主語が開く認識の世界
2020/12/10
主語が開く世界の認識
主語が生み出す客語の世界
主語の対語を考えてみよう。それは客語である。主語は家の主人をイメージすればよいということはすでに述べた。しかし、その家の主人は、たまに訪れる客人がいて始めて家の主人たり得るのであって、もしいつも家にいるのは自分一人であれば、いずれ孤独な死が待っているだけであろう。ただし、いつまでも客人が家を去らなければ、相当鬱陶しいかもしれない。時々客が訪ねてくるくらいがちょうどいいのである。
客がいないと主人はどうなるであろうか。その時、主人はもはや主人ではなく、単なる住人にすぎないが、一人の人間として自分と向き合う時間が持てるかもしれない。昔のことを思いだしたり、来年に期待したりするかもしれない。現在を離れて、過去を反省をしたり、未来に期待をしたりと、瞬時に、そして縦横に時間の中を駆け巡るのである。人間はその時「対自存在」となる。
ところで、主語の対語である客語はどのようにして生じるのであろうか?それは人や物事の客観性として生じるのだ。つまり自分とは断絶したところで存在している他者を認識するとき、そこに認識の対象としての一つのターゲットが生まれるのだ。これが第一次の客体である。客体は主体とは異なる一つの存在者として、自らの存在を主張し始めるのである。そして、認識が媒介するこの客体認識が基本となって、様々な異なる客体が見出されてゆく。しかし、この認識は、何かのきっかけで「主―客」の関係が反転し、鏡像としての自己をもう一つの客体とみなし始めるであろう。内部に主体を抱える客体としての自己を世界内に存立させ、その同じ地平に、動物を主人公とした物語や、風や雷を主人公とした物語さえ、生み出されるであろう。
こうして、元来は客体と認識されたはずの他の人や動物、植物、また事物や事象や概念すらが、自分の分身よろしく、別の客を次々に受け入れるようになれば、その行為は、「主―客」の中身が反転した無数の認識のバリエーションとなって、己増殖的な世界がそこに生み出されてゆくことになる。無数の「主―客」関係が、無数の文となって世界をめぐり、それらの文を通じて共有された世界認識は、広く深く人々の間に浸透してゆく。わたくしたちが今日、社会や宇宙として認識している複雑極まりない「世界」は、こうして誕生したのである。