接頭辞(prefix)に親しもう
2023/04/26
接頭辞(prefix)に親しもう
接頭辞(prefix)の活躍する言語ー英語
1.語彙学習の重要性
皆さんは接尾辞(suffix)とか接頭辞(prefix)という言葉を聞いたことがありますか。ひょっとしたら、これらの言葉は、特に初心者の方には、あまり耳慣れない言葉かもしれません。それとも、中級か、それ以上の方なら、どこかで聞いたような気がする、という方が相当数いらっしゃるかもしれません。ただ、その場合でも、多くの方は、ほとんど気にも留めないで来られたのではないでしょうか。けれども、日ごろ、自分のペースを維持しながら、コツコツ英語を学んでいらっしゃる多くの方々、そしていつの日か、真に役立つ英語力を身に付けたいと強く願っていらっしゃる方々には、是非、この際、これらの言葉に親しんでいただきたいと思います。と申しますのも、これらは、英語の語彙を増やしたいと思われたときに、補助ブースターのように、すばらしい力を発揮するからです。
ところで、語彙を増やすことはどんな意味を持っているのでしょうか。それは英語学習上、どれくらい必要な作業なのでしょうか。でも、それを考える前に確認しておきたいのは、語彙とはそもそも何かということです。語彙(vocabulary)には二つの意味があります。一つは、所与の言語が持つ全語数という意味です。もう一つは、所与の言語に関して、特定の個人が知識として所有している語の総数という意味です。後者の場合、語彙数は、個人によって大きく異なります。
そこで、仮にある個人が、ある外国語の単語を10個知っている場合と、語彙の学びを通じて、1000個知っている場合とを比較してみましょう。その人が、その外国語が使われている国に行ったときを想像すれば、その知識の差は、日常のコミュニケーションの場面で、雲泥の差となって現れるであろうことは、想像に難くありません。同様に、その同じ人が、その同じ言語に関して、語彙数が10,000に達した時点と、学び続けて、100,000に達した場合とを比べるとどうでしょう。コミュニケーションは、質的に大きく変わることが予想されます。いかがでしょうか。発音や文法の、英語学習にとっての重要性を、私は少しも否定するものではありません。しかし、語彙の学びは、発音も文法もその基礎が語彙に包摂されていることも含めて、外国語学習のアルファでありオメガなのです。
では、語彙の習得という観点から見たとき、日本の英語教育の現状はどのように見えるでしょうか。具体的な授業風景から、問題点に迫ってみましょう。
日本では、英語の学びは英語のリーダー(「読本」)と呼ばれる教科書を開いて、教師の指導の下に、英語で書かれた各レッスンを学びます。先生から、単語の意味や文法の説明をあれこれ聞き、最後に本文の和訳をノートして、学期末のテストの中で、単語や文法のテスト問題、英文和訳、和文英訳、などが出題されたとき、80点以上の成績をとれば、それで勉強は順調に進んでいると、先生も生徒も判断します。ここに決定的に欠けているのは語彙学習への準備です。教科書に相当数の新しく学ぶ単語が使われているはずですが、それらの語の学びは、訳語を一つか二つ提示する以外にほとんど何も手が打たれていません。しかも、教科書の英文は大きな文字で印刷され、分量が極端に少ないのです。そして、英語の試験問題は、原則として教科書に書かれている英文から出題されます。この二つの条件が重なると、学習者にとっての英語の学びは、いわゆる「暗記科目」に限りなく近づきます。事実、学び始めの1~2年は、教科書の英文を読み、その和訳を暗記していれば、結構よい成績を収めることが可能です。でも、現実に、英語が暗記科目でないことは自明です。どの言語でも、それが生きた言語であれば、日々変化する環境の中で、その都度、微妙に言い方を変えて、常に新鮮に、そして何よりも、自由奔放に話されています。ですから、本来なら、英語教育も、実社会で使われる英語を常に念頭に置きつつ、行われなければならないはずです。中間試験、期末試験、実力テストと、試験、試験で明け暮れる学校の英語教育の中で、「おや?英語は暗記科目なの?」と学習者に思わせてしまった時点で、英語教育は、生きた言語としての英語の実態を離れ、効力を失って、空中分解します。入学試験は、暗記で対応してきた教科書から出題されることはなく、それに解答するには、本物の英語力が要求されるからです。ここに、能天気な理想主義と厳しい現実との間に意識の落差が生ずる隙間があります。ここに、誰も望まないはずの「落ちこぼれ」を生み出す陥穽が潜んでいます。そこで学習者が、一周遅れで、「何かが違う」と気づいたときにはすでに遅く、自分の通う進学校のスピードは、自分の理解のスピードを超えて、はるか先を行っています。慌てて塾へ行けば、文法の難しいポイントなどを、きちんと学びなおすことができますが、それでも、当面の遅れを取り戻すのが精一杯で、語彙の習得に向けた学習にまでは手が回りません。
薄っぺらな「リーダー(reader)」に頼りすぎる日本の英語教育には、語彙の習得という大テーマに向けた、周到な対策が見られません。例えば、いわゆる八品詞の懇切丁寧な解説、意味の重層性(文脈によってさまざまの異なる意味で使用されるという事実)、発音、慣用句への目配り、豊富な例文の提示、などが、本来の単語学習には不可欠なのですが、「リーダー」(英語教科書)には、せいぜい、文法の習得に資するような配慮が見られるだけです。例えば、中学段階で、動詞の過去形を学ぶレッスンは、なんとなく過去形の目立つ文が並んでいる、といった配慮が見られるにすぎません。では「リーダー」はもっと分厚くすればよいのでしょうか。理想を言えば、「リーダー」は現行の五倍くらい分厚くすべきです。「学習者にいきなり多くの単語を覚えさせようとすれば、学習者への負担はとても重くなる」という理屈、また、「文法の説明と練習問題に割くべき多大な時間を考えると、単語の詳しい解説までは手が届かない」という言い訳ももっともらしく聞こえます。でも結果はどうでしょうか。
中学、高校、大学と、10年ばかり教室で英語を学んで社会に出ても、英語に自信が持てない人たちは、圧倒的多数のはずです。はっきり不安だと、焦りを感じている方も、意外に多いのではないでしょうか。そもそも、言語を真剣に学ぶ人にとって、語彙のシステマティックな学習は、基本中の基本です。単語の知識、すなわち語彙が、しかるべき方法によって、言語運用に直結する知識として、5年、10年のスパンで、無理なく積み上がっていかない限り、英語学習は目に見える成果が上がらず、途中で息切れし、頓挫します。積み上がるべき語彙の供給不足から、学習者は、もはや学び続ける意欲自体を失います。「こんなことの何が面白いの?」と、鼻白む気持ちが湧いてきて、それ以上学び続けられないのです。一種の酸欠状態です。
こうなると、ちょっと難解な英文は、もう、はなから読もうという気にはなれません。まして、社会に出て難しい交渉ごとを英語でこなすレベルの英語には繋がっていきません。実社会で使われている英語は、一見、どんなに易しい文であっても、また、5分、10分の、ちょっとした会話でも、すでに相当数の語の知識が前提になっています。
語彙の重要性は英語に限った話ではありません。例えば、日本語の習得というテーマに限ってみても、語彙学習の重要性は変わりません。そのことを否定する人もいません。語彙の豊かな人のコミュニケーションはスムーズに運びます。豊富な語彙は、幅広い人間関係を、いつでも力強く支えてくれます。無論、仕事にも十分に生かされます。日本語の習得に関して当たり前のことが、学校の英語の場合、なぜか、ほとんど顧みられていないのが現状です。薄っぺらな教科書に頼りすぎ、文法の学びと同じくらい重要な語彙の学習への配慮、ないしは目配りがほとんど感じられません。そもそも予習として、教科書に出てくる語をすべて辞書を引いて調べる、という基本の作業を前提にした英語教育がうやむやになっています。ですが、学校の授業だけで完結する言語教育など、どこにも存在しません。本来なら、なるべく早い時期に、英和辞典の引き方を懇切丁寧に教えた上で、自主的に辞書を引くことを前提にした英語教育が展開されなければならないのです。中・上級者には英英辞典の使い方に慣れ、英英辞典の使用を前提にした語彙学習が継続できるよう、戦略的に一貫した指導が不可欠です。
その上で、理想として私が掲げる語彙学習の到達目標は、数字では一概に示しにくい上に、高度な運用に耐えるものでなければならないので、意識的、戦略的な学習をする心の用意のある人にだけ、それを目指して取り組んでいただけるようにできています。私の主たる課題は、日常的な英語の運用をサポートできる基本語彙を、比較的短期間に学習者に身に付けていただくための方法を提示し、その上で、今日のテーマである接頭辞の重要性に注意を喚起することです。
そこで、語彙学習を含む、言語学習の参考モデルとして、たまたま、アニメや漫画によって、日本語に多大の興味を持った若い外国人が、日本語を主として自力で学ぶときの手順を想像してみましょう。彼らは、まず、ひらがなとカタカナの読み方と書き方を学び、それから、川、山、木、森、道、雨、風、兄弟、姉妹、父、母、家、人、町などの身近なものを表す漢字を学び、ついでに、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、百、千、万などの漢数字を学ぶでしょう。次に時間、空間、歴史、学校、病院、銀行、会社、国会、外交、戦争、平和、図書館、教科書など、誰でも学ぶべき重要な語彙を、国語辞典もしくは漢和辞典を使って、慎重に学ぶはずです。でも、ご承知のように、当用漢字や常用漢字の数は極めて多く、それらの組み合わせでできている諸概念、諸事物、諸事象の名称も、気が遠くなるほど多いことは、日本人の私たちが一番よく知っています。これまで日本語に接したことのなかった外国人が、日本語で読み書きをし、日本で暮らしても困らないだけの語彙力を獲得することがいかに難しいかは、これでよくわかります。
ここで、言語学習のもう一つの参考事例として、日本人が、国内の小学校で日本語を学ぶ場合を想像してみましょう。日本の小学校では、入学と同時に、全国共通の教科書を使って、日常よく使われる漢字や様々な言い回しを学習します。国語だけではなく、社会、理科、算数、図工、音楽、家庭科など、あらゆる他の教科で使われる教科書からも、様々な語彙を吸収します。また、図書館においてある各種の本、例えば、動植物図鑑や料理本、趣味の本、偉人伝、冒険小説、児童小説、SF小説、推理小説、短編小説、小説、エッセイなどを借りて読むと、日本語の語彙を増やすのに役立つので、だれも止めません。むしろ、公認された学びの一環です。ところで、語彙学習の観点から特に興味深いのは、小学校の国語の時間に、遅かれ早かれ、必ず漢字の部首を学ぶことです。例えば、木扁、手扁、サンズイ、禾扁、口扁、鳥扁、魚扁、草カンムリ、竹カンムリ、病ダレ、などの学びです。これはほんのサンプルにすぎず、ほかにも重要な部首が数多くあります。さて、この学習の目的は何でしょう。部首と画数を基に整然と編纂されている漢和辞典を、必要に応じて、直ちに参照できるようになるためです。しかし、副産物として、漢字の形や意味への関心が呼び覚まされます。そして、中学や高校、さらには大学に進学して様々な書物を読むにつれて、漢字を使った無数の熟語と専門用語がその屋台骨を支えている、日本語全体への理解が深まり、情報の収集力が高まり、議論が上手になり、発信力も確かなものになります。
このように、漢和辞典を引くのに欠かせない、漢字の部首の学習は、外国人が本格的な日本語の学びに挑戦する際にも、日本人の小学生にとってと同じくらい、有効なはずです。
一方、日本人が英語を学ぶとき、肝心の語彙はどのように学習するのでしょうか。近年、日本の小学校では、英語が教科になったため、簡単な単語やフレーズ、また短いいくつかの文の学習に加えて、単語の綴りや文法の初歩にも目が向けられます。中学校では、リーダー(読本)で語彙を増やしつつ、他方で英文法の基礎を固めます。文法については、八品詞、主語、動詞、目的語、補語などの文の要素、文構造の基本、人称に応じた動詞の時制変化、特に、動詞の現在形、過去形、過去分詞、現在分詞、to付き不定詞について学び、疑問文、否定文、感嘆文、複文、重文、受け身、現在進行形、関係代名詞、完了形、仮定法など、実際に英語を聞き、話し、読み、書くために必要な文法の骨格を、学び終えているでしょう。
確かに、この時点で、日本の中学生は相当数の語彙を獲得しています。これらをすべて活用できれば、英語による、或る程度のコミュニケ―ションは可能です。でも、それには、各単語のアクセントの位置まで含めた正確な発音や、文中で生じる抑揚への対応や、正しい語順、関連する慣用句の知識などが不可欠です。それらを文レベルで活用できるまで、完全に消化するには、辞書的な知識に加え、徹底したプラクティスが必要です。本当の語彙力は、一個の単語に「対応する」一つか二つの日本語をあてがって済ますようなレベルの英語教育からは生まれません。本当の語彙力は、戦力として使えるレベルの、語や句の正確な実践的知識を意味するからです。真の語彙力が何かは、日本の英和辞典の記述が、或はオックスフォードやケンブリッジの英英辞典の記述が、語っています。発音や品詞の解説、用法の解説、用例の掲載のない英和辞典も英英辞典もありません。その用意周到さが、そのまま、語彙とは何かを最も雄弁に私たちに伝えています。
2.高校1年生から始める自主的な学習
では、語彙学習という観点から見たとき、日本人の、高校での英語学習はどのようなものであるべきでしょうか。大学受験に備えて、詳しく英文法を学びなおし、格調の高い、息の長い英文に触れ、多くの長文問題を解くのは決して悪くありません。英文読解に関する定評のある受験参考書も、精読すれば、随分効果的です。しかし、大学に合格したとたんに学習を止めたり、社会に出たとき、もう要らないからと、忘れてしまうのではなく、自分のために、一生学び続け、折に触れて積極的に英語を使うことを想定するのであれば、そのための英語は、10代の後半あたりから、寸暇を惜しみ、戦略的、かつ積極的に、自分から学びに行く必要があります。けっして、学校や塾での、集中的、共同的な学びが重要でないというわけではありません。それらも立派に英語の学びの一部です。しかし、言語学習は長期にわたる習慣にならなければ、決して大きな成果は得られません。十分若い年齢のころから、学びのチャンネル増やし、自分の判断と決意が重視される、探求型の学習に切り替える必要があります。
それらの要請をすべて満たす英語の学習は、一体、どのようなものなのでしょうか。高校1年の初めから、学校の授業とは別個に、毎日、一定時間、自由に英文を読む訓練をします。自分が読みたい物語やエッセイを、書店や図書館で自主的に探します。これは決して珍しい学習法ではなく、サイドリーディングと言って、基本的には、学校でも推奨されている方法です。このようにして、自分で見つけた、自分用の教材を、英和辞典を片手に、自由に多読するというところが、この学習の味噌です。この学習はスピードを重視します。少々知らない単語が出てきても、読み進めることが大切です。しかし、それが分からないとストーリーの面白みが失われると判断できるほどの、重要な語句に遭遇した場合、携行する英和辞典を引き、その語や句を調べます。知らない単語の場合、その発音、品詞、意味、慣用法などを調べ、単語帳に記入します。教科書以外の本を、こうして、3か月、5か月、と読み進めていけば、やがて、英語の地力が自然につき始めます。この間、あなたの語彙は、良質な土壌に蒔かれた種のように、どんどん葉っぱを伸ばし、成長しているのです。知っている語の数が、いつの間にか、多くなります。知っている語の、慣用句を含めた、様々な使い方が分かってきます。
3.語根を自在に成型する下位要素としての、接頭辞(prefix)と接尾辞(suffix)
そして、この学習が2年ほど続いたころ、多くの英語の単語には、固有の、内的構成要素、すなわち、分解可能な下位要素があることに、誰に教えられるともなく、自然に気づき始めます。ところで、中級以上の方ならすでにご存じのように、単語には、大抵、語根というものがあります。それらは英語の場合、ラテン語やギリシャ語、もしくは古英語やフランス語に由来します。中には、ドイツ語やオランダ語、アラビア語、その他に由来するものもあります。辞書を引き、単語の身元調べ、すなわち語源調べをするのも、それなりに、面白いものです。しかし、もっと面白いのは、語根にくっついて、単語の品詞や意味を自在に変え、華麗な自己成型を可能にする、特定の下位要素の群れ、すなわち、接頭辞(prefix)や接尾辞(suffix)に注目することです。
くどいようですが、英語学習の最大の関門は語彙学習です。そして、この観点から言っても、死活的に重要なのが、接頭辞と接尾辞に関する基本知識を、しっかり身に付けることです。よく観察していると、決まった法則性が見えてきます。例えば、-ness は、 kind(「親切な」)という形容詞に付けると kindness(「親切」)という名詞を生み出すことができます。同様に、sad (「悲しい」)という形容詞に -ness を付けると、 sadness(「悲しみ」)という名詞に変わります。一般に--ness は形容詞にくっついて、それを名詞に変えます。また、-tion という接尾辞は、ある種の動詞の語尾につけると、その動詞を名詞に変えることができます。例えば、move (「動く」)という動詞に-tion をつけて、motion とすれば、「動き」とか「動作」という意味の名詞になります。同様に、cultivate (「耕す」)という動詞に-tion という接尾辞を付けると、cultivation(「耕作」)という名詞になります。また、entertain (「楽しませる、もてなす」)という動詞に -ment という接尾辞を付けると、entertainment(「余興」)という名詞に変わります。さらにまた、revive(「生き返る」)という動詞に-al という接尾辞をつけると、 revival(「蘇り、再上演」)という名詞に変わります。ところで、今例に挙げた動詞の move は、 -able という別の接尾辞をつけると、今度は名詞ではなく、movable (「「動かすことが可能な」)という形容詞に変わります。一方、先ほどの kind(「親切な」)という形容詞に、接尾辞ではなく、-unという接頭辞をつけて unkind とすると、品詞は形容詞のまま、「不親切な」という、逆の意味に変わります。興味深いのは、同様のことが別の接頭辞についても起こります。例えば、今紹介したばかりの movable (「動かすことが可能な」)という語の頭に、別の接頭辞 -im (語によっては-in)をつけて、immovable とすれば、「動かすことのできない」という意味になります。ここでも、unkind の場合と同様、品詞は変わらず、形容詞のままです。しかし、この形容詞に、先ほどの -ness をつけて immovableness とすれば、「動かしがたいこと、不動性」という意味の名詞になります。一方、本来は形容詞であるこのimmovable を、土地や家屋など、動かせないもの(不動産)を表す可算名詞として、人が頻繁に使うようになれば、やがて、この形容詞は、「不動産」という意味の名詞として市民権を得ます。世界中で流通し、辞書にも掲載されます。実際、この語のこの形は、「不動産」の意味で辞書に採択されています。
今、市民権という言葉を使いましたが、市民権は、英語では citizenshipと言います。citizen +ship でできている語です。もうお分かりのように、-ship も接尾辞の一つで、物事のエッセンスや特質を表現するときに使われます。つまり、市民という身分のエッセンスは、勿論、市民権なのです。同様に、friendship(「友情」)もleadership (「指導力」)もfriend (「友人」)やleader(「指導者」)のエッセンスを抽出したとき出てくる抽象概念として使われます。 ほかの例としては、gentlemanshipとかguardianship があります。前者はgentleman が「紳士」という意味ですから、「紳士のエッセンス、」すなわち「紳士らしさ」、「紳士的態度」、という意味です。後者はguardian が保護者とか庇護者という意味ですから、「保護」「庇護」という意味で使われます。抽象化して本質をあぶりだす接尾辞、と覚えておけばよいでしょう。
このように、おびただしい数の接頭辞と接尾辞を、既存の語の語頭や語尾に、次から次へと接合することで、それらの語の意味を自在に変更し、また、まるで手品のように、その品詞を変えることが可能になったのです。こうして出現したおびただしい数の新語の群は、歴史的に通覧するとき、まさしく、言語としての英語の面目を一新させてきたことが分かります。時代の要請に応じて、接頭辞や接尾辞を付け加えて生まれた無数の新語は、変わりゆく世界のニーズを満たす便利な符丁、もしくは合言葉として、次々に、新聞、雑誌、テレビ、学会などで公認され、世界中に喧伝され、普及していきました。めぼしいものだけでも、それぞれ数十個以上存在する、接頭辞と接尾辞は、過去数百年にわたって世界の近代化を牽引してきた西洋文明の中核国イギリスの言語、すなわち英語の語彙を、文字通り幾何級数的に増やすことに貢献したのです。
これに匹敵する事例としては、日本語の明治維新後の日本の急激な近・現代化の中で達成された新語の造成が挙げられます。この時に西洋近代文明にわずか数十年で完全に追いついた日本を支えたのは、言語の近代化でした。そして言語の近代化を支えたのは、漢字を組み合わせで作られた無数の新語であり、新概念でした。今や日本は、アメリカ、中国に次ぐ世界第三位の経済大国です。太平洋戦争の後半に、めぼしい町や市街地が全面的に焼け野原となり、広島と長崎に原爆が投下され、壊滅的に破壊された日本の、戦後の急速な復興、目覚ましい経済的発展は、またしても世界を驚かせました。でも、それを支えたのは日本人のあらゆる分野における、専門的、かつ高度な経験値です。そして経験値の土台は日本語です。特に日本の近代化以後に生まれた、おびただしい数の、漢字の組み合わせからなる、日常語および専門用語です。例えば、鉄橋、鉄道、電信柱、自転車、自動車、汽車、飛行機、戦闘機、航空機、望遠鏡、顕微鏡、標本、経済、貿易、運輸、心理学、物理学、天文学、科学、生物学、地学、歴史学、医学、医者、病院、患者、外科医、内科医、薬局、処方箋、など無数にあります。
これらの事実を対照的に眺めるなら、私たちは改めて、言語の偉大な能力、分けても、英語の持つ底知れないポテンシャルに、気づかせられます。そして、それは、巡り巡って、日本人英語学習者たちへの一大ヒントにもなります。もうお気づきのはずです。接頭辞の学びも接尾辞の学びも、語彙学習の一環として位置付けるのが、正しい選択です。英語学習者は、その学びが中級に達した後は、新しい語を学ぶときの鉄則ルーティーンとして、接頭辞、接尾辞に目を配る必要があります。なぜなら、両者の学習は、英語学習の総合的完成段階に相当する、語彙学習の成否を分ける、死活的に重要な学習だからです。しかも、この学習には、一種特異な、機動力の発揮が求められます。でも、それは、どういうことでしょうか。例を挙げて説明しましょう。
例えば、civil(「市民の」)という形容詞は、もともとギリシャに発展した市民国家の構成員である、市民権を持ったcitizen(「市民」)に関係のある語なのですが、この語に、接尾辞の-ize を加えて、civilize (「啓蒙する」)という動詞を作り出すことができます。ところが、こうして出来たcivilize に、さらにもう一つの接尾辞、-tion を加えると、今度は、 civilization (「文明」)という名詞を生み出すことができます。こうして、芋ずる式に手に入る、civil, citizen, citizenship, civilize, civilization は、明らかに、同族語群を形成していることが分かります。つまり、語根の civil を中心として、-ize と-tionという、二つの接尾辞が、殊に重要な役割を果たしていることが分かります。これらの一連の学習は、語根+接尾辞という公式に、常日ごろ、一定の目配りを促す学習です。ルーティーンとしてのこの種の学習は、一つの語の周りに存在する、複数の語群に特別の注意を促すところに特徴があります。
ところで、英語では,語根から派生するこれらの一連の語を派生語(derivatives)と呼んでいます。英語の語彙の半分以上を占めるラテン系の語は、極めて高い確率で、複数の派生語を持ちます。例えば、先ほど見たmove という動詞の派生語を調べれば、motion やmovable の他に、emotion (「情緒」)、emotional (「情緒的な」)、emotive (「感情を誘発しやすい、感情の」)、motionless (「静止した、動きのない」)、motive (「動機」)、motivate (「動機付ける」)、motor (「モーター、動力源」)などの語が、辞書を媒介として、浮かび上がってきます。しかも、これらの派生語は、その多くが、日常的に使われています。ただし、これらの語の具体的な用法は、サイドリーディングの中で、また辞書に引用されている例文から、学んでいきます。語彙の学習は、副読本などの学習教材の中で使われている未知の語を辞書で調べ、説明と例文から、実際的な使い方を学ぶのです。
さて、英語の接尾辞は、そのが数が極めて多いのですが、実際には、英語の接頭辞の数の方がむしろ多く、おそらく、実数は何百とあります。そこで、ここからは、語彙学習のさらなる面白さを紹介するために、接頭辞に絞って、話を続けましょう。
4.接頭辞に慣れよう
具体的に、英語の接頭辞にはどんなものがあるのでしょうか。上に見たもののほかに、例えば、pro-という接頭辞があります。この接頭辞自体は、「前に」とか「前方に」という意味を持っています。この接頭辞が特定の単語と結びつくと、どんな働きをするのでしょうか。例えば、propose という語は「提案する」という意味でよく使われます。何故このような意味になったかというと、pro-という接頭辞がくっつく前の語、すなわち pose は、単に何かを「置く」という意味でしたが、pro-が前にくっつくことによって、「何かを、誰かの、前に置く」という意味に変化しました。そこから、「誰かに、何かの、案を提示する」という意味に変わり、最終的に「提案する」という意味に落ち着いたのです。日本人なら誰でも知っている「プロポーズ」も、もとは「(結婚という契約案を)提示する」という意味でした。結婚の提案=求婚=プロポーズ、ということなのです。また、提示された設計案を審査委員会が審査する、いわゆるコンペ(competition)において、プロポーザル(=建築設計案)という言葉が使われますが、これも、propose という動詞の名詞形 proposal から来ています。 pro-は他にも、progress という語に使われています。これは後ろの音節にアクセントを置いて「前進する」という動詞として、また前の音節にアクセントを置いて「前進」という名詞として、よく使われます。たとえば、There was no substantial progress in our recent negotiations with the company.と言えば、「その会社との最近の交渉ではこれと言った進展は何も見られなかった。」というほどの意味です。また、prospect と言えば、「見込み」とか「展望」という意味です。語根の spect は「見ること」という意味のラテン語 spectus から来た語で、「前方」を意味するpro-と結びつくと、「前方を見ること」、すなわち「展望」という意味になるのです。また、時を超え、人知を超えた、はるかなる神の配慮、と言いう意味で、providence (「神慮」)という語が時々使われます。pro-は「前方」、vidence は videre(「見る」)というラテン語の動詞の名詞形です。また、professional と言えば、いわゆる玄人、プロのことです。これは、接頭辞の pro-(「前方で」)+fess(「知識や技能を公言する」)から出てきた意味です。また、マスプロ教育などと言うときのマスプロは、 mass-production の簡略式カタカナです。production はproduce(「制作する」)という動詞の名詞形です。そして、produce は、接頭辞の pro- (「前に」)+duce (導く、引っ張る」)から生まれた語です。
接頭辞はこのように、もとからある語と自由に結びつくことによって、次々に、これまで存在しなかった、新たな語を形成することができます。
5.否定の意味を添える接頭辞
英語の接頭辞の中でも特に注意したいのは否定の意味を添えるいくつかの接頭辞です。例えば、すでにその一部を紹介した、in-もしくは im-という接頭辞を見てみましょう。誰もがよく知っている impossible (「不可能な」)は、日常的に よく使われる語 possible(「可能な」) の頭に im-をくっつけた語です。例えば、Is it possible for you to sign here?、あるいは、Could you possibly sign here, please? と言えば、「ここに署名していただけませか。」という意味です。これに対して、No, I'm afraid it is impossible, because I don't have anything to sign with.と答えと、「生憎それはできません、筆記用具を持ち合わせておりませんので。」という意味になります。ほかにも independent は「独立的な」という意味で使われます。depend upon~ は「~に頼る」という動詞句ですが、dependentは depend という動詞の形容詞形です。これにin-がくっつくと、「(誰にも)頼らない」という意味に変わり、「独立的な」という意味に落ち着いたのです。また、 insufficient と言えば、「不十分な」という意味です。元の語の sufficient は「十分な」という意味の形容詞ですが、 in-がくっついて意味が反転したのです。
元の意味を逆回転させる接頭辞は、ほかにもあります。前にも見たun-もその一つです。例えば、kind 「親切な」にun-がくっついて unkind となると、「不親切な」という意味に変わりましたが、動詞の do に 付けて undo とすると、「元に戻す」「解体する」というような意味になります。What's done cannot be undone. は「いったんやってしまったものは、元には戻せない。」という意味です。また、「必要な」という意味の necessary に un- をつけてunnecessary と言えば、「不必要な」という意味です。他にも unfair「不公平な」、uneven 「平らでない、でこぼこした」など、un-を頭にくっつけて元の意味を反転させる例がいくつもあります。
6.様々なタイプのマイナスを一手に引き受けるスーパー接頭辞 dis-について
このように、英語には多くの接頭辞があり、元の語を様々に加工し、その意味を自在に変える働きがあるということが、実態として、かなり分かってきました。また、元の意味を否定したり、除去したり、反転させたりすることのできる接頭辞に限ってみても、数種類存在することが、上に見た例から分かります。
次に紹介するのは、これらの、マイナスの意味を添える、超大物接頭辞 の dis- です。その圧倒的な数をご覧ください。
disregard, disagree, discount, disclose, discontent, disconnect, discover, dismount, disappoint, disappeare, distort, dissident, dispose, distress, dissatisfy, dispossess, disown, displease, dishonest, disconcert, disharmony, disarm, discharge, disapprove, discredit, disarray, discourage, dishearten, disperse, disparage, disprove, dispute, disavow, discourse, dismantle, disturb, discolor, disbelieve, disdain, disease, dismay, distinct, dislike, disloyal, disorder, displant, dislocate, dissuade, discomfort, disclaim, disorganize, disarrange, disengage, disentangle
いかがでしょうか。これらは、英語で言えば、away from, without, not ~、というような意味、すなわち、反転、除去、否定などの意味を加えます。ですから、元の語の意味が分かれば、それを「~ではない、反~、不~、非~」と言った意味に変換することで、その意味をかなり正確に推測できます。気になって調べる前に、一呼吸おいて、その意味を、接頭辞と語根から推測する瞬間は、だれでもワクワクします。辞書で確かめる瞬間も同様です。これが、実は、語彙学習のご褒美なのです。どうぞ、語彙学習を、苦しみを逆手に取り、目一杯楽しみながら、続けて下さい。