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英会話って、何?

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英会話って、何?

英会話って、何?

2021/09/10

「英会話」って、何?

私たちは「英会話」に何を期待するのか?

 

1.「英会話」でなければならない理由

 街中の「英会話」教室はなぜ、あれほど栄えているのでしょうか。もし、公教育における英語教育がもっと充実していれば、「英会話」教室はほとんど必要なかったはずです。でも、日本における英語教育は、お世辞にも効率が良いとは言えません。「英会話」教室は、公教育における英語教育の補完であり、プラアルファなのかもしれません。思い起こせば、私自身、まだテレビのなかった時代に、ラジオ放送の「英会話」のお世話になった一人です。「英会話」が公共くおどのような関係にあったかを考える一つのヒントとして、私と「英会話」とのかかわりを、事例紹介的に、ささやかなエピソードとして語ってみたいと思います。

 中学の3年生の初めころだったとおもいます。半年余り前に英語に自信を失い、町の書店で買い求めた参考書を読んで英文法の基礎を習得して、ようやく英語に少し自信が戻っていたのですが、それと相前後して、NHKの「英会話」の放送のことを知りました。私は毎月一回発行されるテキストを買って、7時から7時15分まで15分間、ラジオの英語講座「英会話」の授業に耳を傾けました。講師の松本亨先生は、深みのある流暢な英語で、口語表現も随所に取り入れて、話し言葉の面白さ、屈託のなさ、親しみやすさを全国の愛好者に振りまいておられました。

その授業の画期的だったのは、日本語に存在しない、それ故極めて発音するのが難しい英語の音を、発音記号で特定しながら、一つ一つ徹底して真似させ、口の開け方、息の出し方まできちんと教えるスタイルだったことです。個々の単語のアクセントの位置、文のイントネーション、意味の句切れで随時行われる息継ぎ、なども自然に身に付くように、何回も自ら発音して、ポーズを開けて私たちの参加を促されたので、視聴者も、慌てることなく、確実に出来るまで、気長に練習できたのです。それから高校2年のとき、外大を出られた英語の先生の目に留まった私は、県の北部の高校の主催する「英語弁論大会」に、学校代表として出場してみないかと誘われました。自分でスピーチを書く力はなく、言われるままに、先生が用意された英文を懸命に暗記して臨み、優勝しました。これは松本先生のおかげだと思ったので、お礼の手紙を書いたところ、やがて「手紙を二回読みました。」と書いたお返事を戴き、感激しました。

 大学の英文学科に入学したあと、リンガフォンのアメリカ英語コースを買い求め、当時最新のLPレコードプレヤーを買って、毎日1時間ほど聞きました。通算、五百回ほど繰り返し聞いたと思います。ここでは、今でいうシャドウイング式に、1~2秒遅れでそっくりまねて発音し、最後は同時にそっくり再現することに挑戦しました。このとき、英語のリズム感が身に付いたと思います。どんな英語も、その内容に合わせて、自然にしゃべることができるようになったからです。

 その後、3年生の時、シェイクスピア劇のレコードを英文研究室から借りて聞きました。それは、『嵐』と『ハムレット』でした。そこには、アメリカ英語とは全く雰囲気の異なるイギリス英語が、別の宇宙のように、燦然と輝いていました。その表現力豊かな、どこまでもくっきりとした発音の魅力に、これまた見事に虜になりました。

 こうして、「英会話」、リンガフォン、シェイクスピア劇のレコードと、英語修行の階段を一段づつ上がって行きました。今にして思えば、私に英語の発音の本当の基礎を与えてくれたのは、NHKの「英会話」でした。

そこで今日は、私との因縁浅からぬ「英会話」と呼ばれるものについて、もう少し視野を広げて、その存在意義を論じてみようと思います。

 さて、ご承知のように、現在の日本では「英会話」という、どこかちょっと軽い言葉が、何食わぬ顔で、さも自信ありげに独り歩きしています。でも、この言葉は手元の岩波書店の「広辞苑(第六版)」には掲載されていません。どうやら、「英会話」は、一人前の語として扱われていないのです。現実との間の、何というギャップでしょうか。そして、一体全体、これは何故なのでしょうか。「英会話」は、普通に考えれば、「英語でなされる会話」ですから、「読んで字のごとくである、今さら仰々しく説明するまでもない」との判断があったのでしょうか。それとも、「英会話」は、日本語として共有されるべき、独立した内容を持っていない、と早とちりして「無礼者!」と切り捨てたのでしょうか。でも私は敢えて問います。「英会話」の中身は果たしてゼロなのか、それともゼロでないのか、そしてもし、正しい答えが後者なら、その中身は何なのか、と。

 そこで、改めてですが、一般に、日本人は「英会話」と聞いて何をイメージするでしょうか。日本人が、英語で、外国人と何やら楽しそうに話している姿でしょうか。でも、英国人同士、あるいはアメリカ人同士が英語で話し合っていても、それを「英会話」とは呼びません。ただの会話です。このギャップが、一番おかしな点です。これがどれだけおかしいかは、逆にアメリカ人なり、フランス人なりが、「私は日本語会話を勉強しています。」と言った場合の不自然さに似ています。どうして会話だけ勉強するのですか、と聞きたくなりませんか。それとも、「日本語会話」は生け花や書道などと並んで、他に類を見ない高尚な「会話」なのでしょうか。あり得ないですね。となると、「英会話」の正体って、いったい何でしょう。いつ、一体、何のために、何に迫られて、日本人は「英会話」なるフレーズを発明したのでしょうか。「英会話」の、連綿として現在にも続く存在意義は、もしそれがあるとして、一体、何なのでしょう。あるいは、日本人にとって、絶対に「英会話」でなければならない理由は、一体何なのでしょう。

 私は「英会話」というフレーズの誕生のきっかけを、日本人が、戦後初めて、英語母語話者と親身になって話をしたい、対等に話をしたい、相手を真に理解したい、という欲求が萌したことによる、と見ています。日本のエリートたちの交渉相手ではなく、また、いわゆるスローガンとしての「鬼畜米英」ではなく、「人間としての」アメリカ人、あるいは友人としての外国人に、親しみを持って、腹蔵なく、肌感覚でお付き合いしてみたい、という欲求が、日本の庶民に生まれたことによる、と私は理解しています。

 戦争が終わってみると、日本人は、アメリカ兵士が市中にたむろしているのをしばしば見かけるようになりました。彼らは、ある意味、身近な存在になったのです。「ギミチョコ」と片言英語で子供たちが話しかけ、それに米兵が答える、ということも珍しくない風景になったのです。「英語会話必携」のような会話集が片仮名付きで紹介され、飛ぶように売れた、という話も聞いたことがあります。「英会話」ブームの先駆けです。

でも、実は英語は、明治時代から日本に入ってきていました。日本人が英語を学びの対象とし始めてから、150年以上になります。そして現在の日本人にとって、「英会話」は、まず第一に、巷の英語、身近な英語という語感を持つ言葉です。私たちは、この言葉に、ある憧れに似た感情を抱いています。英語の本がすらすら読めたり、英語で縦横に手紙が書けたりするのは、ほんとに素晴らしい、まして、パーティーなどで、外国人と英語で屈託なくしゃべれたら、さぞ愉快だろうな、と思っている人はきっと多いと思います。

 ただ、これから、日常的に外国人と接点を持とうとしている人に、コミュニケーション・ツールとしての英語を、親身になって、丁寧に教えてくれそうなのは、学校の英語の先生でも、塾の英語の先生でもなく、むしろ「英会話」教室の英語の先生かもしれません。そして、もし本当にそうなら、これが、「英会話」でなければなない理由だと言えなくもなさそうです。つまり、「英会話」に必要なリスニングとスピーキングの能力を、あっという間に、飛躍的に向上させてくれる人がもしどこかにいるとすれば、それは学校でも塾でもなく、「英会話」教室の先生ではないか、という淡い期待が膨らむのです。

 けれども、ここで、もう一歩踏み込んでみましょう。私たちが「英会話」に期待するのはこれだけでしょうか。もし、学校では学べないものが「英会話」教室で学べるとしたら、それは具体的に何でしょうか。ただ、そこまで踏み込むなら、踏み込みついでに、ここは思い切って、自分に尋ねてみましょう。私たちはなぜ、中学や高校で、当たり前のように、英語を学ぶのでしょうか?そして、勇気をもって、次のように尋ねてみましょう。学校で学ぶ英語と、「英会話」教室で学ぶ英語は、ひょっとして、全く別物なのでしょうか?

 これまで、「英会話」って、何?というテーマで考えてきました。ここで一つはっきりしてきたのは、私たち日本人の日常語彙の中に、深く、そして鋭く、打ち込まれている英語という言葉は、どこか真剣勝負にも似て、ふわっとした感じの、いわゆる「英会話」とは別の怖い顔を持っている、という事実です。日本人に相当大きなインパクトを与え続けてきた「英語」は、公立、私立を問わず、数学や国語と並んで、日本の学校教育のカリキュラムに確固たる地位を占め、中学、高校では必須科目です。さらには、短大や大学でも必修科目の一つになっています。であれば、一つの可能性として次のように言えるのではないでしょうか。私たちが今日、巷で言うところの「英会話」は、私たち日本人の庶民的願望が生み出したフレーズであるということ。そして、私たちの漠とした英語への期待、あるいは英語が可能にするかもしれない、途方もない夢、掴めそうで掴み切れないもどかしさを秘めた、ある憧れが、「英会話」の中身なのではないか、ということです。

 ところで、もしそうであれば、日本という国家が、それこそ国家百年の計の中で、私たち国民に、一人の例外もなく学ばせる英語は、個人としての私たち一人一人の存在と、その希望や願望と、一体どんな関係があるのでしょうか。もっと言えば、私たちは何故、子供の時から、全国、どこの学校でも、必須科目として英語を学ぶことを義務づけられてきたのでしょうか。そして、ここが相当に異常なのですが、私たち一般国民の側から、中学や高校で教えられている英語に疑問を感ずる、ついては、英語は希望者にだけ学ばせる選択科目として位置づけ、義務教育の必修科目から外すべきだ、という真っ当な意見が、全国の隅々から轟きわたったことが、一度でもあったでしょうか。そんなことはありません。となると、日本の英語教育は、長年、国民のいかなる個人的な願望とも無関係に、大上段に、かつ一方的に、有無を言わさず実施されてきた、ということになります。そこに何も問題は生じなかったのでしょうか。

 多くの日本人の場合、学校を卒業して社会に出ると、英語を使う機会はそう多くはありません。すると、中学から大学まで10年近くかけて習ったせっかくの英語が、急速に劣化し、錆びついてしまいます。使わない筋肉が衰えるのと同じ理屈です。それでも、社会に出て働き始めて五年間、あるいは十年以上も、英語を全く使わなくても、大過なく済んできた大多数の人たちの中で、これは何とももったいない、何とかしたい、と激しく悔やむ人がどれだけいるでしょうか。多くの人はあきらめているのです。理由もなく、ただ単にあきらめているのです。そして声を上げないのです。失われた時間を返してくれ、という悲痛な声を。

 しかし、その一方で、少数ですが、学校を卒業してから、英語をずっと使い続けてきた人もいます。例えば、海外で就職した人たち、国際交流で活躍している人たち、外交官やジャーナリストや通訳など、英語を使うことが仕事の一部になっている職種の人たち、また、海外との取引を盛んに行っている大手の商社などの営業に従事している人たちは、英語を毎日使っています。彼らの多くは、海外の大学に留学して高度な英語力を身につけてきた人達です。あるいは、個人の努力で、英検やTOEICの検定試験に優秀な成績を修めた人たちです。

 巷の「英会話」教室は、すぐに役立つ、コミュニケーション・ツールとしての英語、趣味や教養のための英語ばかりでなく、英語力を生かして働きたい人たちの希望に沿うメニュー、例えば英検対策、TOEIC対策、を用意し、他との差別化を図ろうとする教室も存在します。そこで学ぼうとする人のかなりの部分は、高校や大学を卒業した後、何事かをきっかけに、自身の英語力不足を痛切に感じ、一念発起、英語を学び直したいと思っている人たちです。日本では、まだ公共の制度になり切っていない「リカレント教育」の代替として、市民版・英語教育インフラとして、民間的発想で登場したのが、近年の進化した「英会話」教室です。公教育と、その足りない部分を補う塾との協働性、あるいは相補性、の上に成り立っている、いわゆる「受験英語」と、民間が経営する「英会話」教室で教えられている英語との間には、相当根の深い断絶、あるいは歴史的断層と言ってもよいものが、大都市を中心に、広範囲に、横たわっているように思われます。

 このような状況は、ひょっとしたら、世界と日本の狭間に鋭く打ち込まれた、文明開化という名の一本の楔、その因果な歴史、から生まれた特殊日本的な現象であるのかもしれません。以下の議論の中で、「英会話」という言葉が生まれた背景を歴史の中に探り、「英会話」の本質、そして、その中身が、もしかしたら、時代の変化とともに、長足の進歩・発展を遂げてきたかもしれない、との観点から、生きて動いているその実態を明らかにしたいと思います。

 すでに触れたことですが、「英会話」という言葉自体は、小学生も含めて、日本では誰一人知らない人がいません。どこへ行っても、大人にも子供にも知られ、当たり前に使われています。例えば、どこか知らない町へ旅をした人が、駅前の街角あたりに、「英会話」教室の看板がかかっているのを見つけても、少しも怪しまないでしょう。では、この言葉はいつごろから使われるようになったのでしょうか。1950年代の後半、すなわち、私が中学に通っていたころには、すでに私の郷里の町の書店に、NHKの「英会話」のテキストが売られていました。でも、戦前はどうだったのでしょうか。また、そもそも、英語は日本ではいつから、多くの人が学ぶ外国語になったのでしょうか。そこに、何か特別な理由でもあったのでしょうか。

 我が国における第一次の英語ブームは、明治維新前後に起こったと考えられます。そのことを伺わせる事例として、福沢諭吉の語学修行時代のエピソードを挙げることができます。彼は、緒方洪庵の適塾で、貴重な数年をかけて、オランダ語を学び、外国人でにぎわう横浜に出て、学んだ成果を試しました。しかし何の成果も認められませんでした。磨き上げたはずのオランダ語は、全く通じなかったのです。それもそのはず、英語やフランス語は聞こえてきても、オランダ語を話す外国人は一人もいなかったからです。この驚愕の事実に直面した福沢は、一旦は落胆したものの、やがて気を取り直し、今度は英語を、一から学びなおしたそうです。時代の変化を察知した後、素早く方向転換できたところは、さすが福沢です。肝心なことは、日米修好通商条約の締結によって、日本が五港を開き開国に踏み切った幕末には、すでにオランダよりも英国やフランスの方が勢いのある国になっていた、ということです。

 明治政府は、250年に及んだ幕藩体制を倒し、明治天皇を中心とする中央集権国家を樹立しました。それは、そのわずか20年ほど前に、大国の清が英国に「アヘン戦争」を仕掛けられ、屈辱的な敗北を喫したことから、西欧列強の植民地主義の脅威を感じ取り、これに対抗すべく、日本なりの知恵を働かせた危機対応でした。政府は、熟慮の上、西欧の流儀に倣って、殖産興業、富国強兵を目指しました。その後の日本は、日清、日露の両大戦を経て、日米開戦(1941年)まで、政治、経済、軍事のあらゆる面で自らを西欧化することを通して、西洋列強による「植民地化」を未然に防ぐことのできた、アジアで唯一の国であり続けることができました。

では、このような、アジアの模範生的な「近代化」が日本でなぜ可能になったのでしょうか。明治政府は、日本の統治機構の骨格を決める直前に、留学生や通訳、政府首脳陣を含む「岩倉使節団」を一年以上もの間、欧米に派遣し、各地に逗留しながら、政治、文化、科学、産業、医療、などを現地調査し、主だった国々の首脳たちとも謁見し、意見交換を行いました。そこから得られた知見は、日本の近代化のあらゆる面に、大いに利用・活用されましたが、総じて、西洋文明の高いレベルにまで、日本の近代化を進める根本施策として、英国、米国、フランス、ドイツなどの西欧先進国に、あらゆる分野で学び続けるために、まずは、優秀な人材を国費で海外留学させる一方、全国の都道府県に、公立、もしくは国立の、小学校、中学校、高等学校、大学を設置して、エリート養成コースを確保し、関東以北と関西以南におかれた二つの高等師範学校を中心に、各県に師範学校を置いて小・中学校の教員養成を行い、また、公的な研究所や施設の設立・運営にも力を注ぎました。

 日本政府は、海外の進んだ研究が、世界中で、そしてとりわけわが国において、西洋式文明の発展に直結することを見抜き、国立の大学や研究機関で働く人たちの養成のため、語学教育に力を入れました。5年制の旧制中学では、英語のリーダーと英文法の二本立てで、毎日英語の授業を実施し、旧制高校では、英語に加えて、ドイツ語、フランス語などを学ばせました。一方、岡倉天心が、7歳から11歳ごろまで、横浜のある学校で、アメリカ人宣教師から英語を学んだことからもうかがえる通り、英語教育に目を付けた私的な学校が、日本の各地で産声を上げ始めていました。その天心は、16歳で入学した、後の東京大学の「お雇い教授」として赴任したアーネスト・フェノロサの通訳として、関西の諸寺院を歴訪し、彼の薫陶を受けつつ、秘仏、仏教彫刻・絵画など、古美術一般の知識を吸収しました。天心は、卒業後、その経験を買われて、文部省に入省し、古美術の鑑定・収集・補修、国宝の管理などを担当し、28歳で、東京美術学校の初代校長の要職に就き、後にボストン美術館の東洋部門のキューレターとして活躍しました。彼は英文でいくつかの著書を発表し、中でも「茶の本」(The Book of Tea)は、数種類の日本語訳が存在し、日本人の間で読み継がれているだけでなく、海外でも、根強い人気を誇っています。

 日本における英語教育の目覚ましい例としては、北海道大学の前身である札幌農学校を挙げることができます。「少年よ、大志を抱け!」という言葉で有名になったクラーク博士は、日本政府の強い要請を受けて赴任した際、自ら英語でインタヴューをし、15歳になったばかりの全国の応募者たちの中から、15名ほど、将来のエリートを選抜しました。クラスは全科目、アメリカ人が英語で教えました。定期的に英作文コンテストが実施され、優秀者の名前が発表されました。生徒たちも、日本語でしゃべったら罰金を科す、という自前のルールを設けて、英語の勉強に邁進したそうです。

 その中から、新渡戸稲造や内村鑑三のような優れた国際人が育っていきました。二人とも米国留学を経て、英語力に一層磨きをかけました。前者の英文著書「武士道」は、療養中に口述筆記で原稿が起こされ、米国で出版されるやたちまち、時の米国大統領をも魅了する、世界的な名著になりました。

 ところで、このころから、太平洋戦争に至るまで、「英会話」という、特殊日本的な意味とニュアンスを持つ言葉は、日本に存在していませんでした。ですから、誰かが、別の人に、自分がある人と会って、英語で話した経験を、Yes, I met him last week at a party. We had a short conversation in English. と言っても、英語でしか意思疎通できない者同士だった、という意味に理解されたはずです。なぜなら、英語を学んだもの同士が英語で話しをするのは当たり前で、それができたからと言って自慢する人も、うらやましく思う人もいなかったのです。そんなことができたあなたは、どこかで「英会話」を学んだのですか、と無粋な質問をされる心配は無用でした。

戦前は、英語は何年も努力して初めてマスターできる外国語の一つであるという極めて真っ当な常識が、まだ普通に通用していた時代でした。英語は、フランス語やドイツ語とともに、旧制大学に通うエリートの学ぶ、西欧を知るための最重要言語であり、「英会話」なるものが、パソコン教室と同じ感覚で、多くの一般庶民がお金を払って、お手軽に学ぶ時代がやって来るとは、当時、誰も予想していなかったのです。

 

2.「英会話」はなぜ日本で必要になったか

 日本政府が、広島と長崎への、まさかの原爆投下に呆然となり、御前会議を開いて、徹底抗戦か降伏かの激しい議論を経て、一旦は無視するとの返答をしていたポツダム宣言の受諾を決定し、翌、8月15日正午に、天皇による「玉音放送」を通じて、全国民に戦争終結と平和路線選択の方向性が宣言されたとき、日本人は粛々として、陸海空軍の武装を解き、海外に派遣されていた日本軍もすべて武装を解除し、次々に帰国しました。その後7年間、日本は連合国側の間接統治の中で、アメリカ合衆国を中心とする連合国の支配、および監視の下に置かれました。

 コーンパイプを口に咥え、サングラスを光らせながら、厚木飛行場に降り立ったマッカーサー連合国総司令官は、一呼吸、あたりを眺めてから、ゆっくりタラップを降り、日本の統治を開始しました。極東軍事裁判が始まると、犯罪のレベルに応じて、A級、B級、C級の戦争犯罪人が告発されて裁かれ、その多くが処刑されました。他方、抜本的な学制改革が実行され、旧制中学、旧制高校、高等師範学校、などが廃止されました。また、財閥は解体させられ、地方の大地主たちも土地を解放させられました。

 日本人のうち、民間人を含めて約300万人が「太平洋戦争」の犠牲になり、アメリカは、およそ40万人の若い軍人が犠牲になりました。アメリカ本土が攻撃されることはありませんでしたが、日本の本土は、東京をはじめ、中小都市のほとんどが、重爆撃機B29による計画的な焦土作戦によって、無残な焼け野原にされました。戦時中、地方に疎開していた人たちも続々と都市に戻ってきましたが、たちまち食べ物に困り、治安は乱れ、風紀も乱れました。

 戦後になって振り返ってみると、工業生産力や年間に確保できる石油エネルギーの量など、一にも二にも、経済や産業の総国力が最終的にものを言う、20世紀以後の「総力戦」の時代に、日本の10倍の国力を持つアメリカに、日本はなぜ宣戦布告したのか、なぜ、アメリカを怒らせる真珠湾奇襲攻撃をしかけたのか、なぜ日本軍の暗号がとっくの昔に解読されていたのに、最後までその事実に気が付かなかったのか、なぜ降伏ではなく、自決や「玉砕」にこだわったのか、なぜ亡国の本土徹底抗戦にこだわったのか、数え上げればきりがないほどの疑問点、特に、戦前の価値観や国民意識と現在のそれとの乖離による反省点、は多いのですが、それらが日本人の手で公的に検証され、誰がどのような責任をとるべきか、厳しく問われた結果が、私たち国民にきちんと共有されることはありませんでした。したがって、国が検定を行う教科書である「日本史」も「社会科」も、そのことには全く、あるいはほとんど、触れていません。その結果、多くの国民は、日本の近・現代史に関する精査と反省の上に初めて成り立つ、深い知識と鋭い認識を持たないまま、放置されています。

 けれども、3年8か月余りに及んだ連合国との戦争は、日本を、有無を言わせず、そして100%他律的に、その方向を決定的に変えました。日本は戦後、アメリカの全面的、かつ徹底的な介入によって、いわゆる「平和憲法」を戴く民主主義国家に生まれ変わりました。憲法の改正によって、天皇に置かれていた日本国の主権は、国民のものとされたのです。それから76年を経過した現在の日本は、戦前にも勝る産業の大いなる発展によって、奇跡的な経済成長を遂げ、世界の先進国の仲間入りを果たしました。さすがにもう、戦前の軍国主義的国家に逆戻りすることは考えられません。科学的知見よりも、根拠の薄い、怪しげな希望的観測に立ち、先例主義、経歴主義、プライド優先の悪弊にまみれた軍国主義だけは、さすがに、大部分の国民が、何としても避けたいと願っているからです。

 日本国民の、この大きな意識変革には、歴史の必然が働いています。それは、明治維新の大転換が示している如く、西洋近代に始まった産業革命と、政治的な革命を伴う、社会構造の変化という、大規模でグローバルな波の中で起こってきたことだからです。18世紀末のフランス革命、20世紀前半のロシア革命を経て、王侯貴族が君臨する専制政治は次々に打破され、英国から移り住んだ人々によって建設されたアメリカも、18世紀後半には、本国から独立し、19世紀後半になると、民主化の波はアジアにも及び、日本の明治維新、中国の辛亥革命を経て、第二次世界大戦後は、アジアやアフリカの多くの国が独立し、民族主義の勃興とともに、民衆が主権を求める動きは、一気に世界中に広がっていきました。これを加速したのは、世界貿易の広がりを背景とするグローバリズムの発展です。資本主義は世界の隅々に浸透し、世界を西欧化しつつ、アメリカを中心とする世界システムが20世紀後半には、完成の域に達しました。

 戦後70年余りの歩みの中で、日本は、これまでに経験したことのない経済発展を遂げ、今でこそ少子高齢化社会を迎え、その発展に陰りを見せ始めていますが、経済規模から言っても、各種の産業の普及率から言っても、教育水準から言っても、日本はG7、すなわち先進7か国の中に、確固たる地位を占めています。

 戦後の日本の歩みは、戦前の殖産興業、富国強兵のうち、強兵を除けば、そのまま明治維新の時の方針を受け継いで今に至っていることが分かります。しかも、戦前は何と言っても英国が大きな存在でしたが、戦後はソヴィエトに対峙する自由主義国の中では、米国一強の時代が長く続きました。その米国の庇護を受け、自由主義陣営の中で再出発した日本は、焼け野原の最貧国の一つでしたが、朝鮮戦争での特需景気で息を吹き返し、1960年代に高度経済成長を続けた日本の発展は誠に目覚ましく、特に1980年代は、世界の企業のトップテンに、いくつもの日本の会社が名を連ねるほどに経済力が増し、ジャパン・マネーが世界を席巻しました。

 さて、その中で「英会話」は、戦後の一時期、基地周辺の町にあふれた、青い目のアメリカ兵に対するあこがれに始まり、やがて高度経済成長に伴って、裕福な人たちの嗜みとして、次いで、多くの若い男女の、手ごろでかっこいい趣味として、さらには、急にお金持ちになった日本人の、海外旅行の際の便利なツールとして、とにかく多くの人に強くアピールした結果、大都市は勿論、地方の小都市にも、大人向け、子供向けの、アメリカ英語を教える英会話教室があふれました。大手のチェーン店が幅を利かす一方、小さな個人経営の教室も乱立しました。

 戦後は、アメリカの大学などへの留学を経た、流暢な発音の先生たちが、NHKのラジオやテレビで、颯爽と、英会話の講座を担当しました。興味深いのは、英会話は「英語」の会話ですから、英国人の講師がもっと多くても不思議ではないはずですが、実際は、アメリカ英語を話す講師とアメリカ人のゲストが授業を盛り上げました。彼ら「英会話」は、絶大な人気を誇りました。もうお分かりのように、米国が日本を間接統治した7年の間に、日本人は英語と言えばアメリカ英語しか思いつかなくなっていたのです。

 ではその間、英国は何をしていたのでしょう。英国は、第二次世界大戦がはじまると、破竹の勢いで欧州のほぼ全土を手に入れたドイツとの、一際激しい空中戦を継続する中で、次第に疲弊しました。英国首相チャーチルは、アメリカのルーズベルト大統領に、何とか第二次世界大戦に参戦してもらいたくて、あの手この手で揺さぶりをかけました。ところが、三国同盟を結んでいた日本が、英国にとって都合の良いことに、手違いもあって、たまたま宣戦布告の一時間前に、真珠湾を攻撃したため、それまで厭戦気分だったアメリカの世論が一気に参戦に傾き、一気に太平洋戦争へと突入すると同時に、戦いの矛先は、日本と三国同盟を結んでいたドイツへも向かうことになり、チャーチルの願い通り、今やアメリカは、決定的なゲーム・チェンジャーとして、欧州戦線に加わっていきました。

 欧州戦線へ参入したアメリカ軍は、ドイツに占領されていた諸国を次々に解放し、他方で、ドイツ軍を迎え撃ち、これを破ったソヴィエト軍と合流した後、ドイツを二分して統治しました。

 英国は世界各地に植民地を持ち、極めて有利な条件で貿易などを行い、18世紀から19世紀にかけて、巨万の富を形成していましたが、第二次世界大戦を境に、それらの植民地は、主権を持つ国家として、次々に独立していきました。英国は、もともと日本の半分ほどの人口しかなかったこともあり、日本が官民で協力して産業に力を入れた結果、車や家電製品、医療器具、カメラなど、多くの産業分野で、日本の優秀な製品が欧米は勿論、全世界を席巻するようになると、日本とは対照的に、「老大国」と言われ、かつて繁栄を誇った英国の産業は、今や、日本とドイツに大きく水をあけられ、緩やかに、衰退の途を辿りました。

 日本人が、ほとんどと言ってもよい位、英国人ではなく、むしろ米国人を講師とする「英会話」なる稽古事に、猫も杓子も、老いも若きも、しかも、戦後何十年もの間、夢中になった背景には、このような世界情勢の大きな変化があったのです。

 「英会話」には、手軽に始められる、憧れの、かっこいい趣味、という雰囲気が今でも変わることなく付きまとっています。一方で、学校の英語は大学受験対策、巷の「英会話」はそれとは別個の趣味の世界、という棲み分けが、長らく成立してきました。

 

3.「英会話」から「ビジネス英語」へ

 しかし、1990年代の初めに、いわゆるバブルがはじけ、景気が一気に冷え込み、失われた20年と言われる低成長時代に突入した日本は、今や、あれほど勢いのあった「企業戦士」たちの賃金が、20年という長きにわたって、全く上がらないという異常な状態が続き、「デフレマインド」から脱却できないまま、ずるずると、一流国のプライドは揺らぎ、今や、自虐的マインドの中で、二流国に成り下がり、現在只今はコロナ禍の中、世界を震え上がらせる強力な感染力を持つデルタ株の蔓延の中で、私たち日本人は、ワクチン開発など、感染症の脅威に対する先行投資、感染症蔓延時のロックダウンを可能にする法整備、感染爆発時の緊急医療体制の構築など、必要な備えを怠り、縦割り行政の非効率を超えられないまま、場当たり的対策しか講じてこられなかった事実を思い知らされました。加えて、周回遅れのデジタル後進国であることも判明した日本では、かつて多くの人が属していた中流の人たちの、趣味として、また海外旅行を支える杖として、もてはやされた「英会話」に憧れをもって接する人は、もうそれほど多くはないのかもしれません。

 しかしそれでも、「英会話」という言葉は、戦後70年を経る間に、一般大衆の間にすっかりそのイメージを定着させ、例えば、大手の会話教室の名称が有名ホテル並みにブランド化し、今や立派に市民権を持っています。しかし、問題は、現在の日本人が、「英会話」の中身に何を求めているか、ということです。

 依然として、カルチャー教室の提供する代表的な習い事の一つであり続けていることは否めないのですが、それと並行して、近年は英語の応用面、実用面への期待値が、これまでになく、急速に高まってきているように感じられます。今や、多くの人々が「英会話」に求めているのは、英語のより実際的な訓練とそれに裏付けられた英語力そのものです。それは、これまで主流であった、趣味や教養としての「英会話」の範囲、もしくはレベルを超えた、世界の厳しい現実に即座に対応できる高レベルの英語力です。アメリカの大統領と通訳なしで会話できるほどの、確かな英語力です。

そのために必要なのは、5~10年にわたる、中・長期的な戦略の中で、科学的かつシステマティックに、予め定められた目標をクリアーしながら、確実に段階を一段ずつ上って英語力を高める特訓コースを用意することです。そうすれば、例えば、ビジネスの海外展開に必要な、突破力のある英語力の養成を引き受けることができます。それは、多くの場合、パターン化された一定の厳しい訓練です。

今日、世界中で、英語の持つ真の威力が注目の的となっています。その英語が現実にもたらす可能性の大きさが、日に日に大きく、明確に、意識されてきつつあります。趣味としての「英会話」を超え、そこを脱皮して、圧倒的威力を発揮する抜群の英語力が、それを可能にする学習機関の設立が、熱い注目を集め始めているのです。そして、今日、これまでの「英会話」の枠組みの中では捉えきれない高レベルの英語力への期待が、今般、「ビジネス英語」という新たな呼称となって、急速に市民権を持ちつつあるのです。

 

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