということをめぐる、独自の使命があるはずだと、まず最初に仮定するのです。それを基に、こう考えます。日常のコミュニケーションの中で、ここは仮定法だという独自の活動分野があり、その分野は、それ以外の分野から、すっぱり、ものの見事に切り離されているはずだ、と。つまり、仮定法の世界へ足を踏み入れる、その一歩手前までは、私たちは、これまで通りの普通の世界にいるのですが、或る限界を超えようとすると、これまでの世界との間を明確に仕切る、或る境界が目の前に現われ、これまで慣れ親しんできた、地上の重力の世界を離れて、未知の無重力の宇宙空間へ飛び出すときのような、一大変化が起こる、と予測するのです。でも、そうなると、急に、私たちは地上の世界の、普段の話しぶりを確認しておきたい、という誘惑に駆られるはずです。「私たちは普段、どんなふうに話していたのか?」とか、「私たちの普段の会話を全体的に際立たせる特色は何なのだろう?」などと言う疑問が湧いてくるはずです。この種の疑問に答えを見つけたい、という欲求は、先の予測と表裏の関係にあります。つまり、普段の会話の特色が分かれば、逆に、仮定法の世界の特色もわかるのです。

 これらの問いに対して、私はこう答えます。私たちは、事実(facts)の確認と、その共有(sharing)に、大きなウエイトを置いて日ごろ会話をしいる、と。朝起きると、新聞やテレビで、何か変わったニュースはないかと気を配ることから始め、隣人と出会えば、その日の天気予報を織り込んで時候の挨拶をし、内外の気になるニュースをめぐって友人、知人と世間話をし、仕事では、目の前の事実や懸案事項について、仲間や上司と相談し、行動プランをめぐって、必要な指示を与えたり、もらったりするでしょう。

 私たちの身の回りの人間関係において、情報の伝達、共有、共通の価値観の確認、学校や地域社会の中での行動規範の見直し、新たな目標の設定、合意形成、などには、周到な意見調整や議論が必要であり、その責務を担うのは私たちの言語です。

 ただ、私たちは意見の確認や議論のみに明け暮れているわけではありません。朝から晩まで、息継ぐ暇もなく、理性を働かせて、堅苦しく生きているわけではありません。だれでも、ある程度の心のゆとりを持って生きています。私たちは、当然のこととして、定期的に、気持ちをほぐします。気晴らしやリクレーションが必要だからです。例えば、囲碁や将棋、サッカー、野球などに打ち込んだり、それらの試合をテレビで観戦したり、仲間と冗談を言い合ったり、休日や祭日に旅行に出かけたり、買い物を楽しんだり、家族や友人とレストランで食事をしたりします。それらは、体と心の健康のために、とても大切です。

 でも、人生の暗く長いトンネルの中にいて、全く気が晴れず、友にも家族にも頼れず、何もかも八方ふさがりで最悪の気分のとき、人はどうするでしょうか。そんな時、人は自分の内面に入り込んでいくはずです。そして、自分一人の世界に沈潜したあと、ふと、力を抜いて、事実とは異なる仮定をします。「もしあの時~だったらきっとうまくいったはずなのに」と、言ってもどうにもならないとわかっていても、愚痴ってみるのです。どんなにかっこ悪くとも、全く構わずに、出まかせでいいから、負け惜しみを言うのです。また、「あの時、一瞬でも迷っていたら、もっと大変なことになっていただろう」と、ありえたかもしれない惨事を想像して、自分を思い切り慰めるのです。あるいは、「もしたった今、~だったらどんなにいいか」と、切なる願望を、敢えて、口にするのです。

 人は、明らかに事実に反すると分かっていても、仮定の話に聞き入ったり、SFなど、完全なフィクションの世界に長時間浸ったり、誰かのためにひたすら祈ったり、ときには、悪いとわかっていても、執念深く人を恨むことさえあります。人の心は常に穏やかなのではなく、時に、人に言えない苦しみを抱えて、懊悩し、惑乱するからです。何かに触発されて、急に何かをつぶやいたり、思わず大声で、きつい一言を言ってみたくなるときがあります。そのようなとき、英語ネイティブなら、一人の例外もなく、迷わず、口にするのが、仮定法(subjunctive mood)なのです。

 仮定法(subjunctive mood)は、確定的事実には属さないことであっても、一定の条件の下では、現在、もしくは未来において、想定だけはしうる事柄、あるいは過去のある時点に限ってなら、想定しえた事柄、に的を絞って言及する話法です。これに対して、日常の現実をしっかりと踏まえ、もっぱら事実と判断された限りの情報や意見のやり取りに終始する話法があります。それを英文法では直説法(indicative mood)と言います。すでに述べた通り、英語による日常の言語活動の大部分は、直説法(ただし、英文法では叙実法という言い方もあります)で賄われています。

 しかし、それにしても、直説法と仮定法という二つの話法が、まるで昼と夜ほどに明瞭に、英語において峻別されるのは何故でしょうか。この二つの話法の間には、一体どのような因縁のギャップが広がっているのでしょうか。

 日本人の英語学習者ならだれでも知っている通り、仮定法については、どの英文法書も、かなり丁寧に、例文をいくつか挙げて、わかりやすく説明しています。ただ、現実の様々な場面に応じた仮定法の実践的な使い方、きめ細かな注意事項については、必ずしも十分ではない印象があります。仮定法が、ほとんど自動的に作動して、有効に働く範囲、使い込んだときの驚くべき効用や効能、などについては、残念ながら、望ましい解説レベルにはないようです。

3.仮定法の重要性
 しかし、現実には、仮定法は直説法と変わらないほど日常的に使われており、その重要度も、直説法と少しも変わりません。でも、逆に、仮定法がそこまで重要と言えるとしたら、その根拠は何でしょうか。まず第一に、仮定法は、直説法の外側に位置し、直説法では対応しきれない要請や人の願望に、言葉を用いて、即座に、明確な想念を与え、時には、その想念にエネルギーを託すことで、心を癒し、時には、爆発的に心の鬱屈を晴らし、結果として、仮定法の適切な使用は、人の心の健康の回復につながるからです。敢えて俯瞰的な言い方をすれば、仮定法は、一般的特徴として、直説法の彼方に広がる、無限の仮想的世界に通じています。仮定法は、それを上手に使えば、人間の一生の伴侶とも言える私たちの言語世界を、確実に、そして大幅に豊かにしてくれます。

 一方、仮定法は、すでに述べた通り、日常の会話の中で、当たり前のように、日々多用されています。例えば、Could I ask you a question? は「ちょっと質問があるのですが、よろしいでしょうか。」くらいの意味で、ある程度丁寧にものを尋ねるときに、頻繁に使われます。勿論、仮定法を使わない言い方、すなわち、May I ask you a question?とか、Can I ask you a question?という言い方もありますが、仮定法は、総じて、礼儀にかなった丁寧なものの言いよう、あるいは婉曲な表現が求められるときにつかわれます。たとえば、何か具体的な手助けを申し出た人に対して、Yes, I would appreciate it very much. と言えば、「これはこれはどうも、ご親切、痛み入ります。(そうしていただけると本当に助かります。)」という感謝の気持ちをしっかり相手に伝えることができます。「これをしなさい、あれをしてほしい」では人間関係は殺伐としてしまいます。用件のみ述べる直説法では角が立ちすぎるときに、仮定法を使えば、相手の気持ちを慮りながら、穏やかな雰囲気の中、会話を円滑に運ばせることができます。また、If I were you, I would never do that. 「さあ、そこはどうでしょう。(もし僕が君だったら、それは決してしないだろうな。)」と、こちらの反対をやんわりと暗示したいとき、また O, what should I do? 「こいつは弱った!(あー、どうすればよいのだ。)」と切羽詰まった強い感情を吐露するとき、また宮崎駿がアニメ化して有名になった『ハウルの動く城』で、ある日母親の留守に店番をしていた主人公で、12歳の少女が、いきなり荒れ地の魔女に襲われ、90歳の老婆に変えられてしまった悔しさを、一日置いて思い出したとき、思わず、O, what would I not do? 「ええーい、今に見ておれ!(あー、私は何をしないでおこうか?)」と口走るとき、また、デンマーク王の急死の後、本来ならその跡を継いで王になるはずだったデンマーク王子のハムレットが、得意の早業で母親と再婚し、あっという間に王位についてしまった叔父クローディアスに、何度も息子呼ばわりされた後の悔しさを、舞台上に一人残された際の独白(第一独白)の冒頭で、 O that this too too solid flesh would melt , Thaw and resolve itself into a dew!「がっしりと硬い、この肉体が、一思いに溶けて、崩れて、露となってしまえばよいものを!」とぶちまけ、怒りと絶望に苛まれながら身もだえするとき、仮定法は、広大無限の想念の世界の中で、常人の思いもよらない強度と深度で、私たちの魂を鷲掴みにします。

 仮定法は、それを使いこなす人間の運用能力次第で、得られるメリットは無限に増大し、使い勝手も極めて良く、鬱屈した心を見事に解き放ちます。結果的に、仮定法の使用範囲も、その効果も、幾何級数的に広がっていくのです。

4.仮定法は誤解されやすい

 しかし、日本語の場合、少なくとも表立っては、仮定法という叙法の存在は表明されていません。したがって、主語、目的語、補語という英文法の基本概念、また、他動詞と自動詞の区別など、日本語の文法には、少なくとも明示的には、存在しない多くの文法用語や概念と同様、日本人英語学習者には、仮定法なるものの真の意味は開示されることなく、もっともらしい名称のみが、未習熟の日本人の間を、したり顔で、独り歩きしてきたのです。教える側にも、仮定法をめぐる状況の真の深刻さは十分に把握されないまま、とりあえず、試験対策にだけは資する、いくつかの定番的な表現の暗記を促す、といった範囲内でのみ注意喚起がなされ、日本人学習者に望ましい、本来の、十分に柔軟な、手厚い対策は、ほとんど講じてこられなかったのです。

 仮定法は、よほど明確で的確な説明がなければ、日本人には、最終的に、理解しがたい叙法です。でも、それでいて、なんとなく分かったつもりでいる人も多いのが、かえって厄介です。詳しく見ていけば、学習の完了していない人の大半は、仮定法の本質をどこかで誤解しているケースが多いようです。日本人の英語学習者のうち、特に初心者にとって、仮定法は、どこが、どのように、誤解されやすいのでしょうか。

 日本人は、「仮定」という言葉に簡単に引っ掛かります。仮定法と言うくらいだから、きっと何かを「仮定」するに違いない、と考えます。そこで条件反射的に思いつくのが、接続詞 If を使った文です。「もし~ならば」と いう条件文を念頭に置き、接続詞 if で導かれる従属節と、それを受ける主節とで構成される文こそ仮定法に違いない、と決めつけるのです。彼らにしてみれば、一応立派に、理屈は通っているので、自分を疑うことをしません。でも、これは全くの誤解です。そもそも、仮定法は if 節とは無関係なのです。でも、if 節と関係ない、とはどういうことでしょうか。

 確かに、if を使った文は、何らかの条件、あるいは仮定の上に成り立つ文です。例えば「もし君にいくらかお金の持ち合わせがあれば、千円貸してくれない?」と友人に頼む場合、この文は、その友人に「千円以上のお金の持ち合わせがある」という仮定、つまり「千円以上のお金の持ち合わせがある場合にのみお願いしたい」という条件付きの依頼文です。でも、ここで考えてほしいのは、仮定法は現実的なことにはかかわらない、という法則があることです。非現実、不確実、100%の空想、仮想世界、の中でしか生き延びられない文が、仮定法の文だということです。

 これは仮定法の基本的な法則です。誰が何と言おうと、仮定法は非現実しか扱わないのです。ここが根本的に誤解されています。仮定法がもつ、この大原則を目の前において、もう一度、先ほどの文を見て下さい。「もし君にいくらかのお金の持ち合わせがあれば」という条件自体には、特にこれと言った非現実的要素は含まれていません。なぜなら、友人が千円以上のお金をある時点で所持している可能性は、一円が現在の千円以上の価値を持っていた戦前ならいざ知らず、この令和の現代においては、相当、高いはずです。むしろ、平均的な大人なら、所持していない確率のほうが、ずっと低いはずです。同じ仮定でも、「もし君が10億円以上持っていたら、1万円貸してくれる?」という話とは質的に異なるのです。こちらなら、仮定法が成立します。つまり、現実に友人が所持していても不自然でない金額の所持を条件に借金を申し入れた場合、条件自体の非現実性は認められません。「貸してください」というお願いの方に、むしろ文意の重心があります。ですから、この会話の肝は、普通ではありえない条件の設定を敢えてしないところにあるのであって、借金を申し入れる友人が多分千円以上を所持しているこを想定して、「悪いけど、ちょっと千円貸して。」と言っているのです。相手が気心の知れた友人であることに甘え、強要にならない程度に、気兼ねなしの借金を申し入れているのです。

 このように、現実に満たされる確率が十分に高い条件を織り込んだ、人への頼みごとは、現実にはありえない条件を前提とする(例えば、「もし僕が君だったら」など)本来の仮定法とは関係ないのです。前者の場合は、晴耕雨読式に、条件AにはX、条件BにはYの帰結が、それぞれ待ち受けている、と言いたいだけなのです。A、Bのいずれの場合も考えられる条件の場合には、「千円貸してください。」は、どちらかというと、実質的な命令文と言ってもよいのです。文の種類としても、これは、仮定法ではなく、直説法なのです。

5.if が仮定法を導く場合

 でも確かに、 if で始まる節が仮定法の文を導く場合があります。たとえば、If I had one thousand yen with me, I could certainly drink a cup of coffee here in this shop. (「もし今自分に千円の持ち合わせがあれば、間違いなく、この店でコーヒーを一杯飲んでいけるのに。」)というときには、同じように if が使われていても、実際には「私」には千円の持ち合わせがないのです。したがって、現実には、コーヒーは飲みたくとも飲めないのです。ですが、この文はそういう現実を、動かせない事実として、百も承知の上で、未練がましく、「千円あれば、一杯のコーヒーが飲めるのに」と悔しがっているのであり、この文は、一点の現実も伴わない、仮想に身を置いた「空文(からぶん)」なのです。

 この「空文(からぶん)」という言葉は文法用語として定着しているわけではありません。ただ、説明の便宜上、間に合わせとして使わせていただきます。

 そこで、ある文が仮定法であるのかないのかの判断に迷った時は、それが現実を実装した「実文(じつぶん)」(私が今しがた使った「空文(からぶん)」と対をなす説明用語)なのか、それとも現実が実装されていない「空文(からぶん)」なのかを、じっくり見定めるとよいのです。

 でも、仮定法という文法用語を持たない日本語を母語とする学習者には、この点が誤解されやすいのです。そこで、私たち日本人学習者は、この厳しい現実をひるむことなく正面から見据え、覚悟を決めて、意図的に、何度でも踏み迷い、間違う経験を、歯を食いしばって、積み重ねる必要があります。それは痛みを伴う訓練です。でも、私たちは、この厳しい試練を、勇躍、一気に、畳みかける如く、乗り越えることが肝要なのです。それには、いくつもの紛らわしい例文に当たり、それらの正しい解釈と正確な分析を精読し、辛抱強く、最後まで立ち向かい続けることが大切です。そうしているうちに、私たちに、ふと、仮定法の神髄に触れる時が必ず訪れます。そして、何年も、あるいは何十年も、仮定法とつきあっているうちに、もはや、それと意識することなく、仮定法と直説法を瞬時に見極めるコツが身につきます。

 そこで、早速ですが、典型的な仮定法の例文を見ていきましょう。

6.仮定法の例文

 次の例文を見て下さい。これらを一目見て、何か気づくことはありませんか。仮定法は could や would が使われることが圧倒的に多いのです。ほかにも、might やshould などがよくつかわれます。

  1.Could I have a glass of water, please?

  2.  Would you like to have some more coffee?

  3.  Could you speak a little louder, please?

  4.  I would like to stay here for another week.

  5.  How could you do this to me?

  6.  A gentleman would never do that. 

  7.  You could have lost your life.

  8.  It should be all rihgt.

  9.  Could be.

  10.  He might have made a fatal mistake . 

 例文1は、聞きなれた表現の一つで、「申し訳ありませんが、水を一杯いただけないでしょうか。」という意味です。この文の最後のplease は、if you please の短縮形であり、多分、s'il vous plais というフランス語から来ており、このフランス語を直訳すれば、if it please you (「もしそれがあなたを喜ばすなら、~していただけないでしょうか?」)です。このように、please は、もともと条件節を構成していたのですが、「それがあなたを喜ばせるならば」という条件自体が「そのことはめったにあり得ないことであり、もしそれをしていただければ、私には大いに名誉なことであり、この上ない喜びです」という含みを前提にしています。また、ものを頼むのに、ここまで謙虚になれるか、というくらいにへりくだっているからこそ、この文は、礼儀にかなった言い方と受け止められるのです。めったにないこと=非現実=望外の喜び、という公式が成り立っていることに注意してください。同じように、Could I have your name, please? という言い方も、へりくだって、「お名前をお伺いしてもよろしいでしょか?」という意味になります。このように、めったにない、すなわち、起こる確率が極めて低い、という意味での「非現実性」を発条(ばね)にした謙譲表現である、というところが仮定法のこのタイプの、一種、パターン化した使い方の肝です。そして、この種の言い方は極めて広く応用が利くことに注意してください。例えば、Could you wait here for another five minutes, please? と言えば、「ここでもう五分だけお待ちいただけませんでしょうか?」という丁寧なお願いになります。同様に、Could it be possible for you to give me just five minutes for my vindication? といえば、「誠に申し訳ありませんが、五分だけ私に申し開きの機会をお与えいただけないでしょうか。」という意味であり、礼儀を弁えたの嘆願文になります。

 could は仮定法でよく使われる助動詞ですが、元来は can の過去形なので、当然、can の元の意味を継承しています。can は能力と可能性の両方で使われる助動詞です。I can swim. は勿論「私は泳げる。」という意味ですから、「私」の能力を述べています。同様に、She can speak French. も「彼女はフランス語が話せる。」という意味ですから、「彼女」の語学能力について述べています。ところが、Can I help you? はご存じのように「私はあなたをお助けしてもよろしいでしょうか?=(あなたは私に)何か御用がありますか?」という意味です。ですから、この can は自分が相手を手助けする「許可」をもらおうとする表現です。同様に、 Can I sit here? は、「この席に座ることはできますか?=この席は空いていますか。」という意味で、「この席」に座ることの「可否」について尋ねる文です。少し紛らわしいの例として、 Can you speak a little louder, please? は、「もうちょっと大きな声で話してくれませんか。」という意味です。これは、相手の能力を尋ねる文としても機能しえますが、そこから転じて、「あなたにそれができれば(=可能であれば)もっと大きな声で話してもらいたいのですが」という依頼文にもなるのです。ですから、Will you speak a little louder, please? とほぼ同じ意味になります。

 こういうわけで、仮定法でcould を使う場合、「わずかでもできる可能性があれば、~してもらたい」という意味になるのです。could の場合には、相手の気質や、たまたまその時、相手が持ち合わせていた気分など、センシティブな要素が絡んでいて、実現の可能性が極めて低い事が前提になっているため、それでも、もし、あなたがそれをやっていただければ、本当に、感謝です、という気持ちが前面に出るのに対して、can の場合は、先ほどの例文 Can you speak a littel louder, please? のように、「あなたにそれがお出来になるのは分かっています。お願いですから、そうしてくださいね。」というニュアンスで、ストレートに、押しの強い要求、要望を、相手に伝えるのです。

 ですから、3の例文のように、Could you speak a little louder, please? と言えば、今度は打って変わって、「あなたにそれをお願いするのは心苦しいのですが、特別のお計らいで、そのようにしていただければ、望外の幸せです」いうニュアンスが、相手に伝わります。

 例文2の Would you like to have some more coffee? は「コーヒーのお代わりはいかがですか?」という意味で、招待したお客様などにコーヒーのお代わりを勧めるときに使う定番表現です。would はwill という助動詞の過去形であり、will が本来持っている「意志」の意味を常に保持しています。ですから、コーヒーのお代わりに対しても、相手の意志を重視していますよ、という意味合いが相手に伝わります。「ひょっとしてあなたは~する意思をお持ちでいらっしゃいますか」という風に、相手の意志があるのかどうかの確認を細心の注意をもって行い、その上できちんと対応いたします、という姿勢が、相手に伝わるのです。

 例文4の I would like to stay here for another week. は「私としましては、さらにもう一週間、ここに滞在していたいものですね。」という意味です。「私はどちらかと言えば、そうしたい」という意思を婉曲に表明するときの決まった言い方です。この言葉の背後には、「そちら様のご事情もおありでしょうから、決して無理をなさらないでください」という、心遣いと余裕が感じられます。まさに、大人の表現です。

 例文5の How could you do this to me? は「君、よくもまあここまでやってくれるな。」というほどの意味です。あきれてものも言えない、というショック状態の表現なのです。「こんなひどいこと(ありえないほどに)を僕に対してやってのけるとは、どういう了見だ?」と目をむいて相手に迫る雰囲気もあります。「どうしてこんなことを僕に?」といぶかる気持ちもこもっています。かなり複雑な思いが交錯している表現なのですが、通奏低音の如く一貫しているのは、「信じられない、ありえない」という驚きです。この文の could は助動詞 can が元来持っている能力と可能性という二つの意味のうち、可能性の例文に属します。

例文6の A gentleman would never do that. は「(もし彼が)紳士ならあんなことは決してしないさ。」というほどの意味です。何か紳士らしからぬことをしでかした「彼」のことをこき下ろしている場面です。「もし彼が紳士ならば」という条件が A gentleman に隠されているのです。仮定法過去の助動詞 would を使うことで「きゃつは人でなしだ。」という強い非難の意味が、これを聞く人に伝わります。

例文7 の You could have lost your life. は「君はもう少しで命を落とすところだったよ。」という意味です。この文に使われたcould は、先に見た助動詞 can の二つの意味のうち、可能性を引き継いでいます。つまり、could はここでは、「まかり間違えば」というニュアンスの意味合いを伝えます。したがって、「君は、君自身のほんのちょっとしたミスでも、間違いなく死んでいたよ。」という、生死を分ける危機一髪の恐ろしさ、危うさを強調する仮定法 の典型例です。ニュアンスとしては「九死に一生を得た君は、よほど強運の持ち主だったんだね」という意味合いが、この言い方の背後に張り付いています。

例文8の It should be all right. は「それでいいはずなんだが。」という意味です。自分としては最善と思われる手を打ったが、それで安心かと言えば、全くそうではない、という強い不安が覗いている表現です。仮定法は、このように、事態の不確実性を強くにおわせる必要があるとき、使われるのです。これにたいして、must を使って、 It must be all right.(「きっと大丈夫さ。」)と言えば、自分が自信を持っていいることを強くアピールするときに使われる表現になります。

例文9の Could be. は「かもね。」というくらいの意味で、よく使われます。聞かれた方も多いと思います。可能性は決して高くはないが、さりとて完全には無視できない、というとき使う表現です。ここでも真実は藪の中、と言わんばかりに不確実性が、かなり露骨に匂います。

例文10の He might have made a fatal mistake. は「彼はひょっとして、致命的な間違いを犯したかもしれない。」という極度の心配、不安、を伝える文です。ニュアンスとしては「彼はとんだドジを踏んだかもしれない。」という強い疑い、懸念、危機感を伝えます。では、どこが仮定法なのでしょうか。might は may の過去形ですから、本来の意味は「~してもよい」という許可と、「~かもしれない」という可能性の二つを伝えることができます。例えば、You may go now. は「君への用は済んだから、お帰り。」とか、「お前は下がってよろしい。」という上から目線の許可を与える言い方です。ところが、It may be a good idea. と言えば、「それは案外いい考えかもしれないね。」という意味で、ポジティブな可能性を表明します。ですから、 may を使って、単なる可能性の問題としてHe may have  made a fatal mistake. という言い方もあり得ます。その場合は「彼は致命的なミスを犯した可能性がある。」という客観的な可能性、起こり得る確率の問題として処理されます。ところが、He might have made a fatal mistake. だと、「(まさかとは思うが)彼は致命的な間違いを犯したかもしれません。」と言っているのであって、ここでは、それが虚報であってほしいと祈りつつ、同時に、その可能性が排除できない深刻さに愕然としているのです。

7.まとめ

 いかがだったでしょうか。仮定法が少しは整理されたでしょうか。仮定法の難しさ、仮定法のすばらしさが、多少なりとも分かっていただけたなら、本当にうれしいです。仮定法は使えてなんぼです。使わなければ、使えないのと一緒です。人間は理性の動物であると同時に、それ以上に感情の動物です。仮定法は、可能な限りの想念を解き放つことによって、人間の内なる感情に影のようにぴったり寄り添う叙法です。叙法一般を英語ではmoodと言います。moodは気分という意味です。人間の気分は、まるで天気のように、晴れたり曇ったり、雨が降ったり、雪が降ったり、時に激しい嵐になったりします。直説法、命令法、仮定法が、人間のどんな気分にも寄り添えるように、いつでも待機してくれるているのです。直説法が普通の話し方だとすると、命令法は少し声を大きくして命令します。仮定法は、通常のコミュニケーションが取れないときの、切羽詰まった心を映します。それはしばしば、悲痛な、あるいは絶望の叫びです。I wish I could. は「それができるとほんとによかったのですが。」と、可能性が皆無であることを、絶望的に伝える一言なのです。わざと過去形を使うことで、絶対的非現実性を示唆しているのです。「一昨日(おととい)来い。」という表現に似ています。ですから、couldは、非現実の世界のことを扱うときの符丁として使われているのです。私の示した日本語訳でも過去形が使われていることに注意してください。過去形は、日本語においても、妄想や空想の世界のことだ、ということを人に知らせる働きをするのです。「お手伝いできるとよろしいのですが」と「お手伝い出来たらよかったのですが」との違いと、英語における直性法と仮定法の違いとが、見事にパラレルなのは面白い現象です。冒頭の議論で述べた、現実と非現実とを分ける境界線とはこのことです。時制を一個ずらすのが法則だ、というのは現象面の指摘としては正しいのですが、なぜそうするのか、という理屈は置いてきぼりにされています。私たち日本人学習者には、両方が必要なのです。

 

 

 

 

 

 

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