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結局のところ、五文型って何なの?

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英語の五文型は、結局、何なのか?

英語の五文型は、結局、何なのか?

2021/07/09

英語の五文型は、結局、何をなしうるのか?

文型を学ぶことの、本当の意味について

私はあるとき、学生諸君に「どんなに難解な英文でも、分析すれば、五文型のどれか一つに当てはまる。」という説明をしたとき、ある学生が手を挙げ、「本当にどんな英文でもですか?」と、念を押したので、躊躇なく「そうです。」と答えました。でも、それは「文」をどう定義するかによって、答えは異なる、と答えるのが正しかったと思います。

というのも、よく知られているように、日本語でも英語でも、いろいろな質問に対して、たった一語、もしくはワンフレーズで、答えを的確に相手に伝えることはできるし、それが「文」でないとは言い難いのからです。例えば、How many brothers and sisterds do you have? と聞かれて、Just one brother. と答えてもおかしくはないし、What is your favorite color? と聞かれて、Red.と答えても何も問題はありません。「文」を意識して、Red is my favorite color. とか、 I like the red clor best. と緊張して、型通りに答えなければならないわけではないのです。親しい友人同士なら、このような場合、一語、もしくはワンフレーズで答えるほうがむしろ自然です。いや、それだけではありません。こちらから何かを尋ねたり、話の続きを促したりする場合も、一語、もしくはワンフレーズで十分、間に合います。つぎの例を見てください。

1.Then what?(それでどうなるの?) 

2.So?(それで?)

3.Why?  (どうして?)

4.Where? (どこで?)

5.Yes?(なるほど、それで?)

6.Never?(一度もなかったの?)

ただし、これらの言い方は、意味こそ伝わりますが、いかにもおざなりでくだけており、フォーマルな「文」の体をなしていません。文の根幹をなす「主語+動詞」が、外形的に、全く認められないからです。けれども、もう少し一般的な言語地平においては、日本語と英語の間に、ある種の差異を認めざるを得ません。日常会話の一端を、比較してみましょう。

1.もう間に合わないよ。( We won’t make it.)

2.しょうがない。(We can't help it.)

3.あっ、雨だ。(Oh, it's raining.)

4.それでいける。(That will do.)

5.もう寝る時間だ。(It's time to go to bed.)

ここでは、日本語は、普通の会話の一部です。ただし、それらは明らかに口語の口調が勝っており、その分、「文」らしく見えないのに対して、英語では、1と2の場合こそ、We を省略し、極めて口語的に言ってしまえる可能性はありますが、3~4ではなんと、口語的であるにもかかわらず、「主語+動詞」の基本構文が全く省略されずに残っています。実際、英語では、多くの場合、口語でここまでするか、というくらいに律儀に、文構造を堅持します。私の大雑把な感じで言えば、英語の発話の、実に8~9割が「文」なのです。

そして、実は、ここが、よほど気を付けていないと、日本人の英語学習者が、命取りになるほど危険な誤解をしやすい場所なのです。というのも、例文の日本語を見ていると、あまりにもわかりやすいので、対応する英語も、文型を含めてよく分かる、と錯覚してしまう危険があるのです。特に、熱心で優秀な教師ほど、苦労して、学習者に分かりやすい例文を持ってくるので、学習者はある時点で、もう五文型は分かった、第一文型=SV、第二文型= SVC、第三文型=SVO、第四文型=SVOO、第五文型=SVOC、なんだだろう、この「公式」はもう覚えた、暗記したから大丈夫、そろそろ文型は卒業するぞ、と恐ろしい決断をしてしまいかねないのです。

易しい例文で文型を理解するのと、実際の英文、すなわち、実際に使われている文例に当てはめて、文の型を分析をするのとでは、天と地ほど、難しさに差があります。このことを知らずに、五文型、そして文法一般をないがしろにすることほど、愚かなことはありません。五文型は、特定の例文を理解するためにあるのではなく、英語そのものを理解するためにあるのです。もし、実際の英文を解読するのに五文型が役立たなければ、それは覚えない方がましです。五文型は、なるほどこれは役に立つ、という経験をして初めて、その意味がわかり始めるのです。

五文型は、何十年もの長い年月をかけ、あれやこれやと、様々な英文への応用を重ね、倦まず弛まず、どこまでも英語的感覚を鍛え続けていくのでなければマスターできない、極め付けの魔法です。多くの人は、人生の早い段階で訪れる、大いなる失意と自己憐憫の中で、せっかくのチャンスをなくしてしまうのです。「それは、中学の時に習った。高校も大学も、入学試験はすべて望み通り合格した。だから、もう忘れても、だれも咎めないはずだ」と、苦しい英語修行をやめ、ドロップアウトする道を選んでしまうのです。

なぜ、このような悲劇が、私たちの周りで、かくも頻繁に起こるのでしょうか?このあまりにも悲しい誤解を誘発する大きな要因として、私は、主語+動詞という基本構造を持たない日本語に、日本人は、毎日、24時間、どっぷり漬かっている、という隠れもない事実を、ここで改めて、指摘しておきたいと思います。このこと象徴的に示す事例として、日本語では、れっきとした文学作品においてすら、主語+動詞の結びつきを明示しない文が多い、という事実に、皆様の注意を喚起したいと思います。

漱石の「道草」の有名な冒頭の一句、「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。」を見てください。日本人に、これほどわかりやすい、大方の共感を得やすい一文はありません。でもここで、敢えて、英語的センスを用い、言ってみれば、レントゲン写真でも撮るように、この文の実態を観察してみましょう。まず、「智に働けば」という言い方は、主語も動詞も特定しにくく、「情に棹させば」は、誰が誰にどういう態度をとることを想定しているのか、曖昧です。また、「意地を通せば」は、一見、何となくわかる言い方ですが、どこかで独りよがりの「日本語的センス」に遭遇しそうです。「窮屈だ」は主観的で、果たしてぴったり対応する英語表現が見つかるか心配です。巧みに一般化した表現になっているので、肝ともいうべき三つの小センテンスは、いずれも含蓄が深いと感じられるのですが、個別具体的な事例に踏み込んだ時、総じて日本的な現実が見えてきます。

ここでは、「意地を通せば」に少しばかりフォーカスしてみましょう。もし、「自分の意見をどこまでも主張する」ことが、仮に、意地を通すことの中身であるとすると、欧米では、幼少のころから、自分の身の回りの事柄は自分の判断と意志に基づいて決断すること、また一旦下した自分の決断には、どこまでも責任を持つこと、と教えられます。さて、もし、自分の判断に責任を持つことと「意地を通す」ことが同義であれば、「意地を通す」ことは、必然的に、両親および社会から推奨され、肯定される事柄ということになり、このポジティブな評価を前に、何人たりとも「窮屈さ」(居心地の悪さ)を感じる謂れはありません。また仮に、「意地を通す」とは、面子、すなわち、人間としての「誇り」が懸かっている場面では安易に妥協してはならない、という意味であるならば、これまた、堂々と「意地」を通せばよいことになります。卑屈に感じたり、「窮屈」に感じる理由がないのです。

総じて、風通しの良い「公理」という意味での、「理屈」という基本構造を持たない日本語が支える、日本社会という巨大システムに組み込まれて生きている日本人には、どう転んでも理解できない世界が、日本の外のどこかにあるという事実を、いやしくも英語教師たるものは、英語学習者にきちんと伝えるべきなのです。でも、それには、私たちは何をしたら良いのでしょうか。

答えは至って簡単です。私たちは、英語学習者に「英語的センス」を教えればよいのです。人が英語を学ぶということは、つまるところ、自ら英語的センスを磨き、自分でそれを養うことに等しいからです。でも、その英語的センスとは、具体的には、どのようなことを指すのでしょうか。それは、日本語を英語に翻訳する場合を考えれば、少しずつ分かってきます。

たとえば、上に見た、いかにも漱石らしい警句を、英語で表現しようとすると分かってきます。すでに確かめたように、ただ単に説明が複雑になる、込み入ってくるというレベルの対応では済まされません。なぜなら、「とかくこの世は住みにくい」ことの証明として位置づけられている三部構成の警句は、決して世界一般ではなく、日本固有の世界、すなわち「世間」なるものの住みにくさについて、日本人にしか知り得ず、また通じ合えない、日本人による日本人のための怨嗟のコメント、としての意味を濃厚に持っているフレーズなのです。ですから、日本的な「世間」の実態について、日本人の「共通理解」のありかを、翻訳者自ら、自分の経験に照らして、徹底的に検証した先に、ようやく、それをまだ知らない世界の多くの人たちに、英語という別の世界の物差しを用いて、伝えることができるのです。

漱石の有名な警句の翻訳は、それ故、仮に可能であるとしても、とても一行では済みそうにありません。三行、あるいはそれ以上、必要かもしれません。と言って、英語があまりに長いと、漱石の警句のフットワークの軽さ、そしてフットワークの軽さゆえの、あの爽快な皮肉は、どこかへ消えて行ってしまうでしょう。しかし、逆に、一切を、ミリ単位の正確さで、道理を尽くして説明することなしには、文豪漱石の悩みも葛藤も、人に伝わらないのです。英語的センスとはこのようなことです。

英語は基本的に、小説を含めて、新聞の論説や論文ではなおさら、主題に直結する文の主語を省くことは、絶対にあり得ません。それは、文がいきなり、「阿呆の戯言」のように意味不明に陥ることを意味するからです。したがって、一旦、文が書かれる場合には、いずれの場合でも、押しなべて、誰が、誰に、何を、いつ、どのようにすると、なぜ、どうして、どうなるのかを、全部言い切らないと、聞き手や読み手を説得することは不可能なのです。そして、そこまでしないと、英語圏における国際間の取り決めや、外交交渉、またグローバルな運動の呼びかけ、さらには利益追求のビジネス、そして個人間の意思疎通も、すべてままなりません。

さらに、英語圏においては、憲法も、法律も、取扱説明書も、そこに書かれた文を文たらしめるのに必要な「文の要素」が全部揃った、完全な文を書くことが求められます。そして、英語では、それらの要素をきちんと正しく組み込むための、規格フォーマットが存在するのです。そして、それこそが、わが五文型です。五文型は文の五つのパターンですが、このパターンを使いこなすことができれば、およそどんなことでも、言いたいことをすべて、正確に表現できるのです。

このことを裏返せば、日本では、その都度、共有可能な限りの共通の状況におぶさり、理解し合っている共通理解の塊を、ある時はばっさり省略し、別のときには、最小限の言及によって、いつでも必要な意思疎通を確保できるゆえに、それらを省略したり、縮小したりすることは、むしろ、親しみを増し、奥ゆかしい行為と称賛されさえするのです。

しかし、私たちが一歩、日本の外に出たとき、私たちを取り巻く状況は一変します。国外での旅行、ビジネス、留学、学会、外交交渉、のすべてにおいて、日本の「常識」は、一切、通じません。そこにあるのは、すべて、100%、明瞭に言い切って、なんぼの世界です。

言葉による、地球規模のコミュニケーションが、今日ほど多く求められている時代はありません。外交でも貿易でも、日本にとって極めて重要な多くの分野で、日本の代表が、世界を相手にぶつかっていく以外に、日本の活路を求めることはできません。事実、多くの、極めて優秀な日本人が、世界を舞台に活躍しています。しかし、その数が、全く不十分だということも、残念ながら事実です。

日本はこれまで、決して外交上手ではありませんでした。無論、外交努力は多方面にわたります。決して語学だけが唯一の切り札であるわけではありません。しかし、過去数百年の日本の歴史を踏まえ、現在、およびこれからのことも考えると、日本古来の社会システムや慣行、また地政学的な立ち位置をきちんと相手に伝え、外交においてもビジネスにおいても、その都度、柔軟に、論理を尽くして弁明し、日本を弁護できる、英語の達人を養成しておくことの重要性は、今日、だれも否定できません。この意味において、日本の英語教育は、今こそ、根本から変わらなければなりません。その第一歩が、五文型の重要性をきちんと学生諸君に伝えることです。

五文型はちゃんと学校で教えている、と力強く主張される先生方も、勿論、多いはずです。また、学校教育を補う塾でも、そこに通う受験生は、大抵、五文型の重要性を知りつつ、その難しさにひるみ、戸惑い、悩まされながらも、難解な英文の構文理解に、この知識を役立てています。一見、どこにも問題はないように見えます。では、敢えて言えば、どこがどのように不十分なのでしょうか。

日本の英語学習者の大半は、まだ、五文型の本当の威力を理解していません。それほど多くの文章を読んでいないからです。それほど多くの文献や書籍を読んでいないからです。ですから、まだ、それがどれだけすごいものなのかを、身をもって体験していないのです。実際は、どんな難解な英文も、どんなに専門的な文献も、五文型の知識があれば、当たり前のように、解読への道が約束されます。大量の文を読むことによって、この真理を見抜き、その力を信じ切って前に進むことができるかどうかが、勝負の分かれ目です。

難解な英文に翻弄され、意気阻喪している受験生がいれば、それは、一つには、まだ信じる力が不足しているのです。彼らに、学習者としてのフレッシュな気持ちを取り戻してもらうためには、多分、道案内者の手引きが必要です。小説や論文を、もう一つ読み切れていない人がいれば、そこにも、深呼吸を促すような、適切なアドバイス、もしくは激励、そして最小限の手助けが必要なのかもしれません。

物事にはすべて手順があります。英文の場合、「文の要素」を見抜く手順を、一つ一つ、改めて確認し、複数の辞書を調べ、一歩、一歩、解決への階段を上っていけば、必ずその先に、息をのむ絶景が広がっています。慌てず、騒がず、手順を追って、厳しい英語の砦を攻め落とす術をマスターすれば、必ず頂上が見えてきます。この一連の作業を足掛かりにして、例えば、英語で書かれた分厚い一冊の本を最後まで読み切ると、見える景色が変わります。読み切った達成感、爽快感、あるいは醍醐味は、何物にも代えがたいからです。

五文型は、それに習熟すると、何も意識せずに、その実態である「英文解読の魔法のカギ」という本来の性質を、余すところなく生かすことができるようになります。やがて、気が付いたら、話し言葉によるコミュニケーションも、文字による意思疎通も、必要なとき、必要なだけ、全部見事にこなしてしまっています。

そして、五文型はうんと難しくて当然です。それは常に、目の前の英文の難しさと等価だからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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