文って何ですか?
2021/01/05
文を持つ英語、文を持たない日本語
文は構造である
「国境の長いトンネルを抜けると、雪国だった。」は、ご存じの通り川端康成の小説「雪国」の書き出しの一文です。この書き出しは日本人にはごく自然に見えても、英語母語話者には不自然に見えます。何故でしょうか。これは英文に翻訳できない文だからです。何故でしょうか。それは小説のこの書き出しだけの情報では、文の主語を決めることができないからです。それはなぜでしょうか。ちなみにこの書き出し部分の動詞に着目してみよう。「(トンネルを)抜ける」は明らかに動詞ですね。しかし、誰が「(トンネルを)抜ける」のかは明示されていませんね。これが問題なのです。ところで、「抜く」なら他動詞的ですが、「抜ける」は自動詞的です。大分後になってからわかるのですが、実は汽車に乗って旅をした主人公がいて、彼の名は島村です。彼は、これも後からわかるのですが、東京に住んでいます。そして、今雪国の温泉宿に行くところなのです。しかし、川端康成は「抜ける」のが誰なのか、あるいは何なのかを明示しないまま、小説を書き進めています。そこで読者は、トンネルという言葉から、当然ながら列車を連想し、トンネルを抜けるのは列車に違いないと推測します。また、雪国だった、というのは人間の認識を示していますから、誰かが列車に乗っていて、列車とともに雪国に到達したのだな、と判断するはずです。つまり、トンネルを抜けるのは列車であり、同時にそれに乗っている主人公でもあります。しかし、英語では両方を主語にすることはできません。無理に英語にすれば、煩わしくなり、日本語のすっきりした自然な文が台無しになります。それに、読者が日本人であれば、列車に乗っているのは誰でもよいのです。ともかく、誰かと一緒に旅をするのかな、くらいのぼんやりした意識で小説に臨み、雪国へ自分も旅をしているようなわくわく感を味わうことになるのです。
次に、「雪国だった」は、そこは雪国だった、という意味です。しかし、「そこは」という場所の指定も省略されています。ここでも主語が欠けています。しかし、しつこいようですが、英語では、よほどのことがない限り主語は省略されません。何よりも主語を尊重するのが英語流だからです。地上に一気圧の空気が存在しており、どの家の部屋も、どの冷蔵庫も、あるいは国会議事堂も、あるいは海も陸も、どこにも空気が満ちており、およそ真空の場所などありえないのと同じくらいに、英語では、主語の存在しない文は存在しないと言っても、あながち言い過ぎではないくらいなのです。もちろん、After you. (お先にどうぞ。)などの決まり文句では、文で言うのを省略する場合があります。日記では "I" を省略するのが普通です。命令文もyou を省略します。それらはすべて、主語が何であるかが明確であると判断されたときのみ、主語が省略されるのです。例えば、単にYes や No で答える場合でも、逆にWhy? と尋ねる場合でも、相手の質問が文になっていて、何を言ったか明瞭である場合にのみ、簡潔に返事をしたり、またその理由を尋ねるのであって、相手の質問なりコメントが文になって、情報が明瞭でなければ、いかなる発言もしようがないのです。
逆に、日本語においても、主語はいつでも不明確なのではありません。明示される場合も結構多いのです。「私が行きます」「彼は子煩悩だ」「私は饅頭が嫌いだ」などでは、「私」や「彼」が主語だとすぐにわかります。しかし、「君のことが好きなんだ」という場合、「好き」なのが誰かは、必ずしも明らかではありません。場合によっては、「誰が?」と野暮な質問をしなくてはならないかもしれません。なぜなら、「君のことが好きなんだ、彼は。」という展開も考えられるからです。一般的に言えば、コミュニケーションに支障がない限り、主語はどんどん省略されるのが日本流なのです。
日本語では、状況が、あるいは日本人の常識が、主語を内々で決定します。例えば、漱石の小説「道草」の冒頭部分の「智に働けば角が立つ、情に竿させば流される、意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。」では、智に働くのは誰か、情に竿さすのは誰か、意地を通すのは誰かが明示されていません。しかし、私たち日本人は、常識によって、「私たちが」、あるいは「人が」を想定するのです。ところが、これらの文の英訳を担当する人は、無理にも何らかの主語を持ってこなくては、首のない人間のようになってしまいます。そうしなければ、文の面目が立たないのです。一般に、主語を欠いた文は文以前、もしくは文以下なのです。そのような不完全な文は、だれももまともには相手にしません。ですから、何かを主語に持ってこない限り、英訳「雪国」は、最初の一文で頓挫してしまいます。
さて、そうだと分かると、われわれ日本人は、改めて英語でいうところの「文」と向き合わなくてはなりません。改めて問いましょう。英語の文が成立するための十分条件は何か、と。一体、どのような条件を満たせば、文は正真正銘の文として英語母語話者たちに認知されるのでしょうか。これを知ることが、日本人英語学習者にとって、まさに死活的に重要になるはずです。
英語文の成立にとっての必要十分条件は、理解可能なひとまとまりのメッセージの用意に加えて、それを人に伝える手段、すなわち文の主語と文の動詞を用意し、必要に応じて文の他の要素を揃えることです。その際、もう一つの条件が付いて回ります。その条件とは、文は五文型のどれかでなくてはならない、ということです。そして、五文型の構成要素は、主語、動詞、目的語、補語の四つです。五文型はこの四つの要素の組み合わせで決まります。そして、伝えるメッセージの特色や必要に応じて、適切な語彙が選択され、同時に、これらの五文型のいずれかが、その都度、選択的に採用されるのです。文の形をとらない慣用的な例外については、先ほど述べたとおりです。