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他動詞とは何か?

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他動詞とは何か?

他動詞とは何か?

2020/12/01

自動詞と他動詞の区別の仕方

他動詞と客観性

自動詞と他動詞はコインの裏表

なぜ自動詞と他動詞に区別があるの?

英語になぜ、自動詞と他動詞の区別があるのか、正直よくわかりません。ただ、この区別は英語にとって非常に重要な区別です。おそらく英文法にとって、これほど重要な区別はないと言ってよいほどに重要なのです。

でも、どうしてそれほどこの区別が重要なのでしょうか?それは、英語的世界観を持った人たちにとって極めて重要な、人間の存在と行動の二面性を表すからです。英語的世界観を構成する二面性のうち、一つは、もっぱら個人の世界に関する側面、あるいは、物事それ自身にかかわる世界です。これを表す代表的な動詞は「be動詞」です。be動詞は、人やモノや事柄がどこかに、何らかの状態で存在するときに使います。be動詞以外の自動詞は、自足的もしくは自己完結的な運動や活動や変化に言及します。ですから、stand, walk, go, sleep, fall, remain, live, die, disappeare, evaporate などは自動詞です。

英語的世界観を構成する二面性のもう一つは、二者間、あるいは多者間、で行われる、何らかの行為・行動・影響関係などへの言及もしくは証言として存在し、何ほどかダイナミックに機能する側面を表します。ですから、eat, kill, read, buy, strike, tell, beat, study, remember, build, destroy などは他動詞です。

つまり、人間の世界は、自分の感情や感覚や情念の総和として対自的、自足的に存在する、と認識される個人の世界と、その同じ個人が、今度は自分の外に向かって認識の矢を放つときに視界に入るもう一つの世界とからなっているのです。言い換えれば、こちらからアクションを仕掛けることを基本とする、対他者、対自然などの行為、また二者間の行為や交渉にかかわる客観的な世界が一方にあり、もう一方では、他者へのアクションを含まず、もっぱら自己の感情や情念、また自足的行為など、自分の内面や対自的行為の世界が存在しています。人間の世界のこの二面性をスパッと、シャープに切り分ける便利な道具が、自動詞と他動詞なのです。

さらに言えば、外に向かう行動や行為に、認識の矢が寄り添い、その行動や行為がある対象を射貫くことを認識するとき、射貫かれた対象は、行動や行為の的と認識されます。そして、行動や行為の的と化することで、「客観性」もしくは「他者性」を獲得します。これが客体、すなわち射貫かれる対象 (object) としての客体です。これを英文法では「目的語 (object) 」と呼んでいます。He hit a homerun. では、"hit" が外に向く行為であり、その行為の対象は "a homerun"です。正確に言えば、「彼」の打ったボールがスタンドに入ったので彼は「ホームランを打った」と判定されたのです。つまり、認識の働きによって、そのボールがホームラン性の弾道を描き、スタンドに飛び込んだことが確認され、野球のルールによって「ホームラン」と認定されたのです。これは結果性の目的語です。ほかにも、例えば、 Hitler started the Second World War. では、ヒットラーは、ポーランドに攻め込んで一連の戦争を始めたのですが、それが何年も続く第二次世界大戦の開始であったことが、後に確認された、というのが実態です。こうして、歴史にかかわる認識の矢は、第二次世界大戦を始めたのはヒットラーだ、という結論を得たので、このような結果性の目的語を持つ文が成立するのです。これに対して、自動詞では、矢は一本も放たれません。認識の矢は、自己の内部を回転しており、時折、内面観察の結果として、言及に足る認識をもたらします。

他方、何らかの対象を、行為によって射貫く主体は「主語」と呼ばれます。自分の感覚や感情や情緒に言及するとき、そのことを言う主体も英文法では「「主語」と呼ばれます。I'm thirsty. とか、I'm angry. とか、I'm all right. などがそれです。しかし、英語の主語は多くの場合、行為の「主体」なので、先ほどの He hit a homerun. では、"He" が主語です。

ただし、英語では、自分のことも "I" という「代名詞」で言い表します。そして、英語においては、「代名詞」もまた一つの客体なのです。つまり、ある認識に射抜かれた「客体」なのです。これに対して、日本語には、自分のことを表す客観的な「代名詞」は存在しません。のみならず、相手を表す客観的な「代名詞も」、第三者を表す客観的な「代名詞」も存在しません。一体、英語において、このような第三者的「代名詞」を措定したのは誰でしょうか。わたくしはその答えを知りません。しかしながら、すべての存在を客体化するある特別な視線の存在を感じざるを得ません。

ここで私は、半ば必然的に、聖書にしるされている神のことを思いだします。「出エジプト記」中で、神を信じない人たちに向かって、あなたのことをなんと紹介すればよいのか、とモーセに尋ねられた神は、自分のことを"Iam what Iam" と告げなさい、と答えます。

これは、本当に誰かの名前なのでしょうか?だとすると、奇妙奇天烈な名前です。「人を煙に巻くような」、あるいはどこか頓智めいてさえ聞こえる、へんてこりんな名前です。でも、落ち着いてよく考えれば、これは神にしか言えない言葉です。神は自分のことを「余は、ありてあるもの」と言っているわけですから、まずもって、人間の世界にしか通用しない「時制」をはるかに超越しています。この神は常に現在に存在しているのであって、過去に存在した、とも言えませんし、未来に存在するであろう、とも言えません。したがって神は、いつ生まれたとも、いつ死ぬであろう、とも言えません。不生不死であり、存在することを片時もやめない存在、言い換えれば、永遠そのものです。

絶対的自足存在としての神は、世界を創造して以来、他動詞を必要としない存在です。ただ、旧約の神は、なぜか人間の世界にだけはしつこいほど介入してきます。預言者に自分の意思を伝え、何事かを命じます。何かをするように命じるのです。ですから、その限りで、他動詞が必要になります。人間の世界そのものが神にとって観察と認識の対象になります。こうして人間世界は、神の視線によって、等しく他者性を獲得するのです。

ところで、このような神の二面性は、実は人間にも受け継がれていることがわかります。人間界であれ、自然界であれ、すべてを客体視する視線を人間の認識はいつの間にか獲得しています。それによって科学の発展も可能になったのです。そう考えると、自動詞と他動詞は、神及び人間の二面性、それも、コインの裏表のような二面性を表しているといってよいように思われます。

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