英語の音節の重要性と学ぶ難しさについて

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英語の音節って、何?

英語の音節って、何?

2021/03/26

音節を知ろう

音節の重要性に気付く

中学や高校の英語の授業で音節 (syllable)について、10分ほど時間を割き、練習問題も用意して、懇切丁寧に教えている先生はどのくらいいらっしゃるでしょうか。教科書にも辞書にも発音記号は普通に使われています。ですから、よく使われる単語、例えば understand とか proportion という語の音節数を勘定させるドリルが、英語の授業の中で取り入れられていてもおかしくないのです。

ちなみに、昨年まで私の教えていた短大の学生に尋ねたところ、一人を除いて、教えられたことがないとのことでした。そういえば、私自身、英語の授業の中で音節の何たるかを教えてもらった記憶がありません。まさかとは思いますが、そんなことは教えるまでもない、というのが、先生方の一致した見解なのでしょうか。あってはならないことですが、学生は英和辞典を毎日引いて、教科書の自習の段階で発音記号にいつも触れているのだから、発音記号から自動的に分かる音節を、わざわざ時間を割いてダメ押しをする必要は認めない、と思っておられる先生が、たとえ少数でもいらっしゃるとしたら、かなり問題です。

でも、その理由は何でしょうか。それは、英語の音節も音節数も、英語特有のの発音と密接につながっているからです。丁寧な音節の学習が欠かせない理由の一つは、英語がアクセント(強勢)を極めて重要な要素とする言語だからです。実は、英語のネイティブスピーカーたちは、毎日使用する膨大な数の多音節語の、強勢アクセントの位置情報に詳しく通じていない限り、一分、一秒でも、英語は話せません。ですから、英語に強勢アクセントの存在しない状態は、まったくもって、理解も共感も、いや想像すらできません。

ここで普段、英語を話す外国人に、日本語がどのように聞こえているかを想像してみるのも一興かもしれません。参考までに、こんなエピソードがあります。もう30年以上も前になりますが、シェイクスピア研究所にいたときのこと、私はトルコから来た若い研究者と知り合いになりました。研究所には大小さまざまな部屋が幾つもあり、そこに籍を置く学生は自分の部屋と自分の席を与えられていました。私の部屋は相部屋で、何人かの学生が、二つある机の決められた席に座って勉強をしていました。一方の机の私と向かい合う席を与えられていたのが、トルコの大学で文学批評か何かを教えている、その若い研究者でした。彼女は、日本人への偏見も敵意も全く持たない、気さくな東洋人でした。私は、この女性研究者と、ドイツ人の留学生、それに東京から来ていた学生さんと仲良くなり、一緒に学生食堂へ行って昼食をとりながら、いろいろな話をしました。あるとき、私とそのトルコの留学生が、何年も前から留学中の、もう一人の日本人と一緒に、車でどこかへ行く途中、何げなく、自分には日本語はまるで機関銃のように聞こえる、と言ったのが強く印象に残りました。そんな風に聞こえるのか、とショックではありましたが、やはりなー、という思いもどこかにありました。

でも、日本語が外国人にそのように聞こえるとすれば、その原因はどこにあるのでしょうか。それは、日本語には強勢アクセントがないことに起因しています。そして、強勢アクセントがないということは、音節に弱音と強音の区別がなく、すべての音節が平等に扱われることを意味します。その結果、例えば詩のリズムの取り方が、英詩のリズムと異なってくる、ということになります。例えば、俳句や短歌の形式が、五七五や五七五七七の、音数によるリズムで構成されていることは、子供でも知っています。

これを音数律と言います。そして、音数律の支配を受ける日本語には、基本的に、強制アクセントを振り回すボスがいません。どの音節も、それそれ一票の投票権を行使し、等間隔に配置されます。そして、五と七という絶妙な素数を表に打ち出し、一節を八音で構成しつつ、休止の音数が、暗黙の裡に数えられます。つまり、五の音数の後には三音が、七の音数の後には一音が、サイレント扱いとなって、そこに得も言われぬ深い味わいを持つ、神秘のリズムが生じるのです。これが、総数で十七文字の俳句に、無限の暗示力を付与し、「荒海や佐渡に横たふ天の河」という芭蕉の句に、宇宙レベルの広がりと奥行きを与えたのです。

この無音の状態の大切さは、「間」の文化となって、日本の伝統文化の基本を形成しています。「間が悪い」、「間延びしている」、「間抜け」などは、普段、私たちが何げなく使う言葉ですが、「間」の大切さを、世間を人並みに生き抜く知恵、あるいは基本的な生活感覚として、先祖代々受け継いできたことの証明なのです。日本語という言語の基本特性は、実は、このような音節の絶対的等間隔性の上に打ち立てられています。「顧問」と「校門」の違い、「大奥」と「多く」の違いに敏感でなければ、日本語は使えないことを、日本人は本能的に知っています。これらの区別は、日本語の音節が、例外を許されることなく、正確無比の等間隔で継起することの裏返しとして成立するのです。こうして日本語は、それに初めて触れる外国人には、聞きようによって、まさしく機関銃のように聞こえるのです。

でも、この日本語にとっての前提ともいうべき特性は、英語を学ぶ日本人には一大障害となります。英語の音節は、日本語とは異なって、他を威圧することを特性とする強制アクセントの存在によって、日本語的平等性は繰り返し破壊され、その都度、音節と音節の間隔がずらされます。この現実に立ち向かわなければならない日本人学習者が、英語を学ぶ上で共通に抱え込んでいるもう一つの懸念材料は、音節=字数、という誤った思い込みです。「ん」を唯一の例外として、子音はかならず、ア、イ、ウ、エ、オという五個の母音のいずれかと、頭の部分でくっついています。したがって、ア行からワ行までの五十音が、英語のアルファベットに相当するはず、と安易に考えているのです。残念なことに、日本人は、ア行を除いて、五十音はすべて合成音であるという事実を忘れがちなのです。

このため日本人は、英語の音節をめぐる一種の磁場について、きちんと教えられない限り、英語の音節を誤解しやすいのです。例えば、英語を学び始めた中学生は、strong を「ストロング」とルビを振って覚えようとしがちです。そして、「strong の音節の数はいくつですか?」と尋ねられると、彼らは、「ス、ト、ロ、ン、グ」と指折り勘定して、自信たっぷりに「5です。」と答えます。あるいは困り果てて、「三つかな、四つかな?わからない。」という学生もいます。ただ、私の経験では、大学の教育学部で英語を専攻する学生の多くは、あるいは彼らの中でも英語のよくできる学生は、音節の正しい数え方をきちんと教えると、次の瞬間から、どんな単語を出題しても、100%、正しい数を言い当てます。ここで言えることは、すべての母音と子音の発音を正しく覚え、覚えるべき単語の発音を、辞書を引いて、しっかり発音記号で確かめることが習慣になっている学生は、ゲームのルールを聞いた途端に、全問正解になる、ということです。

ところで、この音節に関する規則は、驚くほど簡単です。1.母音の数が音節の数であること。2.単語に含まれる子音は、全部で何個あろうとも、また数個がまとまって継起しようとも、母音ではないので、勘定に入れないこと。3.二重母音、三重母音、長母音は、すべて一個の母音と勘定すること。これだけです。

なるほど、難しい理屈は一つもありません。極めて単純ですが、これは日本人にはすんなりとは受け入れられません。そして、日本人は、受け入れられないものは勝手に無視します。その結果、英語という現実を束ねるルールがそこに存在していても、防御的なバイアスがかかり、日本人に限っては、目に入らなくなるのです。もっと言えば、日本人の耳が「構造的に」認めないのです。

もうすでにお分かりのように、英語の音節に関する最も大切なルールは、「二個以上の音節を含む単語を発音するときは、必ずそれらのどれかの音節―アプリオリに決められているある音節ーを、他の音節より強く、すなわち、その差がはっきりと際立つ程度に、強く発音する」というあのルールです。

ところが、ここからが肝心なのですが、実は、学校では教えられない、もう一つの重要なのルールが強制アクセントのルールに付随して存在します。それは、「強く発音された母音は、同時に、恣意性をもって、いくらか、あるいはいくらでも、長く発音しても構わない」というルールです。これは、暗黙のルールです。アクセントのある母音の強さと長さは、相対的にあらかじめ決定されているのではなく、話者の裁量で、いわば絶対的に、その場その場で、きまるからです。例えば、話者の気持ちが乗れば、強勢アクセントのある音節は、つよく、そしてかなり長く発音されます。あるいは、自分の思惑や都合で、自在にピッチを上げ、これ見よがしの抑揚すらつけて発音されます。勿論、歌謡曲の小節ほどではないですが、小節の利かせ方は、それぞれの歌い手の器量と裁量に任せられる、という点で、原理は全く同じです。

例えば、「田中さん」は、日本語だと、きれいに同じ長さで、「タ、ナ、カ、サ、ン」と発音されます。でも、日本語の下手な英米人なら,「ミスタ、タナーカ」と発音します。あるいは、「オー、ミスタ、タナカサーン」などと言います。同様に「長崎」は、日本語だと「ナ、ガ、サ、キ」と同じ長さの4音でフラットに発音されますが、英米人なら、「ナ、ガ、サー、キ」と「サ」を長く引っ張って、勝手にピッチも上げ、元気よく発音します。彼らは実は、多音節語は、どれかの音節を強く、長く発音しないと、一個のまとまりを持った語として認知できないのです。そこで彼らは、臆面もなく、自分の血管に自分の血が流れているのと同じくらい自然なこととして、このルールを、日本語を含めて、どの単語にも暗黙の裡に適用します。

彼らはおどけているのではありません。それしかできないという、言語的宿命を背負っているのです。彼らにしてみれば、このルールを封印した発音は、何か月にも及ぶ、厳しい訓練を経ないと出来ないのです。すべての音節を、抑揚抜きで、フラットに、正確に同じ長さで発音しなさい、と言われたなら、そしてそれが命令であれば、彼らは二度と口をきけません。

同じ理屈をそっくり裏返すと、日本人が英語を学ぶときの言語を絶するつらさ、口がひきつるほどの恐怖、を体験できます。それはどんな恐怖でしょうか。例えば、先に挙げた単語、strong を、一音節で発音しなさい、それ以外の発音だと、あなたは死刑です、と言われた日本人は、きっと脂汗を流して、立ちすくむでしょう。立ちすくまないとしたら、正しい英語の音を教えてもらっていないからです。日本人の課題は、ここでは、母音ではなく、むしろ、子音の発音のマスターなのです。ここで必要なののは、三つの子音、すなわち、 s, t, r の各子音を、母音を全く入れずに、瞬時に重ねて発音することです。これは実は、一朝一夕で結果を出せる課題ではありません。この課題を改めてまとめておきましょう。「str は、s と t とr の三つの子音が連続的に、母音を一度も交えることなく、いわば純粋な子音として、間髪を入れずに、順番に発音され、次いで、口を大きく開いた o の音を挟んで、ng という一個の子音につながれ、その子音で終わらせること。」

音節の学習は、こういう調子で進みます。これが一通り終わったら、次は文レベルの課題が待ち受けています。文においても、強音と弱音の違いが、まるで絨毯の模様の濃淡のように、随所の出現します。たとえば、What did you say? では、what とdid you とsay がほぼ同じ長さで発音されます。多音節語の内部において適用された、極めて恣意的に見える発音のルールが、文のレベルでも適用されるのです。ただし、ちょっとおかしなことですが、それが自分たちにとって極めて重要なルールだということを、普段から意識している英米人は、一人もいません。そんなことは、空気中に酸素が存在することを、一々意識する人がいないのと同じです。あるいは、自分の血管に常時血が流れていることを、一秒でも不思議に思う人がいないのと同じです。

英語においては、母語話者は、その場、その場で、感情の赴くままに、アクセントのある音節はいくらでも強く、長く、アクセントのない音節は極めて短く、素早く、手を抜いて、発音します。実に壮観です。生命エネルギーの横溢です。これが、英語全体に、自由闊達で、誠に生き生きとしたイントネーションを生んでいきます。日本人は、日本人であるかぎり、英米人の流儀で、自在にイントネーションをつけて発音することはできません。日本人は、一旦、日本語の等間隔の、あの機関銃的な発音癖を、思い切ってすっぱり切除してしまわないかぎり、何年たっても、生き生きとした英語のイントネーションは、まったくもって、手に入りません。

でも、ご心配は無用です。弊社のオンライン英語講座の「初級英語」では、音節を含めて、発音の基礎を一通りきちんと学ぶことができます。5月から始まる講座にご期待ください。そして、どうぞ早めに受講の手続きをしてください。また、「お試し授業」を受けてみたい方は、4月中に、お申し込みください。詳しいことは、弊社のホームページをご覧ください。質問のある方は、電話やメールでお問い合わせください。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

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