英語はなぜ形容語を後置するのか?
2021/06/14
英語は形容語句を名詞の後ろに置くのはなぜか?
名詞の後に置かれる形容詞、形容詞句、形容詞節の意味について
英語を学び始めてそれほど経過しないうちに、不思議だな、と思い始めることの一つに、形容詞後置という現象があります。例えば、He wanted to say something nice to her. は、「彼は、彼女に何か気の利いた一言を言って上げたかった。」というくらいの意味です。ここでは、普通なら、He is a nice boy. などのように、名詞に先行するはずの形容詞、nice が、普通名詞である something の、前ではなく、後ろに置かれています。実は、このような例は、後にthing のつく語によく見かけます。例えば、anything を使った例としては、Didn't you notice anything odd or strange abouth him recentlyr? 「最近、彼のことで何か変だなとか、奇妙だなとか思ったことはありませんか?」があります。
このように、ほんの一部の語に限ってみられるだけですが、通常なら名詞の前に置かれるべき形容詞が、名詞の前ではなく、後に置かれる現象をどうとらえればよいのでしょうか。一番分かりやすい説明は、フランス語の形容詞の一般的な位置に影響を受けているのではないか、と答えることです。確かにフランス語では、多くの形容詞が名詞の後ろに置かれます。それは全く珍しくありません。しかし、英語では、少なくとも単独の形容詞は、ほぼすべて名詞の前に置かれます。ですから、上記の事例は英語では極めて少なく、むしろ特殊なのであって、フランス語からの影響を持ち出しても、実際には、とうてい納得のいく説明にはなり得ません。
そこでもう一つ考えられるのは、something もanything もnothing も、すべてthing との合成語であり、そこに何か秘密が潜んでいる、と推測することです。例えば any は、制限を一切設けない、という意味が核をなし、「それが何であってもかまわない」という意味であって、あらかじめ、すべての特殊個別性を超越する、という、かなり特殊な論理的意味を持っています。逆に言えば、「何物にも縛られない」ということで、これ自体が一つの明確な定義であり、強い論理的インパクトを持った言葉です。この語の本来の使い方は、any とthing の間に何らかの形容詞を挟んで、例えば、any odd or strange thing であったはずです。このほうが、表現として普通で、穏やかだったのです。ところが、上記の質問では、どんな些細なことでも、何か参考になるかもしれない、と思ってany の意味を無際限に拡張し、「(この際、思いつくかぎり)何でも(言ってくれ)」と言ってしまったのです。このように「何でも」がつい必要以上に強調されてしまったため、「変なこと、奇妙なこと(を)」は、その後に持ってくるほかなかった、と考えられます。語順の、このような経緯を持った転倒は、強調意識が生み出す、倒置の一例と考えれば、文法的にも納得がいきます。(そのような強意の倒置の例としては、Oh, that I know. 「それ、私も知ってます。」とか、So be it! 「そうあれかし。」などがあります。)
他の例で、たとえば、Send me somebody other than him. と言えば、「彼だけは除外して、他の人を、(他は誰でもいいから)呼んでくれ。」という意味になり、彼だけは避けねばならない、と判断させる一定のリスクの存在、などを疑わせる表現になります。ここに使われている other(他の)という形容詞 も、「彼」を除外することを、何をおいても強調したくて、 somebody の直後に置かれるのです。そこで、この仮説を検証する意味で、 some とbody の直接的な結びつきを外し、body を person に変え、Send me some other person (than him) と言えば、「じゃ、(彼以外の)別のだれかさんを、呼んで。」と、緊張を感じさせない、普通の表現になります。これは、彼は何らかの事情で呼べなくなった、という、日常ありがちな出来事を踏まえた表現です。「彼、来れないの。それじゃあ、だれかほかの人を。」というような、自然なやり取りが伝わります。
ところで、形容詞が名詞の後ろに置かれる現象、すなわち「形容詞後置」にまつわる疑問は、これですべて片付いたわけではありません。なぜなら、単独の形容詞の他にも、句や文章が、つまり、形容詞というよりも「形容語」が、特定の名詞の後ろにつながっていく事例は、実は無数にみられるからです。それに対して、日本語では、単独の形容詞は勿論、名詞につながるすべての形容語句は、名詞の前に置かれます。なぜそのような、日本語と大きく異なる現象が、かくも大きなスケールで起こるのか、という疑問は、語順にかかわる大きな文法上の謎として、それ自体、解明に向けた考察の対象になります。今日は、一つだけ、サンプル的な自作の文例をお目にかけ、中身を分析しつつ、これまでの考察を先に進めてみましょう。つぎの英文とその和訳をご覧ください。
I recently read an interesting book on world politics, written by a famous scholar living in Paris. 「私は最近、パリ在住の有名な学者によって書かれた、世界政治に関する興味深い本を読みました。」
この文の中の on the world politics は、「世界政治に関する」という意味の形容詞句で、先行する an interesting book (興味深い本)に後ろから繋がっています。また、written by a famous scholar は「有名な学者によって書かれた」という意味の形容詞句で、先行する an interesting book on world politics (世界政治に関する興味深い本)に後ろから繋がっていきます。an interesting book on world politics は、book という一個の名詞を中心とする複合語句で、前半は単独の形容詞 interesting によって前から形容され、後半は動詞 write 、すなわち「書く」、の受け身用法である過去分詞 written 、すなわち「書かれた」という意味の、過去分詞由来の形容詞によって、後ろから形容されています。
さらに、living in Paris は live (住む)という自動詞の現在分詞形 living が形容詞的に使われることによって、すなわち現在分詞の形容詞的用法によって、「パリに在住の」という意味になります。そしてそれは、全体として、先行する名詞 scholar に後ろから繋がっていきます。(このように、名詞を修飾する語句、言い換えれば名詞に繋がる、二語以上からなる語句は、働きが形容詞と同じなので、英文法では形容詞句と呼びます。句は二語以上で、ひとまとまりとなったもの、を指す言葉です。)
さて、このように、一見、無造作に置かれている、かくも様々な形容詞系統の語句の語順に、何らかの秩序があるのでしょうか。もし、そのようなものがあれば、重要なポイントになり得ます。秩序の存在を探るための方策として、私はここで、核となる名詞を取り巻く形容詞や形容語句(形容詞句および形容詞節)の重要度の序列は、それらが、最高位の位置である文頭に始まり、最下位の位置を示す文末に至るまでの、どの位置にそれぞれ置かれているか、その位置の序列に、きちんと対応している、との仮説を立てたいと思います。この仮説の上に立って、この文に含まれる四つの形容辞を、それらが文中に占める位置と、実際の重要度の序列に、有意の対応が見られるかどうかを検証してみましょう。形容辞(形容詞、形容詞句、形容詞節など、すべての形容語句の総称として使用します)は、それが出現するたびに、イタリック体で示すことにします。分析結果は以下の通りです。ここから一目瞭然のごとく、各形容辞の重要度の序列と、それらがそれぞれ文中で占める位置の序列とが、ぴったり一致していることが判明します。
1.興味深い本 an interesting book
2.世界政治に関する興味深い本 an interesting book on world politics
3.有名な学者によって書かれた、世界政治に関する興味深い本 an interesting book on world politics, written by a famous scholar
4.パリ在住の有名な学者によって書かれた、世界政治に関する興味深い本 an interesting book on world politics, written by a famous scholar liing in Paris.
文全体を一つのバラの花に見立てるなら、四つの形容辞は、あたかもバラの花びらに似て、中心の名詞を守る四枚の花弁となって、花の中心である book を取り囲んでいる景色が見えてきます。このように、見立てを使って、図案化すると、それぞれの形容辞は、中心の名詞との関係の度合いを反映して、一枚ごとに外側に膨らみつつ、美しい花序を形成しつつ、中心から離れていきます。そして、中心との距離に比例して、それらの「本」とのかかわりが少しずつ薄くなるのを確認してください。そこには、見事なグラデーション効果が生み出されています。
ここで、日本語の語順は、英語のそれと真逆であることを、この際、一度冷静に受け止める必要があります。これは偶然なのでしょうか。そうではありません。これがまぎれもない、客観的な事実であり、まさに言語レベルでの真実である、と確認することがまず大切です。さて、その上で、このような語順の逆転としか見えない顕著な現象は、どのような原因から生じたのかを考えてみる必要があります。深い深い闇を抱えた、このような「異文明間」の問題――大げさではなく、私にはそのように思えます――には、何はさておき、思い切った仮説を立ててみることが重要です。では、どのような仮説が立てられるのでしょうか。
私は、これを、日本語は「存在」に傾斜した言語であり、逆に英語は「行動」に傾斜した言語である、という仮説を立てて考えてみたいと思います。日本語は「する」よりも「ある」、あるいは「なる」を重視する言語のように見えます。時代劇で「殿のお成り」といえば、「殿」が姿を見せられる、あるいは「殿」がお出でになった、という意味です。あるいはまた、部下が上官に戦況を報告する場面で、「~味方の勝利にございます。」などというのも、「ございます」が「ある」の丁寧語であることから推察できるように、かくかくしかじかの状況が「存在する」と、部下が上司に報告しているのです。「味方が勝ちました。」だと、その次は「味方が負けました。」との報告が来るかもしれません。事態は流動的です。しかし、「味方の勝利にございます。」と言えば、味方の勝利が確定し、その戦況は変わり得ない、という確定感が伝わってきます。次いでに補足すれば、「~です」も「~ます」も、「~である」の変形にすぎません。同様に、「~だ」も、「~である」の変形です。このように、日本語では、文語でも口語でも、「ある」の優位は動きません。
これに対して英語は、be動詞よりも他動詞を重視し、無数の他動詞を最大限に活躍させることに大きく傾斜している、ダイナミックな言語に見えます。be動詞とともに第二文型を形成する look やsound などの自動詞も一定数存在しますが、それよりも何十倍も多いのが他動詞です。これは、中級以上の英語力を持っている方には、自明の事実です。英語のダイナミズムの源泉は、主語、動詞、目的語の語順をもって君臨する第三文型に存在します。つまり、英語は、標準的な平叙文においては、必ず主語を文頭に持ってくる、という大原則のもとで一糸乱れず動いている言語です。そして、主語の存在するところ、必ず動詞が並走します。したがって、「主語」+「動詞」が文の基本構造になっています。(ただし、口語では、Sure! (もちろん)とか、Good.(よし」とか、 Really?(ほんと?)とか、 Nice talking to you. (君と話せてよかった)など、主語+動詞を省略した表現も頻出します。でも、きちんと言わなければならないときには、省略された主語+動詞は直ちに、完璧な形で復活します。)
そして書かれた英語の場合、「主語」が「動詞」の左に置かれているのは、序列を表しているのです。大切なものほど文頭に近い場所、つまり左に配置されます。これを裏返せば、重要度の落ちる語句ほど、右の後方に置かれる、ということです。日本語はその逆で、決定的な情報ほど、文末に開示されます。「緊急事態宣言は、専門家による~の恐れがあるとの報告を踏まえ、~と~との協議を経て、A県とB県を除いて、二週間延長した上で、昨日解除されました。」という文では、緊急事態宣言が解除されるまでに、ありとあらゆる事情や状況の説明などが、どんどん垂直方向に上積みされながらも、未決の状態で、聞く者の意識に、情報としての次々にのしかかってきます。
日本語は、このように、先にどんどん状況説明や理由や経過措置などを述べたうえで、最後にようやく、結論を述べる習性をもった言語であることが明らかです。日本語は、既に存在する人間社会の序列や秩序を壊すことをこの上ない悪とみなし、権威により頼み、そのために空気を読み、秩序を乱す要因は、排除のために、徹底的に苛め抜きます。コロナ禍の中で跋扈する「自粛警察」の存在が、それを如実に物語っています。変革に拒絶反応を示す、「長い物には巻かれろ」式の思考を、私たちは文化の基盤にしています。中根千枝氏の古典的名著が解明した、いわゆる「縦社会」の文化が日本語の背景にあります。
英語圏の人たちは、これに対して、ルールを何よりも重視し、その上で、自律的な行動を推奨し、時に応じて行われる民主的な変革を、高く評価する文化を育んできました。日本は、「お上」によりかかり、阿吽の呼吸で物事を決め、主語を明示しない言い方を当然とみなし、語尾をぼかし、「言いおおせて何かある」、すなわち全部言い切ってしまわないところにこそ味がある、余韻がある、とする「陰影礼賛」の国なのです。世界観や哲学が根本的に違います。ことの良しあしは全く関係ありません。文明圏が違うだけなのです。大切なのはこの事実を踏まえることです。人類史が紡ぎだした冷厳な事実として、このことが、日本人の外国語、特に英語の学習に、恐るべき深刻な影響を及ぼさないはずがないのです。
横たわる言語的深淵を踏まえた、しかるべき対策が必要です。これを持たない言語教育は、学ぶ人の心を押しつぶします。数多くの「英語難民」を生み出します。問題の深刻さに目を向けず、空疎な希望的目標だけが掲げられる教育の元では、英語習得に向けた日本人の努力は空回りするほかありません。英語がどのような言語であるかを熟知していないと、本当に効果的な授業は組み立てられません。個を重視する、議論を重視する、発音を重視する、文構造を重視する、独特の言い回しを重視する、八品詞の機能を重視する、という弊社の掲げる方針には、それぞれ、戦略的に深い意味があるのです。