オンライン英語学習に期待できること
2021/01/25
オンラインでの英語学習
オンライン教育のメリットとデメリット
コロナ禍の中で、がぜん注目を集めだしたのがオンライン学習です。昨年の3月ごろから、電化製品の販売店では、急にウェブカメラが手に入らなくなりました。安倍首相が悲壮な顔で、春休み期間を延長し、全国の学校をすべて、小学校から大学までことごとく閉鎖してほしい、と訴えるのをテレビ見た多くの人は、今は百年に一度あるかないかの非常時だと直感したはずです。4月以降も多くの学校での閉鎖が延長になる中、私も非常勤講師として勤めていた短大から、オンラインで授業ができれる人は申し出てほしいとの呼びかけがあり、zoomの扱いに慣れておきたいという気持ちもあって、引き受けました。
最初は不安もありましたが、助手の方が付きっきりで対応してくださったので、授業は、全体的に思いのほかスムーズに運びました。以下、その時の様子をレポートしておきます。
私は出勤と同時に、指定された教室に先に入って学生の出欠確認を済ませて待機中の、事務助手の隣に用意されている自分の席に座ります。すぐ横のモニター画面に、まるで碁盤の目のように綺麗に区切られた多くの学生諸君の顔を横目で見ながら、目の前のもう一台のパソコンにUSBを差し込み、最初に使うパワーポイントの資料を画面上に出し、資料共有をしてから、マイクのミュートを解除し、授業が始まります。無駄に過ぎる時間はなく、特にストレスもなく、順調な滑り出しです。
椅子に座って、声も日常の普段通りの大きさで、テキストの英文と語義解説の資料を共有しながら、1年生の必修科目である「教養英語」の授業が進んでいきます。同時に多人数を教えているにもかかわらず、まるで一人を相手にしているような不思議なストレスフリーの感覚の中で、対面授業とは明らかに異なる、何だか得体のしれない、ある種の前意識的な緊張の中にいました。オンライン授業でハッと気づかされたのは、いまさら、と言われるかもしれませんが、あらかじめ授業の準備をしっかりしておかないと、わずかな言葉の間延びでも、共有資料のミスでも、まるで拡大鏡でのぞかれているように目立つ、ということです。教室という物理的空間に、同時にたくさん人がいることに伴う圧迫感とは違った、別種の切迫感に耐えていかなければならないのです。
先ほど触れた如く、出欠は事務助手によって確認済みなので、対面授業なら5分はかかる確認のための時間が確実に節約できます。そして、名簿片手に大きな声を張り上げたり、名前を繰り返し呼んだりする必要もないので、授業は淡々と進み、予定していた分量もあっという間に消化できます。
学生の皆さんからは、挙手による質問の代わりに、チャット機能を使った質問や要望が絶えず寄せらます。それにすぐに答える以外は、パソコン上の資料をにらみながら、注意深く言葉を選びつつ、それでいて、通常より少し早口でしゃべることになります。ところが、この効率の良さが、いつの間にか心理的なストレスになります。平板な碁盤の目で区切られ二次元映像の学生諸君の姿からは、もはや、対面授業に特有の、あの熱っぽい三次元的な反応が返ってこない分、心に空洞を抱え込んだような、ある種の喪失感が漂います。そんな中、自分の作ったパワーポイントの資料に間違いがあると、なぜか目ざとく気付いてしまいます。
授業は勿論、相手があって初めて成り立ちます。そこで、授業に参加している側の学生諸君の立場からこの事態を考えて見ましょう。真っ先に言えることは、教室を奪われたオンラインの「授業」は、もっぱらパソコンやスマホやタブレットの画面と、端末を介した音声に絞られるため、制作された資料の良しあし、説明の言葉の明瞭さの度合い、授業の中身の濃さ、授業のメリハリ、ポイントの整理のされ方、などが手に取るようにわかる、ということです。例えば、説明があいまいだったり、しどろもどろになったり、資料に聞き手の関心を喚起する工夫が足りなかったりすると、たちまちマイナス評価が累積します。
前期に私の担当した「教養英語」は必須科目であるため、オーソドックスに、文法、発音、語彙の三つの観点から、要点をまとめたパワーポイント資料を作成し、それを毎年少しずつバージョンアップしながら使ってきました。限られた時間内に、いかに効率よく、英語の特徴を伝えきることができるかが、課題でした。文法、発音、語彙に関する主な項目の解説が終わるごとに、その定着を図るための練習問題が宿題として課されることになっていましたが、オンライン授業になると、紙媒体のやり取りができないので、短大あての添付メールで宿題を返却してもらい、それを事務局で紙に打ち出してもらい、それを持ち帰って点検することになり、双方にとって大変面倒なので、大幅に回数を減らしました。これは大きなデメリットです。
もう一つオンライン教育にありがちなこととしては、大学の方針として、コロナ禍の中でも確保しなければならない一定数の対面授業のスケジュールとの兼ね合いで、4クラスの授業を二クラスに編成しなおし、一度のこれまでの倍の数の受講生を毎回教えることになりました。こうなると、パワーポイントの資料に求められる精度はさらに高くなります。他方、教科書の英語も、一旦パワーポイントに打ち直し、解説を加えたものを、画面共有しながら授業を進めました。これまでは、教科書の何ページを開いてください、といって、学生諸君に当てたりして、音読や和訳を要求していましたが、教室という空間を共有することができないオンライン授業では、人数が倍増するような環境下で、あえてそのようなパーフォーマンスをしても、場所を共有することで初めて生まれる手ごたえがまるでなく、失意のうちに放棄せざるを得ませんでした。オンライ授業では、もっぱら画面共有の資料の出来栄えがものを言うのです。また、資料をべースにしたプレゼン的な説明力が何よりも求められます。
これは、授業をする側にとっては極めて厳しい試練となる一方、授業を受ける側にとっては、受ける授業を自分で選ぶ環境が、棚ぼた敵に、手を伸ばせばに届くところに存在することになり、それに向かったアクションを起こす可能性が存在します。このようなもし2年、3年と続けば、世界中の授業は一変し、受益者優先の買い手市場になるかもしれません。オンライン授業は、受講者から見たときの、相対的低品質授業を駆逐する可能性を秘めています。
手前みそで恐縮ですが、一つの体験をお話しさせていただきます。私は2002年4月、今から19年前、当時勤めていた大学が、オーストラリアのどこかの大学に働きかけ、協力を得て、お互いに必要な授業をテレビ会議システムを使って、オンラインで交換するという、産官学連携プロジェクトの、大学側の選抜チームの一員に選ばれるました。私が働きかけたある大学とのコンタクトが取れ、協力の取り付けに成功し、その年を含めて、2年間の実証期間を経て、インターネット接続が可能だということが判明しました。細かい打ち合わせの後、正式に学部間の協定が結ばれ、私の後学期に開講した「異文化コミュニケーション論」と銘打った授業15コマのうちの最後の3コマを、こちらの要請に応じて、その大学から送られてくる英語の授業で埋めました。交換に、日本側からは、私からお願いしてご協力をいただいた、国語の先生や音楽の先生などが、先方には珍しい、日本独自の内容を盛り込んだ授業を用意して、協力校の日本語専攻の学生諸君を対象に、オンラインで配信されました。契約に基づくこの方式は、少しずつ変えながら、私の定年退職の年まで継続実施されました。
これが、これまでの日本にあまりなかった、国際間の協力を前提とした国際遠隔授業というもののあらましであり、私たちがグループで達成した本格的な国際遠隔教育のためのプロトタイプでした。ここでは、必要な授業をお互いに請求しあえるのが、何よりのメリットです。授業料は、お互いが授業を提供しあいますから、差し引きゼロになります。必要な機材もお互いに自分のところで調達、もしくは既存のものを使用し、必要なスタッフも自分で用意します。電話とメールで連絡を取りながら、スケジュールの打ち合わせを行い、計画通りに事を運んでいきます。
この種の授業では、自分が本当に必要としているものは何か、について考えることを余儀なくさせます。必要な授業がなければ、何も要求しなければよいだけの話です。逆に、もしそれがあれば、相手にそれを要求することができます。授業の本質って、何だったのだろうと、もう一度カリキュラム作りの基本に返って、じっくり考えさせてくれるのが、国際遠隔授業というものの本質にかかわる特性です。そう遠くはない一つの可能性の中で、ある種のプレッシャーが働くことによって、不必要なものはどんどん淘汰される運命にあります。
総じて、オンライン授業は、二次元の空間で行われる、ヴァーチャルな授業という特色を持っています。画像と音声はリアルに存在しますが、端末を通した近似値としてのそれなので、使用機器の不具合や通信の乱れに巻き込まれることもあります。対面授業の中身の濃さ、クラスメート同士の連帯意識、などは望めません。両者の間には、それぞれのメリットとデメリットが存在します。
しかし、オンライン授業の側に立つなら、次元が一つ減ることで、逆に、優れた授業者と優れた授業をあぶりだす働きが加速するように思われます。ここでは、「良貨は悪貨を駆逐する」ことになるかもしれません。