自動詞と他動詞

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自動詞って何ですか?

自動詞と他動詞

2020/11/25

自動詞って、何ですか?

英語の世界観と日本人の認識構造

あるとき、自分の教えていた学生の一人が、自動詞とは「自分の動きや動作を人に伝える動詞」だと信じていることを知って仰天しました。では他動詞はどんな動詞だと思っていたのでしょうか。その考えを敷衍すれば、多分、「他人の動きや動作を伝える動詞」だと思っていたはずです。ここから伺えるのは、日本人には自他の区別はあっても、所詮それは、同じ人間である自分と、もう一人の人間との間の区別であるということです。確かに日本人はことのほか他人の目を気にします。人にどう思われているかが結構、気にかかるのです。

しかし、日本人は、自分以外の人や物はすべて自己以外のものであり、それゆえ、自分とは隔絶された「他者」である、という厳しい認識、あるいは世界観を育んでは来ませんでした。一つには仏教の教えもあり、山川草木悉皆成仏と言って、この世のすべてのものは仏性を秘めており、それ故、蔑ろにしてはならない、という考え方が日本人の世界観の根本にあります。つまり、動物はもとより、植物や石ころに至るまで、それぞれが己の魂を宿している、という認識が認められます。

森羅万象に魂の存在を認めるアニミズム的な発想が日本に存在したことは、「八百万(やおよろず)の神」という言葉にも認められます。また、新しく家を建てる際には、今でも地鎮祭を行い、その土地の神様に工事の無事を祈願するのが常です。安産祈願、商売繁盛祈願、家内安全祈願、交通祈願、合格祈願、必勝祈願、ときりがないほど神様に祈願します。

アニミズムというと、何か次元の低い考え方であるかのように思う人もいるかもしれませんが、それは全く違います。昔から木や竹を使って、巧緻を極めた匠の技を披露し、宗教性と芸術性が見事に融合した神社仏閣を建て、絵画や彫刻、さらには短歌や俳句、源氏物語や平家物語、そして狂言や能、浄瑠璃や歌舞伎、江戸後期の浮世絵を生み出した日本人は、身の回りのありとあらゆるものに親しみと一体感を感じることができ、もちろん友人や知人の心にも深く入り込むことができるのです。この極めて浸透力に富んだ共感的感性は、恥ずかしく思うよりも、むしろ誇りに思うべきことなのです。

ですから、ここに鉛筆が一本あれば、日本人は、それが自分の鉛筆か、それとも誰かほかの人に所属するのか、という区別はきっちりつけても、それが何か自分と異質なものであるとか、絶対的な他者である、という認識は持ち得ないのです。そして、日本人なら、それが筆記用具の一つであるという認識は持っても、それが手に握る行為の対象であるとか、ナイフで先端を削る行為の対象である、という大仰なとらえ方はしません。もちろん、鉛筆を手の先で握ったり、ナイフで削ったりする行為ができないわけではありません。しかし、「握る」とか「削る」という行為の概念の中に、その行為の及ぶ対象はすでに織り込み済みなのです。そして、発話の中で、握ったり削ったりする行為の主体、すなわち「自分」「私」「僕」「当方」「彼」「彼女」「君」「お前」「俺たち」、などはできる限り省略されます。しかし、だからと言って、日本人は現実に疎く、実践的でないかというと、そんなことはありません。日本人ほどまじめで、ルーティーンに厳しく、実践性を重んじる民族はめったにいません。ただ、文化、もしくは世界観が大幅に他の文化圏の人たちと異なるのです。

英文法的に言えば、英語が秘めている文化、もしくは世界観と、日本語に秘められた文化、もしくは世界観とは、「他者性」という感覚において雲泥の差があるのです。「他者性」の感覚は、もともと日本人には希薄です。日本的感性は、くどくどしい説明や解説を嫌います。「言い遂(おお)せて何かある?」の世界であり、多くの場合、阿吽の呼吸で、相手にそれと察してもらうことを期待します。もし無理に「他者性」を感じさせられる「肌に合わない」概念を押し付けられれば、多くの日本人は、それを排除すべき「異物」と認識しかねません。ですから、いまさら何を、といわれる議論になりますが、「自由」も「民主主義」も「人権」も「公共の福祉」も、内容的には十分理解でき、それぞれ極めて重要な概念であることは百も承知していても、ともすると感覚的に「何かしっくりこない」と感じられるのです。これらの数多の翻訳語は、すでに日本語の一部として受け入れています。しかしこれらの語は、実は、日本人がおそらく何千年もかけて培ってきた「ひと」の道、家族の絆、人の世を構成する人情と義理、「同調圧力」と揶揄される「世間体」、普段着の生活感覚などとは、本来的に異質なのです。

 

 

 

 

 

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