翻訳の難しさについて
2021/08/28
翻訳とは
翻訳の意味を考える
1.翻訳と通訳
日本では、翻訳と通訳は、互いに異なる作業を意味します。翻訳は、書かれた言語Aから、書かれた言語Bへの、所与のコンテンツの言語変換を指し、通訳は、話された言語Aから、話された言語Bへの、コンテンツの言語変換を指します。また、後者の場合、逐次通訳(consecutive interpreting)と同時通訳(simultaneous interpreting)とがあります。逐次通訳は、話された言葉を、その場で、随時区切りながら、遅れて通訳する手法です。同時通訳は、進行中の議論や、現在行われているスピーチの、原則、時間差を置かない、同時的通訳を指します。これは、進行中の学会での激しい議論の応酬を同時に、別の言語で伝える、などの場合に採用されます。これに対して、前者は、例えば、今般の東京での、2020 オリンピックの開催に当たって、国際オリンピック委員会のバッハ会長が英語のスピーチを読み上げた際、通訳者がそれを逐次日本語に訳してくれたのが典型的な例です。一般的に、後者の方が、原文との対照が際立つ分、正確さと格調の高さが求められるので、より高度な翻訳能力が要求されます。
2.英語から見た翻訳と通訳
一方、英語では、翻訳は translation と言い、通訳は interpretation と言います。しかし、後者の動詞形である interpret は、手元の英英辞書では、1. explain the meaning of (information or actions) , 2. translate orally the words of a person speaking a different language と説明しています。つまり、interepretation は、第一義的には、何か難しいものを優しく解説したり、解釈することを指す語であり、第二に、通訳という作業を指すのです。そして、「通訳する」とは何か、と言えば、「口頭で」(orally) 、異なった言語でしゃべっている人の言葉を、(自分たちの言語に)「翻訳する」(translate) ことである、と 定義しています。
要するに、翻訳も通訳も、本義は、ある言語を別の言語に、「移す」ことなのです。語源的には、translate は "carried across" という意味であり、元々は、ラテン語の transferre (英語のtransfer に相当)の過去分詞であり、transferre は、trans- 'across' + ferre 'to bear' が原義です。一方、translate は、1. express the sense of (words or text) in another language と説明されており、the German original has been translated into English. が例文として掲げられています。ですから、結局、translate がより本義的な意味を伝える語と言えます。英語では、translator は両方の意味で使える語なのです。
3.日本語を英語に翻訳する、とはどういうことか。
ところで、通訳にしても翻訳にしても、例えば、日英間の通訳、もしくは翻訳の場合、文字通りの翻訳、あるいは字面だけの翻訳では、本当の翻訳をしたことにならない例はいくらでもあります。1945年、7月26日に、イギリス、中国、アメリカの首脳の連名で発表され、日本に通告されたポツダム宣言を受けて、時の内閣総理大臣、鈴木貫太郎は、ウイキペディアの記述によれば、「同月28日に『政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する。』とコメントした。」とあります。ここに非常に強い言葉、「黙殺」という言葉が使われています。日本政府は、ポツダム宣言は無視する、まともに取り合わない、という返答をしたかったのですが、この強烈な言葉を含む首相のコメントは、日本が連合国への正式な回答として、当然、正確に翻訳しなければならない、極めて重要な文章でした。鳥飼久美子さんによれば、そして私の記憶が正しければ、時の政府は、「黙殺」に igonore という語を充てたそうです。「政府としては重大な価値あるものとは認めず」と言っているので、確かに宣言を無視したことになります。「無視する」「相手にしない」「顧みない」ならば、ignore と翻訳するのが正しかったかもしれません。しかし、鳥飼さんは、自分なら No comment. と訳したかもしれない、いや、そう訳すべきであった、なぜなら、そう訳していたら、広島および長崎への原爆投下は避けられていたかもしれない、とまで言います。
No comment. は確かに、首相をはじめ、政府要人などが好んで使う言葉です。個人的な追及を逃れるための便利な隠れ蓑にもなります。なぜなら、ある事柄への意見表明を求められたとき、それに賛成も反対もしない、自分は完全に中立である、という趣旨のコメントだからです。これにたいして、 igonore は、英英辞書によれば、fail to consider (something important) 、すなわち、何か重大なことであるにもかかわらず、それについて考えることを拒否する、という意味になり、「一顧だに値しない」という風に、提案自体を問題外に置く、という全面否定のニュアンスを秘めた言葉です。鈴木貫太郎は元々海軍大臣でした。彼は、とっくの昔に退役した身でありながら、今回、是非とも務めてほしい、との天皇の強い要望により、再び首相になったのでした。果たして、彼の真意はどこにあったのでしょうか。彼のコメントをよく見なおしてみると、「重大な価値あるものとは認めず」という言葉からは、条件闘争的にみて、この提案は、まだ自分たちが真剣に検討するレベルにまで達していないので飲むわけにはいかないが、折り合えるまで、さらなる交渉の継続を望む、というのが真意だった、とも受け取れるのです。もしそうであれば、igonore という言葉は避けた方が良かったと言えます。一般論としても、外交は駆け引きですから、最後まで相手の気を引き続けなくてはなりません。まして、一国の運命が懸かっているときの翻訳は、慎重の上にも慎重でなければなりませんが、鈴木首相は、日本人に対しては弱腰を見せるわけにいかず、さりとてポツダム宣言の内容をそのまま飲むのは忍びない、という葛藤状態を、「黙殺」という言葉で表現しただけかも知れません。
翻訳の難しい事例は他にもたくさんあります。例えば、夏目漱石の『道草』の冒頭の有名な三つの文句のうち、最初の「智に働けば角が立つ。」も、多分、英語に翻訳するのが非常に難しい例でしょう。アフォリズムの調子を出すためには、出来るだけ短いのが良いのですが、そのこと自体がすでに難問です。また、英語で、日本人ならすぐわかる、この一句の内在的論理を、英語ネイティブたちに、一読して了解してもらえるように、かみ砕いて伝えることが、果たして私たちにできるかが、次の難問です。難しい理屈ばかり述べる人は、人に嫌われ、煙たがられ、方々に敵を作る、という風にまず解釈し、その線に沿った試訳を、とりあえず、三種類出しておきましょう。
1. Too much depenndance upon your intelligence will create only enemies around you.
2. Beware of being too smart, because it will turn many, if not all, of your friends into outright enemies.
3. Being too smart will beget only your enemies and no friends.
大事なことは、「働く」も「角が立つ」も、文字通りには訳せない、ということです。「働く」は労働する、という意味ではなく、過度に知性的にふるまうことを指します。また、「角が立つ」は「角が立つ物言い」、という表現があるように、「同調圧力」のもとで、和気あいあいに過ごすのが好きな日本人同士の付き合いの中で、敢えて「正論」を振りかざすことによって波風を立て、周囲に、尖った、ささくれだった気分を醸し出す、という位の意味だと考えられます。そこから、友人の心ではなく、敵愾心や競争心を生み出してしまう事態、と解釈し、それを、英語でよく使われるenemy とfriend の対比を取り込んで訳してみました。
4. 翻訳と英語学習
しかし、本当の問題は、日本語で言う「智」が何を指し、「智に働く」という言い方が何を指すかが、必ずしもはっきりしていなことと、日本語の智と知は意味が異なり、英語の intelligence と intellect も意味が異なることを考慮する必要がある、ということです。もう一つ、to be smart という言い方が、「智に働く」というフレーズの訳出候補として考えられますが、英語の smart と日本語化し、カタカナ表記される「スマート」の間にも、すでに多大の意味のずれが生じています。そしてもう一つ、漱石の言いたいことは、「智に働けば角が立つ」だけを見ていては、気付きにくくなるということがあります。つまり、これを第一句とすると、第二句の「情に棹させば流される」、第三句の「意地を通せば窮屈だ」が、全部揃ったところで、三福対の図柄を描いていること、そして、「知情意」の特色を、それぞれ、知的に解剖して見せているところなども、実は、なかなか芸が細かいのです。そして、これら三つのフレーズに共通しているのは、日本人独特の厭世観であり、最後の止めの一句、「とかくこの世は住みにくい」にそのエッセンスが集約されています。
そして、「この世は住みにくい」の「この世」とは広く「世間」を指し、「あの世」や「浄土」との対比も暗示されていますが、もっと卑近なところでは、「竜宮城」、「浮世離れ」、「隠遁」、あるいは西行や芭蕉の、清廉潔白や浄土を愛し、色欲、出世欲、物欲の支配する世俗を厭う気持ちを背景とする「漂白の旅」、などとの対比も考えられます。他方、西洋では、「この世」と「神の国」(Kingdom of God)、あるいは「天国」(Heaven)の対比は、当然である以上に、むしろコインの裏表にも似て、必然です。漱石の小説世界では、世間は、明治以後の、いろいろな「世俗的」煩悩の渦巻く世界であり、保身、出世願望、金銭欲、自由恋愛願望、また、いじめ願望、などに満ちた世界としても描かれます。『道草』のテーマは、どちらかというと、日本の首都、東京の喧騒を逃れ、風流にも、絵画に遊ぶ、芸術や芸能に慰めを求める、ところにありますが、物語が進むと、旅先で出会った女性への恋愛感情に心を揺さぶられる、といった一面にも焦点が当たります。そういったテーマに向かうスプリングボードとして、冒頭の一節は見事に読者の心をつかみ、願望としてのユートピアと、現実の「この世」のせちがらさ、住みにくさ、窮屈さを一挙に浮き彫りにします。
5.文明間の距離
ここからもうかがわれる通り、翻訳の本義を全うするためには、英語として日常生活の場面で、どうにか意思疎通ができる、という初級レベルの英語学習から、英語の内在論理を理解できる中級レベルを通じて、所属する文明圏をまたいだ異質の世界を睨んで、原文の翻訳がどの程度、別の言語においても、意味あるメッセージとして通用するか、という上級レベルの英語力を身につけるまでの、長期に亘る、深い英語学習が必要です。
英語の学習は、ある段階までくると、文明圏を異にする二つの言語を、それぞれマスターし、両言語間での、伝達の可能性を、ミクロ単位で極める作業へとバトンタッチされます。そこでは、翻訳の成否は、この異なる文明圏の間の距離を、どれだけ正確に測れるかにかかっており、英語学習は、つまるところ、両言語に通じることで初めて可能になる、それを測る物差しを手に入れる作業でもあるのです。