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<title>記事を通して英会話がより身近に感じられます | オンラインの英語教室・株式会社国際遠隔教育設計</title>
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<description>これまで恒常的に必要な授業交換を確実に行えるような、世界の大学教育（＝カリキュラム）のオンライン化の可能性を模索してきました。その過程でオンライン講座を開催した際に、「自国にいながらこんなに進んだ形で授業を受けることができるのか」と驚きの声を参加者の方からいただきました。 今後どう変わるか分からない世界で、オンライン授業は場所や設備に左右されない、無限の可能性を持っています。ブログから様々な情報を発信し、そんな世界とつながれる英語教室の発展に今後も努めてまいります。</description>
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<title>英語上達の三段階</title>
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英語初心者、英語中級者、英語上級者の、それぞれに相応しい学習法初めに私はこれまで、日本人が英語を学ぶ際にどうしても気を付けてほしいこと、安易に放置しておくと必ずや躓きの石となるであろうことに的を絞ってブログを書いてきました。それは発音、文法、語彙の各分野をカバーしました。ただし、それらは、日本人が必ず学校で学ぶことと相補的でした。つまり、学校ではほとんど取り上げられなテーマや、大学受験に直結しない事柄に絞って論じてきました。結果的には、英語の上達を心から望んでいるが、日本の英語教育の現状に潜む重大な欠陥、もしくは当然あるべきものの欠落に、第六感のようなもので、気づいている方たちに、きちんと届けたくて書いたのです。もちろん、弊社のオンライン英語講座を受講していただければ、それらの重要性に見合った合理的な説明、実践的な練習問題、徹底した訓練を含めて、個別に対応させていただきます。ただ、自分の意見や感情を英語で人に伝えるにあたって絶対に必要な諸規則、例えば特定の構文や言い回し、冠詞や前置詞の正しい使い方、代名詞や人称代名詞の使い分け、時制に対応する動詞の語形変化、正しい語順、数千の基本語彙、類義語の使い分け、実践的な英語力の向上に欠かせない正しい発音については、信頼に足る情報が常に遅滞なく学習者に届けられる必要があります。それこそ、私がブログを書き続けてきた理由です。今回は、私がこれまでどんな話題を取り上げてきたのかを皆さんと一緒に振り返り、それらをきちんとマスターすることが英語学習にとっていかに重要であるかを肌で感じていただき、その上で、改めて、英語の上達を目指しておられる方々の諸課題を「英語上達の三段階」という観点から総合的に眺め、英語という高山の攻略イメージ図として、皆様の参考に供したいと思います。１．日本人を翻弄する英語の個別的問題点a.二重母音と長母音の区別について日本人はよく'r'と'l'の区別ができないとか、's'と’sh'の区別ができないと言われます。確かに日本人はそれらの区別が苦手です。でも日本人が苦手なのはそれだけではありません。'bat'と'but'の区別も不得意です。'eat'と'it'の区別も苦手です。また、多分'pull'と'pool'の区別も苦手です。そしてさらに、日本人は二重母音と長母音の区別が不得意です。でも、それがどうしたの、重箱の隅をつつくような話ばかりして、と思っている方がきっと沢山いらっしゃいます。そこで、少しマニアックに聞こえるかもしれませんが、二重母音と長母音の区別がどうしても必要な訳をまず理解していただきたいと思います。でも、それには、回り道をして、英語の発音一般について話をしておかなくてはなりません。皆さんは、英語の発音が、英語という一個の言語の習得ににとって、一体、どのような意味を持っているか、深く考えたことがないかもしれません。でも英語の上達を目指すならば、英語の文法の理解と共に、英語の発音にも、一定程度、習熟することが欠かせません。それがなぜかをまず確認しておきましょう。英語をマスターするには、英語が使われている現場に行くのが近道です。でも、それが難しい場合はどうすればよいのでしょうか。そのときは、一定程度の科学的な分析、すなわち英語の実態を分析することが求められます。英語が実際にどのように機能するのかを知った上で、英語学習の目標を定め、そこから逆算して段階設定された個々の達成目標を、人一つクリアしていくほかありません。そして、それには、英語ネイティブたちがどのように互いの意思を疎通させているのか、その実態を、周到、かつ細密に、知っておく必要があります。では、そこにどのような実態が潜んでいるのでしょうか。この問いに答えることは、実は、比較的簡単です。なぜなら、どの言語もそれが生きた言語である限り、自身の膨大な語彙の中から特定の語句が選ばれ、メッセージをやり取りに使われるからです。つまり、話者によって選ばれた特定の単語や慣用句たちが、ある順番で繋げられ、句や節を形成すると同時に、次々に文を構成すること（＝特定言語に内在する特定の文法の存在）がよく知られています。このようにして形成される文は、通常、複数の単語（words）から成り、多くの場合、文意を整えるべく句や節などの塊を一方で形成しつつ、全体として、一つのメッセージ（onemessage）の伝達というミッションを担います。こうして、複数の単語を従えた文は、目（視覚）に訴える文字（letters）、もしくは耳（聴覚）に訴える発話（utteredspeech）を介して、人が伝えたかったことを他の人に伝えることができます。言い換えれば、特定の単語が特定の順番で並ぶ「文」という形をとった言語的発信は、その言語を知る人にそれが届いた瞬間、その人に直ちに解読され、発話者（または文の書き手）が伝えたかった意図、すなわちメッセージが、その人に伝わります。つまり、個人の発するメッセージは、一方で何らかの文法的機能を帯びつつ、他方で何らかの意味を担った各単語たちの或る配列という形で暗号化されるのです。こうして生成された単語の組み合わせは、通常、一個もしくは複数の文として存在します。ですから、所与の言語の文という形に暗号化されたメッセージは、当該言語の暗号を解く鍵としての文法の知識の持ち主に向かって発出されなければなりません。言い換えれば、当該言語の文法の知識を十分に持った誰かによって、それらの文が解読されるならば、その文の中に暗号化されていた元のメッセージがその人に伝わります。ここから分かる最も基本的な事実は、文を構成する最小単位は単語だということです。だとすると。特定の一単語が持つ発音も、その単語に託された意味も、それが文中で果たす文法的機能も、それとは異なる他の単語とは異なるはずですが、個々の単語はどのようにして他の単語と区別されるのでしょうか。それは二つの方法によります。第一に、書かれた文字としての単語は、それが英単語の場合、アルファベットの特別な組み合わせが特別な順番に並べられたものとして存在することが、他と区別される目印になります。例えば、at,hat,bat,cat,fat,などの区別はこの原理に拠ります。第二に、発話された英単語は、母音および子音から成る音が特別な順番で並べられたものとして、すなわち聴覚的印象の特異性として他と区別されます。例えば、quest,strike,clasp,sports,などは共通部分を持ちながら異なる部分をしっかり介在させることでお互いにしっかり区別されています。こうして、二つのうち、前者は視覚的に、後者は聴覚的に、単語間の弁別的特性が顕著に認められます。これをまとめると、個々の単語が他から区別されるのは、他と異なる独自のスペリング、並びに、他と異なる独自の母音と子音の組み合わせが確保されているから、ということになります。さてその上で、私は多くの日本人にとって発音による区別が難しい例として、長母音と二重母音の区別を取り上げました。それは一体どのような区別なのでしょうか。分かりやすいサンプルとして、ナイフやフォークのフォークと、フォークソングのフォークを比較検討してみましょう。日本人はどちらのフォークのこともよく知っており、意味の違いもよく承知しています。両者は異なるスペリング（forkとfolk）を持っています。問題は、両者は発音上でもしっかり区別されているという事実です。でもどのようにしてでしょうか。ナイフとフォークのフォーク（fork）には長母音が、フォークソングのフォーク（folk）には二重母音が、それぞれ充てられることで、両者は区別されているのです。英語の母語話者たちは、赤ん坊の時から英語を学びますが、彼らの無数の学習対象の中に、当然、彼らの母語の発音も含まれています。彼らは個々の単語の発音の違いについても、徹底的に叩き込まれます。三歳を過ぎる頃には、例え寝言でも、forkとfolkの発音を間違えることはありません。しかし日本語には、残念ながら長母音と二重母音の明確な区別は存在しません。結果的に、この区別は日本人にとって学習上の死角となっています。この死角を助長しているのが、「フォーク」という共通の片仮名表記です。この表記は日本人を油断させ、英語における両者区別に気づきにくくさせているのです。「forkとfolkは発音が全然違うのを知っていました？」と日本人に尋ねると、多くの人が「いいえ。」と答え、中には「ええ？何のことですか？」と、きょとんとする人もいるはずです。私の説明を聞いても、「でもこれって、例外でしょ？一つの例外なんかちょっと目をつぶれば済むことじゃありませんか？」などと、私に食る人さえいるかもしれません。でも、言っておきますが、たった一つの例外ではありません。もう一つの例として、テニスコートのコートと上着のコートを見てみましょう。日本語ではどちらも「コート」と片仮名標記しますが、まず、意味の違いは説明するまでもありません。そしてスペリングも、テニスコートのコートはcourt、上着のコートはcoatと、明確に綴り分けます。そして発音も、courtには長母音を、coatには二重母音を充てることでしっかり区別されています。まだ釈然としない、とおっしゃる方はlow（＝「低い」）とlaw（＝「法律」）、row（＝「漕ぐ」）とraw(=「生の」）、load（=重荷）とlord（=領主）の三つの例をご覧ください。これらの例では、前者が二重母音（/ou/）、後者が長母音（/:/）を含むことで、互いに区別されています。(英和辞典で発音の違いを確かめましょう）ここまでくれば、どなたでも、英語に実装されている長母音と二重母音の発音の区別を疑うことはできなくなるはずです。そして、英語中級以上の方ならとっくにご存じの通り、英語の語彙の中には無数の長母音と無数の二重母音が存在します。もしも90パーセント以上の日本人が、学校で何年間も英語を学んでいながら、それらを正しく聞き分けることも、正しく発音することもできないとしたら、日本人の英語学習にかなり深刻な悪影響が及ぶはずです。これでも、事の重大性がもう一つ感じられない、とおっしゃる方は、次の事例をご覧ください。まず、本のページ（page）は「ページ」と表記され、この発音が一般化していますが、正しい発音はペイジ（/pei/）です。きちんと二重母音（/ei/）で発音しなければ、ネイティブの英語話者には通じにくいのです。また、ケーキ（cake）も日本語だと「ケーキ」と発音されますが、これも正しい英語は、むしろ、ケイク（/keik/）であり、正しい二重母音（/ei/）で発音することが、絶対お勧めです。さらに、ビーフステーキ（beefsteak）は、日本語では「ビーフステーキ」もしくは「ビフテキ」と言いますが、正しい英語の発音はビーフステイク（/bi:fsteik/）です。さらに、犠牲の山羊も日本語では「スケープゴート」で通じますが、英語では「スケイプゴウト」（/skeipgout/）と発音しなけれなりません。それから、一国の指導者が「声明」を発表するとき、「ステートメント」（statement）を発表するとも言いますが、英語ではステイトメント（/steitmnt/）と発音しなければなりません。また、「空間」や「宇宙」のことを日本語ではよく「スペース」（space）と言いますが、英語ではスぺイス（/speis/）と発音しなければなりません。あるいはまた、トランプをするとき「スペード」（spade）の「エース」（ace）などと言いますが、それを英語で言うときはスペイド（/speid/）のエイス（/eis/）と発音しなければなりません。いかがですか。もう切りがありませんね。しかし、なぜこんなことになるのでしょうか。それは、日本語には、まるで身体のくっついた双生児のように、一音の中に異なる母音が合体した「二重母音」（diphthong）というものが、ただの一つも存在しないからです。その結果、日本人は日本語自体の限界によって英語には存在する長母音と二重母音の音による区別の存在に気づけないのです。私たちにできることと言えば、この区別の重要性を正しく認識し、練習を通じて、この区別を聞き分け、言い分けることができるようになることです。日本語に存在しない英語の音は、すでに述べたようにたくさんあります。ですから、それらも併せて訓練する方法を確立することが大切です。それは、日本における健全な英語教育にとって、文法と共に、死活的に重要であり、それゆえに、私たちが本腰を入れて取り組まねばならない課題なのです。（他方、長母音は日本語にも存在します。例えば、「校長」は「コーチョー」と発音し、「誇張」は「コチョー」と発音します。同様に「効果」は「コーカ」と発音し、「古歌」は「コカ」と発音します。つまり、「校」や「効」は「コ」ではなく、「コ」をそのまま倍の長さに伸ばして二音に数える「コー」という音を当てる、という意味での長母音は確かに存在しますが、英語の場合のように、異なる母音が一音の中に継起する、という意味での二重母音は存在しません。日本語においても、「層」（「ソー」）と「沿う」（「ソウ」）の間には確かに発音の区別があります。前者は短母音の「ソ」を二音に伸ばした長母音であり、後者は「そ・う」と異なる二音を継起させます。「沿う」の発音は、同じ音価を持った異なる単音、すなわち、「そ」と「う」、の連続体で構成されています。ですから日本人は「そ」＋「う」（＝２音）と認識します。一方、英語では、二重母音はすべて複合的単音と認識されます。ですから、例えば、詩行における音節の数の勘定でも、二重母音＝１音と見なされるのです。）b.曖昧母音についてそのような観点から、私が注意を喚起したもう一つの重要な発音上のポイントは曖昧母音でした。日本人にとって、英語の母音の中で二重母音以上に難しく、厄介に感じられるのが、曖昧母音です。では、曖昧母音はどこがどのように曖昧なのでしょうか。曖昧母音はざっくり言えば、「ア」と「ウ」の中間の音です。より正確に言えば、「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」のいずれからも等距離にある、まさに「曖昧な」音です。このような「訳の分からない音」は日本語には存在しません。そのような母音の存在を許すと、日本語は確実に乱れるからです。しかし、不思議なことに、曖昧母音は英語では一人前の扱いを受けています。そしてそれには、英語特有の事情があるのです。曖昧母音が英語に生まれたのは、英語が、古英語を母語とする英国人の祖先、アングロ・サクソン人から引き継いだ強勢（stress）アクセントに原因があると考えられます。これは、強勢アクセントの置かれる音節と、それが置かれない他の音節との間に、発音上の格差が生じたことに起因するということです。こうして多くの多音節語は強勢の置かれる音節と、強勢の置かれない音節の区別を生みました。こうしてできたのが、元から曖昧母音を一個以上含む単語、例えばabout,summer,happen,natural,appearanceなど、無数の事例が明らかにしているように、曖昧な音は強勢の来ない音が、強勢の置かれる音節の反動として、思い切り弱く、かつ曖昧に発音されるようになったことに起因しているのです。日本人はまずこのことをしっかり学ぶ必要があります。そして、日本語の五つの母音のいずれにも属さない、曖昧な母音の発音練習をします。さて、その上で、もう一つ注意したいのは、元来は曖昧でない普通の母音から成る単語が、文の中で弱音化の作用を受けると、その語の母音が曖昧化することがあることです。例えば、Yes,Icandoit.（=「はい、私、それできます。」）という文を見てみますと、canやitは、単体ではそれぞれ、/kn/と/it/であり、そこに含まれる母音は曖昧ではありませんが、文の中でそれらを発音するときは、canは/kn/、itは/t/と弱く発音されます。何故なら、Yes,Icandoit.を文として自然に発音すれば、yes,I,doの三語にアクセントを置いて「話す」のが一番自然に感じられるからです。そして、その自然な音の流れの中で、canとitは明らかに弱く発音されます。これが英語特有のイントネーションの法則なのです。こうして、相対的に弱体化した母音は、自動的に曖昧化させられます。c.音節の重要性他にも発音に関して注目したところがあります。それは、英語における音節の重要性です。英詩の韻律法も音節を基本として組み立てられています。ですから、音節の数え方を説明しました。子音は単独でも、重なっても、音節としてはゼロであり、母音は全て一音と数え、ついでに、二重母音、三重母音も一音と勘定する、というルールを覚えることの重要性を強調しました。「子音は母音ではない」という、英語ではごく当たり前のことを覚えるだけでも、英語の学習は格段に進歩します。例えば、発条（ばね）のことを英語ではspringといいます。スプリングボードのスプリングです。また、springには「春」とか「泉」という意味で使われることもよくあります。ですから日本人にとっても、覚えていて決して損はない単語の一つですが、困ったことに、発音は結構難しいのです。何故なら、s,p,rおよびn,gという、二つの子音連続体に前後を挟まれた状態で、iという母音が一個だけ存在しているからです。これがなぜ難しいかといえば、まず、子音を単体として発音したことが一度もない日本人が、二つ以上のまとまった子音を、子音連続体として発音することは極めて難しく、日本語を話している限り、そのような事例に遭遇することはあり得ないからです。まして、前後を合計五個の子音に囲まれた一個の母音、という音構成は、日本語には絶対にあり得ません。では、ここで皆さんに質問をします。「springという単語の音節は何個でしょうか？」先ほどの音節を勘定するときの規則を当てはめてみましょう。すると、子音の数は5個ですが、母音ではないので音節に数えることはできません。一方、母音はiのみです。すなわち一個です。すると、この語の音節の数は１です。これが正解です。springを日本語で表記すれば5文字（スプリング）を要しますが、従って五音と数えたくなりますが、この語の母音は一個しかありません。これを「視覚的に」しっかりと目に焼き付けた上で、この語の発音に向かいます。s,p,rと順番に発音することができますか？次にiを発音します。最後にn,gを発音shます。このように、日本人がspringを発音するには、真ん中にiという母音を含む単音節語だとまず認識し、この母音を前後から取り囲む各子音を、単体子音として次々に滑らかに発音する練習をし、最後に中央のiを挟む一連の子音たちを、全体として一挙に発音する練習をします。これがしっかりできるようになったら、あなたは自信をもってspringを発音し、正確にネイティブに伝えることができます。d.連続性子音について日本人は子音を単体で発音する練習をしなければ、英語の発音はおぼつないでしょう。その際、私が連続性子音と呼ぶある種の子音をマスターすることは極めて重要です。では、連続性子音とはどんなものでしょか。例えば、p,b,t,d,g,kなど、唇や歯や喉などに息をため、それを一気に破裂させることで得られる一回性の破裂音は、出ると同時に音が消えます。破裂音は連続させることはできないのです。したがって、破裂音は非連続性の子音です。これに対して、mやn、またzの音は連続性子音です。なぜなら、mやn、またzの音は、発音する際、自分の息の続く限り、コンスタントに、同じ音を出し続けることができるからです。これらの区別を解説した後、連続性子音の中で、日本人にとって特に発音することが難しいとされるlとr、fとv、sとsh、またはthの音はどうして出すのかを分かりやすく解説し、その延長線上で、measureとmajorの二つの語の発音の決定的な違いを解説しました。そして、破裂性子音のdを含むか含まないかによって、スペリングのみならず発音までも、明確に区別されることを指摘・説明しました。e.英語母音の摩訶不思議さところで、英語の発音の難しさの原因は他にもあります。そしてとくに日本人にとって厄介なのは、日本語の「ア」に相当する英語の母音が五種類に区別されて、毎日使われていることです。他にも、二種類の「イ」、同じく二種類の「ウ」が、英語では、同様に明確に区別されます。これらのの驚くべき実情を豊富な例によって詳しく解説し、それらの発音の仕方を丁寧に説明しました。f.日本人学習者を翻弄する英語の文法や語彙についてそれから、文法面では、「動詞の原形＋ing」という外形を共有する現在分詞と動名詞の文中での見分け方を論じ、完了形が可能にした時間的視野の拡張を「have＋過去分詞」というお決まりの構造との関係において解説しました。また、would,could,should,mightなど、助動詞の過去形を使うことで、架空の話や仮想の世界に遊ぶことができたり、角の立たない婉曲な言い方ができたりする仮定法について、幾つも例を挙げて解説しました。それから、冠詞が名詞との関係において果たす重要なコミュニケーション機能を、定冠詞、不定冠詞（aとan）、無冠詞という四択の原理として解説しました。また、極めて頻繁に使われる多くの前置詞が、名詞と結びついて（前置詞＋名詞）形成される前置詞句となり、形容詞句または副詞句として、文中で縦横無尽の働きをすることを確認しました。さらに、日本語には類を見ない独立性と抽象性を与えられ、格変化において驚嘆すべき整合性を発揮する代名詞（人称代名詞、指示代名詞、関係代名詞、itの特別用法）が英語においていかに重要な働きをするかに触れました。他方、学校では取り上げられないテーマとして、ギリシャ語・ラテン語由来の無数の接頭辞及び接尾辞が果たす、意味および品詞の、即時的変換機能の重要性を論じ、一般的に、英語の語彙に精通し、英語特有の感覚（語感）を養うためには、英和辞典よりも英英辞書を使う方がはるかに効果だと説きました。これらはすべて、日本人がきちんと計画を立て、本格的に英語を学ぶ際にいずれは避けて通れなくなる重要学習事項です。英語を学んでいく過程でこれらを順次攻略し、自分の知識の一部として完全に身に付けていけば、人は着々と英語力を向上させることができます。日本の学校では高校や大学の受験を控えて、英文法はかなり手厚く教えますが、発音や語彙についてはそれほど熱心ではありません。そこで、足りないところを補うという意味で、例えば発音については、日本語にないいくつかの発音について、発音記号の使用を控えることなく、それらの音の特色を解説しました。しかしそれで問題が解決するわけではありません。日本人にとって英語の音節は理解のしようがありません。日本語には音節という概念は存在せず、子音と母音の区別もありません。あるのは「あいうえお」で始まる五十音図のみです。この五十音は、日本語にとって、音の単位であると同時に、文字の単位です。さらに困ったことに、「伸縮自在の音節」と私が仮に呼んでいる事柄が日本語には存在せず、また、「多音節語に自動的に宿る強勢アクセント」も日本語には存在しません。したがって、その両者（音節と強勢アクセント）が相乗的に働いて生み出されるイントネーションも、当然、日本語には存在しません。ただし、日本語でも特に強調したいときには、「あれ、変だなー」という具合に「な」を伸ばして発音生したり、「おやー」と「や」を伸ばしたりするようなことはあります。しかし英語のイントネーションはごく普通にしゃべっていても、常に発生するのであって、強調とは無関係な存在です。次に、語彙については、語彙の学習に積極的に取り組んでいただくために、クイズ風に、意味の区別がつかない似たような語を挙げて、その正しい使い分けを解説しました。例えば、「集める」という共通の訳語を持つ言葉assembleとgatherとcollectが、それぞれ異なるコンテクスト（文脈）を要求することを解説しました。同様に、「自由」という共通の訳語を持つlibertyとfreedomのニュアンスの違いや使い分けを論じました。また、ある状況下である特定のことが起こる「可能性」と「蓋然性」との違いを、possibilityとprobabilityで明瞭に使い分けることができることを説明しました。加えてfeasibility（実現可能性）やviability（生存可能性）にも言及しました。これらをブログのテーマとして取り上げたのは、英語の語彙の精妙さを感じていただき、「興味津々に」個々の語を学んでもらいたかったからです。英語の語彙には目からウロコの発見が至る所に潜んでいます。g.英語の習熟度に着目した包括的な英語学習支援策しかし、このように英語の発音、文法、語彙の三分野にわたって、カギとなる様々なテーマについて書き続け、さすがにもう書くべきことはなさそうだと思い始めたころ、逆に、いやいや、本当に大切なことはまだ書けていないのではないか、という疑念が湧いてきました。そして、その疑念の正体が最近になって判明しました。書くべきだったのは統合的で包括的な英語の学習支援策でした。でもそれは何であり、なぜ必要だったのでしょうか。それは、個々の特定の話題に向かうかわりに、関連性の深いいくつかの学習目標を一望しながら、英語学習の全行程を視野に収め、習熟度別に継続性を維持しつつ学習を支援をすることです。それは譬えて
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<link>https://easyspeak-english.com/blog/detail/20240203122852/</link>
<pubDate>Sat, 03 Feb 2024 22:17:00 +0900</pubDate>
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<title>オーストラリア式英語教育の意味と可能性</title>
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※2024年2月1日更新しました。英語教育の改善に向けて１．オーストラリア式英語教育が教えてくれるものA.弊社のオンライン英語講座の取り組みについて以前にオーストラリアに２年ほど住み、英語を使って生活したことのある日本人の方から、弊社のオンライン英語講座に関する問い合わせをいただきました。それによると、自分の知り合いに英語が全くできない人がいるので、その人にネイティブの講師の授業を受けさせたいが、可能か、というものでした。それに対して、英語が全くできない人の場合、ネイティブの講師の英語があまりよく聞き取れない恐れがあります、と問題点を伝えると、「それについては、私もその方と一緒に授業を受け、必要なとき、私が通訳します。」という答えが返ってきました。なるほど、それなら英語初心者でもネイティブの講師の授業を受けることができるかもしれないと思いましたが、それに関連する別の問題が気になったので、重ねて次のように尋ねました。「分かりました。あなたがその方と一緒に授業を受け、講師の英語を通訳していただければ、その方は安心して授業が受けられます。でも、そうなると、あなたのことが気がかりです。お見受けしたところ、あなたの英語力は多分中級以上でしょうから、初級者を対象に開講されるその授業はあなたにとっては易し過ぎて、学ぶ事はほとんどなく、むしろ退屈でしょう。すると、不満が溜まってくるのではありませんか？」この質問に対して、すぐに次のような返事が返ってきました。「いいえ、そんなことはありません。なぜなら、私はもうかなり長い間海外に行っていないので、ネイティブの講師と英語で話ができるだけで、リスニングとスピーキングの練習になります。私にはそれで十分です。」これには私もびっくりしました。最初のうちは、「初心者に英語ネイティブの講師？何言ってるの？冷やかしのつもり？」などと勝手に思いを巡らせ、軽くあしらうつもりでいたので、受け入れ担当者として言うべきことはきっぱりと言い、その上で先方の言い分も聞いてみたのですが、不思議や不思議、その答えには何の力みも感じられず、自然体で、話の辻褄も見事に合っていたので、むしろ感心しました。しかしその一方で、私はかつて経験したことのないほどの厳しい挑戦を感じました。一見簡単に見える要望の彼方に教育の無限の可能性が垣間見える反面、空恐ろしいほどの難問を抱え込んでしまったとも感じたのです。私の直感は、「これは相当危ない。この先、とんでもない落とし穴が待ち構えているかもしれないぞ」と、私に警告を発していました。でも、ここまで話を聞かれた皆さんの中に「おや、随分と変わった提案ですね。前代未聞かも。でも、肝心なのは本人ですよ。その方が望んでいらっしゃるのなら問題ないはずです。一体、何を迷っているんですか。」と思われた方はいらっしゃいませんか。もしいらっしゃったら、ある重要なポイントが思考の枠組みから抜け落ちている恐れがあります。「えっ、何のこと？」と思われた方がいらっしゃるといけないので、今回の「要望」の中身が、これまで表に現れてこなかった箇所も、一つ一つ反転させることで、一全体像としてくっきりと浮かび上がるように記述しておきます。《ある町に、英語が全くできない人が住んでいます。また別の町に、海外で２年ほど英語を使って暮らしたことのある人が住んでいます。この二人は中年の社会人で互いに知り合いです。そして二人とも英語の運用力をさらに向上させたいと思っています。そこで、弊社から、この両者（＝一方は英語初級の学びを、もう一方は英語中～上級の学びを期待するものと推察される）にリモートで、二人に特化した英語授業を提供してもらいたい。その際、担当の講師は、二人の英語力の差を正確に把握した上で、同一の授業に二人を迎え入れ、二人を同時に教え、二人に同等の気配りをしながら、それぞれの英語力を大きく伸ばす工夫をし、二人の学習意欲をも、個々にしっかり満足させてもらいたい。なお、授業は英語ネイティブの講師に英語のみを使ってやっていただきたい。》いかがですか。私が「同一の授業に二人を迎え入れ、二人を同時に教え・・・」などと要望の中身を構成するポイントを、洗いざらい、赤裸々に、反転させたことで明白になったように、この問い合わせの要点は、到達レベルのはっきり異なる二人の英語学習者を、同一の授業の中で、英語学習における二人の異なる学習目標を常に念頭に置きながら両者を教え、二人それぞれに学習の成果を治めさせてほしい、という極めて高度な要望にあったのであり、有体に言えば、ほとんど無理難題に近い要求の押し付けにあったのです。さらに重ねて言えば、二人の受講希望者が達している英語学習における異なる到達度を一旦不問に付し、二人に対して同一の授業を実施する用意が弊社にあることが、この二人が弊社の講座に受講を申し込む際の条件だったのです。そして、この点にこそ根本的に重要な、また極めて深刻でもある、問題が隠れているのです。なぜなら、もしも弊社が、そして授業者が、深く考えもせずにこの要望を受け入れるなら、支離滅裂で中途半端な、そしてそれ故に、恐ろしく出来のよくない授業を提供するか、あるいは、一方の受講者にのみきちんとした授業をし、もう一人は容赦なく切り捨てる非情な授業をするかのどちらかにならざるを得ないからです。どちらの場合も決して望ましい結果にはなりません。敢えて強行すれば、教育の公正さを著しく欠くことになるからです。ただし弊社は、今回この「要望」を寄せられた方が弊社を困らせるために無理難題を言ってきたと、「下衆の勘繰り」をしたわけではありません。むしろそのような意図はなかったと考えています。けれども、現実には今申し上げたような事態を引き起こす可能性が極めて高く、今回の要請は、少なくとも意図せざる波乱要因を内包しているのです。ですから、大局的に見て、問題はむしろ弊社の対応にあると見るのが正しいのです。今回の「問い合わせ」に含まれている教育上の問題点を理解し、その危険性を十分認識したうえで、弊社として、果たして「要望」を受けいれるのか、それともきっぱりお断りするのかが問われているのです。言い換えれば、予想される危険性をしっかり視野に入れた上でのリスク管理の仕方と問題が生じた際の社会的責任の取り方が問われているのです。つまり、この要請に応じた場合に、かなり高い確率で受講者が蒙るはずの深刻なダメージへの十分な対応策が、果たして弊社に用意されているかどうかの問題なのです。ここで一つ、皆さんにお伺いしておきます。このような授業を、一体どこの国の、どの英語ネイティブ講師が、好き好んで引き受けるでしょうか？答えは言うまでもなく否です。そのような授業を引き受けるには、リスクが大きすぎるからです。そこで弊社がどのように対応したかは、この後すぐに述べるとして、その前に、一般論としての正統的、かつ合理的な対応をまず述べさせていただくなら、学校でも塾でも、このような二人は、習熟度別のクラスに振り分けて対応します。個別指導塾では、個別に対応します。このいずれかの措置をとるための条件がそろっている限り、誰もこれ以外の対応をとることは考えられません。B.英語初級と英語中級の平均学力差についてところで私は、これまで、異なる到達度とか学力の差という言葉を、さも当たり前のように使ってきましたが、現実に即して言えば、英語学習においては、日本人の場合、中学1年生の後半ごろから徐々に、例えば、期末試験の得点差などの形で、個人間の学力差が目立ち始め、中学3年になると差がさらに大きくなります。高校、大学と進むと、その差はますます一方的に広がり、社会人では、英語の初級者と中級者、あるいは中級者と上級者の間には、教育環境、本人の努力などの様々な要因が重なった結果、英語運用能力に関して言えば、すでに途方もなく大きな差が現実に存在します。英語は義務教育の小学校高学年から教科化されており、それは中学まで続きます。さらに日本国民の九割以上が高校に進学する現代の日本においては、事実上高校までが義務教育と考えてもおかしくない状況が存在します。ところが、明治以来、日本では英語力は英文を読んだり書いたりする力の養成に力を注ぎ過ぎてきたため、オールラウンドな英語運用の力の養成がおろそかになってきました。したがって、日本人一般における英語運用能力の低迷が今でも続いています。しかし真の英語力とは英語運用能力のことです。聞く、話す、読む、書く、の四技能の偏らない養成が英語力の養成であることは誰も否定できません。そこで、英語学習の成果の度合いを、この線に沿って見直す必要があります。ですから私の提案は、中学入試、高校入試、大学入試の英語試験の方法やその成績に拠らない、もっと新しい方法で、英語の運用能力を捉えなおすことです。入試は学歴に関係するので、もちろん大事ですが、英語は、それらの関門ごとに区別できるような段階を踏んで上達するとは限りません。この点、私は単純に、英語上達の三段階説を提唱しています。例えば、聞いて話して読んで書ける、英単語の数が3000くらいまではまだ初級者と言ってよいでしょう。英語の運用力は、本人が知っている単語の数だけで測るわけにはいきませんが、正しく発音された語を耳で聞いてそれと認識でき、それを、それなりに正しく発音でき、また文字で書くことができ、それらを使って書かれた文章を正しく読み取れる単語数が5000ほどあれば、その人の英語力はすでに中級レベルです。そして英語上級者となると、当然、それ以上の数の語が自在に使えます。ほんとうに上級に達しているかどうかは、英語を実際の場面で話すときのスピードや自然さ、普通の英語読本（リーダー）の英文を正確に理解しながら読むスピードも関係してきます。英語を話し、また書く際に発揮される文法力、発音やイントネーションの正しさ、英語らしい自然さ、さらには様々な構文の、時と場所がらを心得た、自在な活用、なども関係します。それらの諸要素を、英語力判定のプロの検査官が、同時的に把握・勘案して得られる総合的な評価、すなわち総合値で、英語の熟達度は測定されるべきです。お分かりのように、さまざまな場面で英語を使いこなす力、すなわち、英語運用における総合的な練度が、当該英語学習者の現時点における英語の習熟度、すなわち英語力なのです。したがって、英語力の真に正確な測定は、一般に考えられているよりもずっと難しく、例えば、会議などで議論をリードする能力など、現実に英語を使用せざるを得ない場面を用意するなどして、多角的かつ複雑な手法や手段を用いて、時間をかけ、周到に測る必要があるのです。ただ、理論値としての英語初級グループと英語中級（もしくは英語上級）グループの間に存在する平均学力差は、外形的かつ断定的に言えば、中学1年と大学3年（もしくは大学院生）の学力差に匹敵します。勿論、初級の学習者でもすでに中級に近づいている人もいれば、中級の学習者でもすでに上級に近づいている人もいます。しかかしそれは全体の中では比較的少数を占めるだけであり、適正なテスト結果に基づいていくつかのグループに分けられた英語学習者の、グループ別の平均到達レベルから導き出される、グループ間の目覚ましい学力差の存在は疑う余地がありません。例えば、今申し上げたように、事前のテストで振り分けられた英語初級者と英語中級者の数が、互いに均等に混じり合うクラスを、仮に人為的に作った場合を想定するなら、今申し上げた平均学力差の意味がはっきりします。つまり、そのようにして作られた混成クラスでは、インストラクターが英語初級者のグループに的を絞って授業をすれば、そのグループ属する学習者たちには、当然、一定の成果が上がりますが、クラスの残りの半分を占める英語中級者たちにとっては、その内容はすでにそのほとんどが学習済みであり、授業の大部分は復習として以外は、何の学びにもなりません。一方、インストラクターが、クラスの半数を占める英語中級者のグループに的を絞って授業をすれば、英語中級者たちはみな一定の成果を得るでしょうが、残りの半数を占める英語初級者は、英語の基礎がまだ固まっていないため、それを土台にしてのみ可能になる、より高次の学びは全く身につかず、説明の多くはほとんど理解できないでしょう。このように、教育の原理に反する授業を行えば、十中八九、惨憺たる結果が待っているのです。C.えっ？学力差のある受講者を同一授業で教えるって？この「要望」の真の恐ろしさは、インストラクターがその「要望」に沿うべくどれだけ努力しても、実を結ぶことはあり得ない、という点にあります。「要望」通りの成果の達成の難しさを比喩的に示すなら次のようになります。《マイナーリーグから今年やっとメジャーリーグ入りを果たした一人の若いルーキーがいます。彼は開幕試合に出場を果たし、今バッターボックスに立ったところです。このルーキーを相手に球を投げるのは、身長190センチ、剛腕で、メジャー屈指のベテラン投手です。彼は、他チームから「魔球」と恐れられる落差の激しいカーブを中心に、切れのいいスプリット、フォーク、スライダー、ストレートと、数種類の威力のある球をもっています。マイナーリーグでの経験しか持たないルーキーが、このベテラン投手を相手にクリーンヒットを打つ確率は何％でしょうか。》今回寄せられた要望は、この野球の比喩で言えば、プロのベテラン投手が投げ込んできた豪速球に相当します。しかもそれは、強打者でもなかなか芯に当てては打てない「魔球」です。弊社を代表する私が、今回の「要望」、すなわち、時速160キロを超える高速で投げ込まれた「魔球」に勝負を挑んだとしましょう。そのとき、おそらくは1000分の1秒以下しかないわずかな打球チャンスに対して、私の腕と肩が間髪を入れず反応し、次に全身をしならせながら渾身の力でバットを振りぬく瞬間を想像してみて下さい。「要望」という名の剛速球を、目にもとまらぬ速さで投げ込まれたとき、私はどう反応したのでしょうか。そのとき、私の心は瞬間に沸騰し、疑念と不信が一挙に爆発し、あらぬ方向に弾き飛ばされ、虚空を舞ったかと思うと、何と、次の瞬間、まるで何事もなかったかのように、たった今回復したばかりの平常心の中に柔らかく無傷で受け止められていました。そして私を受け止めたのは「問い合わせ」の電話の向こうの力強い、ゆるぎなく落ち着いた声でした。その声には芯が一本通っており、よどみがなく、100％のコミットメント（commitment=責任感、もしくは使命感）が感じられました。現代のネット社会に見られがちな用心深い計算、冷やかし、揶揄、といった要素は皆無でした。D.一人一コマ40分、1000円の授業それで思い出すのは、これとは対照的な、およそ3年前のある出来事です。そのころ、オンラインの英語講座を始めたばかりの頃の弊社は、一人一コマ40分1,000円という破格の低料金を前面に出していました。それというのも、一クラス当たり８～３０人の集団授業を、毎学期、１０～２０コースほど走らせれば、オンライン教室として面目が立ち、経営も十分に成り立つと踏んでいたからです。市場調査もせず、そうなってほしいという無邪気な願望に凭れ掛かっていたのです。すると案の定、待てど暮らせど結果は出ず、1年余りで、用意していた資金も粗方使い果たし、当初は風船玉のようにパンパンに膨らんでいた思い上がりも、今では意気消沈して、すっかりしぼみ、独りよがりの理想は決して実を結ばないという鉄則を思い知らされた頃には、辺りは急速に視界不良となり、心は閉塞感に襲われ、かくなるうえは、例え一人と言えども受講希望者が現れたなら、採算を度外視してでも、同じ低料金で引き受けるほかはあるまいと、貧すれば鈍するの道理で、自暴自棄すれすれの、世にもひねくれた覚悟を固め、雨雲そのままの晴れやらぬ気分の中に、敢えて自らを閉ざしていました。すると、ちょうどそのタイミングを見計らったかのように、一人の社会人男性から電話がかかってきました。お宅は一人一回40分1,000円（+消費税）だそうだが、それは非常に安い。自分の英語力は中級くらいなので、そのレベルの授業をうけたい、とのことでした。英語中級の担当者は私だったので、「非常に安い」と言われたことにはさすがにムッとしましたが、商売第一と割り切り、当面の採算は考えず、一人一コマ40分1,000円(+消費税）の線を維持したまま、即決でその社会人の受講を承諾しました。ところがその方は、どこまで英語を学ぶことに意味、もしくは意義を見出しているのか、外からはうかがい知れないところがありました。というのも、メールを通じて受講を申し込むとき、何と偽名で応募してきました。第二に、授業（スクーリング）が始まっても、対面が前提のはずのzoomの授業に、顔を隠したまま出席し続けました。これらのことから、その方は、自分の個人情報の洩れることを異常なほど警戒していることがよく分かりました。第三に、事前に渡しておいたテキストはほとんど予習せず、余裕しゃくしゃく、お手並み拝見という感じの受講を続けました。ちなみにそのテキストはオバマ大統領が広島を訪問した際に行った演説でした。内容は、原爆投下を含む戦争の悲劇一般を、人類史という長期のスパンの中で繰り返されてきた国家的暴力という観点から、そのより巧妙になってゆく、また科学を応用した近代戦争の本質にせまり、それを避け、平和を探求することの必要、そこに至る道筋の模索、希望の在りかを簡潔にまとめた名演説だったと記憶しています。その英語の難易度のレベルは、弊社の基準では、英語中級、もしくは中級と上級との中間くらいです。一パラグラフづつ音読してもらい、数行づつ英文を和訳してもらい、発音の間違い、意味の取り方の間違いなどを正しながら、必要な補足説明を行うという類の極めて日本的な授業でした。一見、授業はごく順調に続きました。けれども、七回目が終わったところで、「もう結構です。」と言って、先方から受講中断の申し出があり、突然、授業は終わりました。一瞬、ある種の不快感と、何とも言えない解放感とが、混じり合って押し寄せてくる不思議な心境でした。授業の全体の印象は、自分の方が一方的に相手にもてあそばれていたような、良くも悪くも波風の立たない、英語で言えばlukewarm（＝ぬるま湯につかったように微温的）な授業でした。しかし、気に入らない商品がポンと返品されるのにも似た、興ざめな扱いをされ、頭の先からつま先まで、完膚なきまでに愚弄されたと感じた私は、下船しても残る船酔いを抱えた旅人、あるいは故郷喪失者のような心境になりました。E.一人一コマ40分、5000円で実施する完全オーダーメイド授業けれども、この愚弄は、ただの愚弄ではありませんでした。それは私にとって一種の洗礼であり、新しい人間としてこの世に生まれ変わるための儀式だったのかもしれません。今にして思えば、その社会人の方の終始一貫してふてぶてしい、人を小馬鹿にしたような態度や物腰は、そっくりそのまま、弊社のスタイルと方針の見事なほど正確な反映だったとしか思えないのです。いや、それだけではありません。個人を相手に、複数の人数のためにこそ用意された教材や教育手法を、そのまま、何の修正も補正もなく押しつけ、空疎で怠惰なマンネリ授業を提供しただけでした。聞く側にとっては新鮮味がなく、何を言いたいのか分からない授業だったに違いありません。突然の受講中断も、そのような授業に怒りをぶちまけたものと理解すれば、納得がいきます。しかし、ありがたかったのは、この反省は弊社にとって大きな幸運につながったことです。と言うのも、コロナで日本中が移動を厳しく制限され、代わりにテレワークやオンライン授業などが国を挙げて奨励される中、「個人の学び」を確保することの重要性に気付かされたからです。手痛い挫折体験から「目からウロコ」の学びを得た弊社は、授業提供のスタンスを見直し、ある広告会社の知恵を借りつつこれまでの方針を変更しました。グループ単位の授業ではなく、個人のニーズに的を絞った「完全オーダーメイド授業」を構想し、様々なオプションを揃えたオンライン授業としてのアイディアを具体化し、詳細をホームページに上げました。また授業料も、一コマ（40分）5,000円（＋消費税）としました。そして、学びを提供する側とそれを受け取る側との間で合意（＝商談）が成立すれば、受講者は10回分の授業料を前納する（希望により更新可）こととしました。この大転換は、「人情に厚く、小回りの利く少数精鋭主義」に徹した弊社の強み（＝弊社のasset＝経営資源）に弊社自身が気付き、それを生かし切る授業の提供に乗り出した記念すべき出発点でした。そして今回、メールで相談を寄せられた方は、この新システムを受け入れ、弊社の定めたルールや条件をすべて了解された上で、先ほど紹介したような、一見、変則的な要望を寄せられたのでした。ちなみに、話がまとまった段階で、授業料も早々と前納されました。それは、皆様もお分かりのように、受講者側からの、弊社が魂を込めて打ち出した新方針、「完全オーダーメイド授業」への、本気の挑戦状でもあったのです。（もし弊社が、受講者の期待を裏切る旧態然とした悪しき授業しかできなければ、彼ら、彼女らは、その悪しき授業を、途中でもかまわずに投げ出し、二度と戻ってくることはないでしょう。）F.ネイティブの英語講師との交渉さて、弊社に在籍しているネイティブの英語講師は、元来、英会話の中級および上級クラスの担当でした。そこで、この件を持ち出すと、それでは約束が違います、と強い口調で断られました。実は、その講師は、これまで沢山の日本人学生を、日本国内、またオーストラリアの大学の集中コース等で、教えられた経験があり、彼らになら、何を話しても大抵は理解してもらえるとの自信を持っておられたのです。ところが、今度の受講希望者は、英語が全くできない社会人なので、そのような人に英語の基礎を教えた経験がなく、どうしてよいかわからない、ということでした。理屈はもちろん通っています。言い分も、いちいち、もっともです。しかし、私の正直な気持ちとしては、もし英語ができないとおっしゃる社会人が、それでも本気で英語を学びたいのなら、弊社のオンライン英語講座でこそ、しっかりと学んでもらいたい、と思いました。それに、私に相談された方は、何故か、かたくななまでに、英語ネイティブの講師の授業にこだわっておられました。それがなぜなのかは、あえて尋ねませんでした。ただ、私としては、ただひたすら、まるでわがことのように熱心にお願いしました。勿論、その間、論理的な質問には論理的に答えました。例えば英語が全くできない人には教えようがない、という主張には、「〇〇さんは全く英語ができない」と言われている人でも、日本人であれば、ある程度までは英語ができる、ということを指摘しました。また、授業料をいくらに設定してあるのか、という質問にも、以前は一人一コマ40分1000円（+消費税）だったが、現在は、一人一コマ40分5000円(+消費税）であること、今回は二人なので、一人一コマ40分4000円(+消費税）に値下げし、二人分の授業料は、一コマ40分8000円(+消費税）であることを告げました。また、学習意欲の見積もりについては、今回の申し込みは冷やかしではない、申込まれた方は極めてまじめである（deadserious）、とも告げました。G.私も参加する英語初級者のための授業議論が一通り終わった後、その講師はおもむろに、これは自分にとっても挑戦かもしれない、などと小声でつぶやいた後、しっかりした声で、「それでは何とかやってみます。しかし、慣れるまでは不安もあるので、念のためにあなたにも授業に参加してもらいたい」と言われました。有体に言えば、間尺に合わないanomalousな要請には、同じく、間尺をへし折ったanomalousな要請で答えた、というところでしょうか。要望を呑む条件として、私の参加を要請されたのは、共同責任という名の保険だったのかもしれません。私も講師にすべての責任を押し付けて逃げる気など、さらさらありませんでした。それは信義にもとる行為であり、人間関係を根本から壊す行為です。しかしそれよりも何よりも、せっかく話がここまで進み、学習希望者の「要望」を真正面から受け止めた完全オーダーメイドの授業が果たして約束通り実を結ぶのかどうかを、自分の目で見届けたいという思いが、どこからともなく、むくむくと湧いてきました。そしてそこに、受講希望者と講師との出会いを取り持った私の責任、併せて、火中の栗を拾うような講師の勇気ある行動へのエール、といった要素も手伝って、降って湧いたような国際遠隔授業へのオブザーバー参加の要請を、私は快く引き受けることにしました。授業は二週間に一度のペースで今年（令和5年）の5月にスタートしました。ところが、本人も予想しなかったことですが、英語初級の方の仕事が4月を境に急に忙しくなり、直前のキャンセルや、当分は参加の見通しが立たないといったことが重なり、まだ三回しか授業が進んでいません。しかし、私としては、オブザーバーで参加させてもらっている間に、いくつか目新しい発見をしました。それが今回、オーストラリア式英語発音教育の存在理由と、それが日本の英語教育にもたらしうる可能性について考えてみたくなった理由です。G.英語初心者のイメージの違い講師との話し合いの中でハッと気づいたことが一つありました。それは、ネイティブの英語講師が常識として持っている英語初心者のイメージと私たち日本人が抱く英語初心者のイメージの明白な乖離です。私たちの心に浮かぶ英語初心者と言えば、十中八九、英語学習の初歩で躓いた人、すなわち、日本の義務教育の一環として日本人の全てが学ぶ中学英語の成績が芳しくなく、その後も英語への苦手意識を引きずっている人のことです。一言で言えば、学校で英語を学び損ねた人のことですが、それは、裏を返せば、英語初心者と言っても、中学1年で学ぶ文、例えば、Thisisapen.とか、Howareyouとか、Howdoyoudoが全く発音できなかったり、意味が理解できなかったりする、などと言うことは考えられない、と言うことです。彼らは関係代名詞も五文型も知っています。名詞も動詞も知っています。動詞の過去形も、現在進行形も、現在完了形すら、人によってはよく知っています。単語にしても1000～2000語くらいは十分頭に入っています。ところが、今回私が、英語ネイティブの講師に、英語初心者への授業をお願いして断られた表向きの理由の他に、もう一つ大きな理由があり、それは、英語ネイティブの講師にとっての英語初心者は、文字通り英語ができない人だったからでした。「えっ？待ってください。初歩の英語って、一番易しい英語のことでしょう？そんな易しい英語を、なぜネイティブの英語講師（ともあろう人）が教えられないの？」と、いぶかしく思うのは日本人だけです。実際には、英語が全くできない人が本当にいた場合、その人に英語を教えるのは、英語ネイティブの講師にとっては、中級や上級の人に英語を教えるよりもはるかに難しいのです。彼らにとっての英語初心者は、英語を一言も理解できず、一語も発音できず、アルファベットの一文字も書けない人のことでした。まるで赤ん坊さながらに、英語の単語を一つも知らず、一語も聞き分けられず、また発音することもままならない人に、英語ネイティブの講師が、英語を全くの初歩から教える場面を考えて見て下さい。まず第一に、説明に使う英語自体、全く相手に通じません。次に、アルファベットを教える際にも、最初の文字aから、順に一個一個、綴りや発音を教えなければならず、単語の読み方にしてもーーその理由はこの後すぐに詳しく説明しますがーーそれを正しく読めるように教えるには、途方もない量の資料を揃えて臨む必要があります。それが、実際には、どれほどの量か、初級英会話の授業を頼んだ私自身、ほとんど考えてもみませんでした。しかし、実際に、オブザーバーで授業に参加してみて、その負担の重さを、講師によって用意されたパワーポイントの資料の多さから、ひしひしと感じることができました。我が不明を恥じると同時に、準備の周到さに驚愕し、オーストラリア式英語発音教育の底力を見せつけられたように感じました。講師は、英語の初心者にとって、決して一筋縄ではいかない、英語発音の不規則性を、見て見ぬふりをするのではなく、真正面から受け止め、ご自身、幼少期に受けられたはずの西洋流英語教育の知見をベースに、英語発音の規則を、例外の束とセットにして、「スペリングと発音の関係」という観点から、的確かつ詳細に、説明されたのです。H.スペリングと発音の関係を考えることの意味「スペリングと発音の関係」だって？それ、何のこと？と思っていらっしゃる方はいらっしゃいませんか。それは次のようなことです。つい今しがた述べたように、英語ネイティブの人たちにとっての英語の初心者は、赤ん坊にも似て、アルファベットの発音の仕方を全く知らない人のことです。ですから講師は、色々な単語を例として提示しながら、それらの読み方を示し、その読み方が条件によって異なることをめぐる法則性、すなわち、同一のアルファベットの、条件次第で異なる読み方の例を、システマティックに解説されたのです。でも、「条件次第で異なる読み方」って、一体、何のことでしょう？耳慣れない言葉ですね。英語は、日本語の五十音に相当するアルファベット26文字の読み方の全てを覚えれば、原則的には、書かれた英語は全て声に出して正しく読めるのですが、実は、そこに若干、含みがあるのです。日本語と異なって、英語は、語を構成する際のアルファベットの読み方（発音の仕方）に例外が多く、実際問題として、アルファベットの例外的発音への、多岐にわたる膨大な予備知識がなければ、ほとんどの単語は正確には読めないのです。例えば、アルファベットのcは、cityやciteやpaceでは/s/と発音されますが、cloudやcookやbasicの場合は/k/と発音されます。また、specialでは、おなじcでも、//と発音されます。また、日本語の「ア」「エ」「イ」「オ」「ウ」に対応する五個のアルファベット、すなわち、a,e,i,o,uは、それ自体では、決まった発音を持たず、それぞれ複数の可能性の中で存在しています。例えば、aを取り上げるならば、makeのaは/ei/と発音されますが、madのaは//と発音され、smallのaは/:/と発音されます。一般にどの言語においても、所与の単語は、それ以外の全ての単語と、互いにスペリング（＝個々の単語を構成する、アルファベットの弁別的組み合わせ）が異なることで、発音・意味・文法的役割が、それぞれ他から区別され、そのことによって、各々が、所与の言語の欠くことのできない構成要素として、コミュニケーション上不可欠の機能を、他の諸々の単語それと連携しつつ、遺憾なく発揮し、そのことによって、その言語を使用する人々の日々の生活を支えています。ところが、英語においては、先ほど挙げた五個の母音に対応する五個のアルファベットの任意の一個を内包する単語が、それと同一のアルファベットを内包する別の単語に置き換わるごとに、その同一のアルファベットは、単語を弁別するための異なる子音の組み合わせに遭遇します。するとそのとき、そのアルファベットは、それらの特定の子音の組み合わせに反応して、それまで可能性として存在していた複数の発音の中から、ある一個の発音が選ばれ、実体化する仕組みになっています。したがって、日本人の目から見れば、英語の母音の発音は、その母音を取り巻く子音の組み合わせが別の子音の組み合わせに取って代わられるごとに、言い換えれば、単語が別の単語に置き換わるごとに、くるくると猫の目のように変わるのです。日本語の五十音の場合のように、音と文字とが、アプリオリに、一対一の対応をし、独立的、かつ固定的に発音を決定するわけではありません。では、英語に潜む発音の端倪すべからざる変幻性を規律的に支配する原理はないのかと言えば、決してそうではありません。ただ、無数の断片のように存在するそれらの規則を、網羅的に一覧表としてまとめるのは、元来、至難の業です。I.スペリングから発音を導くための変換規則：フォニックスの発明しかし、英語圏では、昔からスペリングと発音の間の関係が詳しく追及され、ついに、それらを集大成した対応一覧である、英語発音指導システム、すなわちフォニックスが開発されました。かくして、英語ネイティブによる英語ネィティブの子供たちへの発音指導、すなわち、英語のアルファベットの正しい読み方の指導が、英語特有のスペリング特性、すなわち、英語に特有の、アルファベットの配列特性に配慮しつつ、単語別に、あるいは、単語グループ別に、教えられるようになったのです。そして、その結果、何が起こったでしょうか。英語圏では、正しい発音が、正しいスペリングを、かなりの精度で、自動的に、推測させるまでになったのです。スペリングと発音の関係を、整合的に説明する暗号が、事実上、全て解けた状態にあると言っても同じことです。英語にも同音異義語が一定量存在しますが、全体から見れば、その分量は微々たるものです。J.日本になぜ同音異義語が多いのか？しかし、発音を整理して、漢音にはあった四声を受け継がなかった日本語流の漢字の読み方は、日本式発音の規則に合わせて簡易化され、平板になりました。日本人にとって、漢字は、極めて読みやすくはなりましたが、四声を無視したため、無数の同音異義語を抱えることになりました。日本語では、このため、コミュニケーションの成立を陰で支える、個人の膨大な量の経験値と言語的記憶を瞬時に検索することなしに、言い換えれば、人間の言語・情動・判断にかかわる総合的、もしくは統合的な判断を支える「文脈」を参照することなしに所与の発音を特定の文字に結び付けることは、極めて困難になったのです。例えば、「サンセイ」という音に対応する漢字を取り上げても、「賛成」「酸性」「三省」「三世」「参政」などがあって、「文脈」への参照なしでは全くお手挙げです。さて、ここまで読んでこられた方は、それにしても、英語圏ではなぜそこまで英語発音が複雑で、マスターするのが難しいの？日本では、簡単ないくつかの英語は誰でも知っており、みんなそれらを正しく発音することができるのに？と思っていらっしゃいませんか。でも、そこには、日本人が英語を学習するにあたって、よほど注意しなければならない事柄、さらに言えば、日本人が国際的な場面で、英語を使って外国人と対等に交わることのできる、並み外れた英語力を身に付けようとするとき、死活的に重大な問題が潜んでいるのです。でも、その話に移る前に、英語の四技能に関する常識を一つおさらいしておきましょう。K.英語発音を学ぶことの重要性についてご承知のように、英語の半分はスピーキングとリスニングであり、残りの半分はリーディングとライティングです。英語の運用に関するこの四つの側面を、私たちは、英語の四技能と呼んでいます。ところで、日本人にとっての英会話は、英語の四技能のうちの、前の半分を指します。しかし、一般に「英語」と言えば、最初の半分に加えて、後者の半分も含みます。そして、学習者は多くの語のスペリングを覚え、それらのスペリングを正しい発音で声に出して読むことができなければなりません。言い換えれば、単語の発音が正しく人に通じるよう、正しく発声されなくてはなりません。つまり正しい発音を学ばなければ、英語学習者は、決して英語を学んだことにはなりません。でも、教室で、先生が正しい英語の発音を日本人に教えるのは、一般に日本で考えられている以上に、難しい準備が必要なのです。この事実を事実として、しっかり把握したとき、私たちは、改めて、オーストラリア式英語発音教育の意味とその可能性というテーマが、十分考察に値するテーマとして、しっかり意識され始めます。ですから、まず、日本における英語発音教育の問題点をおさらいしておきましょう。L.日本における英語発音教育の問題点英語発音の難しさ：スペリング通りには発音できない英語発音の難しさは私たち日本人の間で、とっくに常識になっています。このテーマは、英語文法の必要性、並びに難解さと、セットになっており、特に戦後、アメリカ英語がどっと日本に入ってきて以来、日本人の脳裏に深く刻まれて今日に至っています。そこで、まず簡単に振り返っておきたいのは、ここ10年ほどの間に文部科学省が主導して全国に普及させた、小学校や中学校へのALT（AssistantLanguageTeacher=語学指導助手）の派遣事業です。当初、ALTに期待されていた役割は、英語の発音教育に限ったものではありませんでした。彼らには、英語で話す練習、リスニング力の強化、異文化理解の普及と増進、などが期待されてきました。ただ、英語発音を正しく学ぶことの重要性は、近年、日本人の間でますます理解が進み、今では、ALTの先生方に期待される達成目標のうち、決して小さくはない部分が、生徒たちの英語発音の抜本的改善、もっと言えば、日本人的発音の矯正です。そして、勿論、日本人の英語発音の矯正は、日本人の英語コミュニケーション能力の飛躍的向上に直結しており、このことの重要性を正しく評価し、理解できる大人たちの数も着実に増えてきています。ところで、英語ネイティブを含むALTの全般的な英語運用能力は、日本人のそれをはるかに超えているので、まず、申し分ありません。しかし、日本人がなぜ英語の発音を苦手とするのか、日本語を学んだことのない人には、その原因まではよく分かりません。彼らは教室で初めて生徒たちと対面したとき、日本語的発音の影響を色濃く残した「リズムのない変てこな」英語を耳にして、「これはひどい、これでは可哀そうだ、何とかしてあげたい。」と思っても、「でも、私はどこから手を付ければよいの？」ということになります。そこで、つい、「私の後について、大きな声で言ってみましょう」という、古典的な復誦方式の指導法に逃げてしまいます。勿論、これはこれでオーソドックスな良い方法ですが、日本人を相手にする場合は、もっとかゆいところに手の届く、きめ細かい指導があってしかるべきなのです。しかし、さすがのALTにもそこまでは期待できないとなると、せっかく文部科学省に肝いりで全国の都道府県に補助金を配り、日本人の英語発音の矯正に向けて、満を持して実施したALT派遣事業も、残念ながら、大方の期待を裏切ってしまう可能性が高いのです。では、日本の公的機関から「義務教育」の一環として、少なくとも中学の3年間、「学校英語」を学ぶことを期待されている私たちは、一体どうすればよいのでしょうか。私たちの行く手を阻むこの一大障害を取り除き、この国民的隘路から私たちを救ってくれる起死回生の一手は、果たしてこの世に存在するのでしょうか。M.しかるべき日本人から英語発音を学びなおすことの重要性私の処方箋は、簡単明瞭です。「今さら何、それ？そんな馬鹿な！」と思われるかもしれませんが、ほかの誰からでもなく、「しかるべき日本人から、英語発音を学び直す」ことです。灯台下暗しです。勿論、確かに、英語発音を学ぶことの超が付くほどの難しさに加えて、英語発音を何とかマスターした日本人の超が付くほど少ない事実は、私の提案の実行可能性の半端でない少なさを指示しています。ただ、少数とは言っても、英語発音を完全にマスターした日本人は、皆さんもよくご承知のように、決して一人や二人ではありません。本気で探せば、必ず、何十人、何百人と見つかります。それだけではありません。日本人でありながら、見事に英語発音をマスターした人なら、日本人にとっての英語発音の難しさの原因、並びにその対処法を、母語である日本語の特徴を踏まえ、正確に割り出すことができます。そこで、ネイティブの英語発音と平均的な日本人の英語発音との差を、細部まで知りつくしたうえで、そのギャップを埋める厳しい訓練を自らに課し、結果的に、英語ネイティブの発音と比べてもそれほど遜色のないレベルにまで達した人が、もし一人でも見つかれば、私たちはその人に、全幅の信頼を置きつつ、日本人への英語発音教育を任せるのが極めて妥当ではないのかと、申し上げているのです。そのような人なら、日本人の発音を徹底して矯正することが可能です。しかるべき英語発音訓練所を設けるなどして、制度化し、希望者にしかるべき訓練を施せば、目を瞠るような成果を上げることも夢ではありません。そこを巣立った人たちの一定数が次の世代の希望者を教えていけば、10年、20年と経つうちに、卒業者が幾何級数的に増えることで、英語上級者が日本に数多く輩出することになります。最終的に、都道府県単位で制度化していけば、留学に頼らなくとも、こと英語教育に関しては、極めて安価に、かつ効率よく成果を上げることが可能になるはずです。N.見過ごされてきた英語発音教育不在の日本の英語教育でも、これまで150年もの間、ある種の既成概念に取り込まれ、ぬるま湯につかり続けて来た多くの日本人にとって、これは唐突かつ突飛な考え方でしかなく、「おとぎ話」の類としか聞こえないかもしれません。そこで、一旦頭を少し冷やすために、各々、自分に向かって静かに次の質問をしてみましょう。「それでは、私自身は、日本人の英語発音への、極度の苦手意識が、一体どうして生まれたのか、その由来と現状と解決策を、論理的に分かりやすく人に開陳することができるだろうか？」と。もうお分かりだとおもいます。このテーマは、日本人がこれまで自らに問いかけることを意識的に避けてきた問であり、タブーとして、長いあいだ真の解決が持ち越されてきた民族的懸案なのです。この問を自身に向かって発し続ける勇気のない人は、その場で思考停止に陥り、解決を他者にゆだね、安全地帯に逃れます。これが「逃げ」でなくして何でしょう。となると、この問題は、私たち日本人にとって見かけよりもずっと重く、その解決は、さらに一層むずかしいのです。これは、これまで長いいあいだ、日本人の意識の片隅に、ひっそりと存在し続けてきたのですが、いま改めて真正面から取り上げるとき、多くの方が、「なるほど、あまり簡単な話ではなかったのですね。」と、このテーマを追求することの必然と正統性が、1０0年以上の年月を経て、いまやっと腑に落ち、心から納得されるはずです。O.巨大な文化の壁として日本人の行く手に立ちはだかる英語発音結論的に言いますと、日本人にとって、その矯正を含めた、改善課題としての「英語発音」の問題は、日本文化の中心に位置し、その精華ともいうべき日本語、そして日本人の心そのものでもある日本文化の、ほの暗い無意識のレベルにまで達する、鋭い問いかけを含んでいるのです。その証拠に、今でも、平均的な日本人は、「英語の発音」と聞いただけで、冷静になるどころか、逆に、頭に血が上り、困惑の極みに達した後、吐き捨てるように、こう言うはずです。「いやもう、あの立て板に水の、それはそれは滑らかで、流暢この上ない、あの英語のリズムでしょう？それに、日本語とは似ても似つかない色合いを持つ、あの高速の英語発音！とくれば、私などとても無理。逆立ちしても、真似なんかできませんよ。」あるいは、「英語って、ほら、あれよ、リスニング（聞き取り）の難しさ！こ・れ・が一番の問題なんだよねー。」などと、半ばはにかみ、半ば悔しそうな、ため息にも似た一言が聞こえてきそうです。つまり、日本人は「英語をしゃべることは超が付くほど難しく、ことに、リスニングの難しさにも直結している英語の発音は、どうあがいても、合格点がもらえるレベルにまでは学びきれるものではない。」と極めて悲観的に、というよりも、絶望的に、感じているのです。この自虐性の、しかし、妙にきっぱりとした口調は、「頼むから、日本人の英語発音に対する苦手意識の由来を、底の底まで探ってくれ」とでも、呟いているように響きます。日本人がすでに直感的に感じ取っているのは、日本語と英語の間にはっきりと存在する、海のように深く、想像を絶するスケールを持った文化の溝なのです。この溝を埋めるには、少しばかり手間がかかります。が、まず必要なのは、前段階としての、正しい現状分析と評価です。P.日本人に英語発音の学習を難しくさせている二要因少し冷静になって考えれば誰にでもわかることですが、日本人が英語の発音を難しいと感じる理由は、二つあります。一つは、英語のスペリングと英語の発音の間に見られる、質（たち）の悪い不整合です。そしてもう一つの理由は、日本語には無くて英語にはある発音、加えて、多くの点で日本語とは逆のベクトルを持つというほかはない、英語特有のイントネーションの存在です。この後者の理由は、英会話学校などでは重点的に教えられているので、多くの方が既によくご存じです。問題意識の共有は比較的簡単だと言えますが、後者のポイントは、日本の英語教育ではあまり強調されることはなく、問題意識の共有がほとんどなされていません。したがって、ここでの議論は、ひとまず、前者の理由に集中します。Q.英単語をスペリング通りに発音できなくさせた英国の歴史英語のスペリングと英語の発音の間に見られる質の悪い不整合とは何かと言えば、日本人の英語初心者が、知らない英語の単語を見たとき、その単語のスペリングを見て予想する発音と、実際に英語母語話者によって発音される音との間には、相当に大きなずれがあるということです。それは、主として、英国が多年にわたってデーン人、ケルト人、アングロサクソン人など、多くの民族の侵入を許し、最後に、1000年近く前にノルマン人の侵攻を許し、以来数百年にわたって言語的弾圧を受けた、過去の歴史の結果であるとはいえ、今や世界中の英語学習初心者に、甚大な影響を与え、彼らに、英語文の音読（readingofEnglishtextsaloud）を著しく難しい課題に変えてしまったのです。いくつかの例を見ていただくとお分かりいただけることですが、基本英単語についての、英語学習未経験者の発音予想は、ほぼ確実に外れます。例えば、tableはローマ字式に発音すれば、「ターブレ」となるはずですが、実際の発音は「テイブ（ル）」です。また、youはローマ字式に発音すれば「ヨウ」ですが、実際の発音は「ユー」であり、同様に、knifeは「クニッフェ」ではなく、「ナイフ」です。他にも、haveは「ハベ」ではなく、「ハブ」であり、paperも「パペル」ではなく「ペイパー」であり、areは「アレ」ではなく、「アー」であり、orangeは「オランゲ」ではなく「オリンジ」であり、lineは「リネ」ではなく、「ライン」です。また、lionは「リオン」ではなく「ライオン」であり、toは「トー」ではなく「トゥー」であり、forは「フォル」ではなく「フォー」です。R.ローマ字の知識が暴く英語発音の不可解さところで、今当たり前のように「ローマ字式」と言う言葉を使いましたが、私たち日本人は、英語を学び始める直前に、小学校でローマ字を学習します。ローマ字は、英語に使われるアルファベット26文字と同じ文字です。面白いのは、このローマ字を使って、日本人が知っている大抵の日本語を表音的に記述することが可能だということです。そして実際、学校では、自分の名前をローマ字で書く訓練を受けます。ローマ字の名前はパスポート、各種のカード、申請書、などにもよく使われます。また、鉄道の駅の名称、道路標識などにも、その正しい読み方を伝えるために使われるため、ローマ字の知識は事実上不可欠です。しかし、何という不運でしょう。このローマ字の知識が、学校で私たち日本人が英語を学ぶときには邪魔になるのです。上に見たように、ローマ字式の読み方が、英語には全く通じないというだけでなく、日本人は、ローマ字の知識があるばっかりに、英語の発音を一層、間違えやすくなるのです。例えば、homeはローマ字の知識があれば、「ホメ」と発音したくなります。けれども、正しい発音はご承知のように「ホーム」です。同様に、rainは「ライン」と発音したくなります。しかし、実際の発音は「レイン」です。また、boatは「ボアト」と発音したくなりますが、実際の発音はご存じのように「ボウト」です。このように、日常よく使われている英単語のスペリングが、ローマ字を知っている人に予測させる発音と、実際にネイティブの英語話者たちが発している音との間に、顕著な不整合が幾つも見つかるにもかかわらず、私たち日本人は、本来なら由々しき問題であるはずの、英語発音の予測不可能性を、全く問題にしません。99％以上の日本人は、多分、能天気にもほどがありますが、「英語は所詮、外国語であって、多くの単語の発音予測が、現実にどれだけ外れても、そんなことは想定の範囲内です。」と言わんばかりに、一切を、諦めてかかっています。しかし、世界の多くの言語の中において、英語を眺めるならば、英語発音の予測不能性の異様な高さは、隠れようもないほど、くっきりと浮き彫りになります。それは他の言語ではあまり目立たない現象であり、英語こそが、例外中の例外なのです。ということは、それとは真逆に、日本語の発音の驚くべき整合性、例外を許さない鉄壁のルールは、むしろ自慢してもよいくらいであり、世界の言語の常識から言えば、日本語は正に優等生であり、英語に比べてはるかに健全であり、模範的にまともなのです。日本語には、英語と同様に、無数の語が存在しますが、一語の例外もなく、平仮名、もしくは片仮名を使うことで、その読み方を、日本語式にではありますが、正確に記述することができます。日本語は、五十音順に語が配列されている国語辞典、もしくは、漢字の読み方が必ず平仮名で示されている漢和辞典を引くことで、日本語の初級学習者でさえ、どんな語、あるいは語句であっても、直ちにそれらを正しく発音することができます。平仮名（あるいは片仮名）は、任意の一語を構成する要素、すなわち、語の一部になり得ると同時に、漢字や外来語や難しい人名や地名の読み方まで、簡単明瞭に表示することができる、極めて便利な発音記号としての機能をも持っているからです。そして、実際、辞書や各種の辞典類を始め、パスポート、身分証、各種申請書、処方箋、その他、多くの場面で、人々に漢字の正しい読み方を教える、重要で便利な発音記号として使われ、私たちの生活を支えています。ところが英語には、そのような便利な符丁は存在しません。S.ローマ字式発音に近いヨーロッパの英語以外の諸言語このように、英語では、tableを始め、多くの英語の単語において観察される、スペリングと発音との間の大幅な隔たり、もしくはずれは、日本語には全く見られないのですが、同じように、ヨーロッパの他の言語、特にラテン系の言語においても、実は、ほとんど見られません。例えば、ドイツ語で「今日は！」に相当する挨拶はご承知のようにGutentag.です。これは、ローマ字式に「グーテンターク」と発音すればよいのです。気をつけたいのは、gの発音くらいで、「グ」ではなく「ク」と発音します。また、フランス語の「今日は！」は、Bonjour.です。ほぼローマ字式に「ボンジュール」と発音すれば十分通じます。気を付けたいのはjourのouは「オウ」ではなく「ウ」もしくは「ウー」です。私の知る限り、フランス語のouは、例えばoui（「ウイ」と発音し、英語のyesに相当する）のように、鋭く短く「ウ」と言うか、「ウー」と鋭くやや長めに発音されます。では英語の「今日は！」はどうでしょうか。Gutentag.やBonjour.に相当する英語は、Goodday.です。発音は英国式でも、米国式でも、「グッデイ」です。挨拶として日常的にこの言葉を多用するのはオーストラリア人だけですが、Gooddayは「良い一日を（祈ります）」という意味を、ドイツ語やフランス語と共有しているので、発音の偏りを調べるのには適しています。そこで、Gooddayをローマ字式に発音するとどうなるでしょうか。「ゴオードダイ」となるはずです。いかがですか。「グッデイ」とは大きく異なることがお分かりでしょう。オーストラリア人は「グダーイ」と発音しますから、英国人や米国人の「グッデイ」よりはましかもしれませんが、それでも「ゴードダイ」との隔たりは歴然としています。どうしてこんなことになるのでしょうか。T.英語単語に多いスペリングと発音の間の不整合少し細かく見ていきまと、まず、dayのayは「アイ」ではなく、「エイ」と発音します。他の例を挙げれば、「支払う」のpayは「ペイ」、「言う」のsayは「セイ」と発音します。そんなのは当たり前じゃないか、と思われましたか。では逆に、お尋ねします。「エイ」と発音するのはayだけでしょうか。もしそうなら、ayは「エイ」と発音する、と覚えておけば、それ以上に問題は複雑化しません。フランス語のouは「ウ」もしくは「ウー」と発音する、と覚えておけばまずは一安心でした。ところが英語ではそうはいきません。「エイ」と発音するスペリングは他にもあるのです。例えば、aid（＝「援助」）のaiも、they（＝「彼ら」）のeyも、bob-sleigh（＝ウインタースポーツの「ボブスレー」）のeighも、「エイ」と発音します。また、cakeのaも「エイ」です。いかがですか。ここまで「エイ」の発音を共有する異なるスペリングが複数個存在するとなると、スペリングと発音の間の対応原則が少なからず揺らいできます。特定の発音をめぐって、対応するスペリングの特定ができない事例が存在するのは由々しき事態です。スペリングに紐づけられているはずの英語発音には、説明のつかない気まぐれな例外が多数存在するのではないか、という疑問が残るからです。分析をさらに進めましょう。goodのooは、ご承知のように、短めに緩く「ウ」と発音しますが、spoonのooは鋭く長めに「ウー」と発音します。moonもしっかり長めに「ムーン」と発音しますし、coolも同様に「クール」です。ところが、日本人はコックと呼んでいる「料理人」を意味するcookは「クック」と発音します。cookのooは短めに緩く「ウ」と発音することが分かります。また、「見る」の意味を持つlookも「ルック」であり、「足」のfootも「フット」です。しかし、「食べ物」のfoodは「フード」です。「フッド」ではありません。一方、「頭巾」のhoodは、日本語ではフードと言いますが、英語での正しい発音は「フッド」です。下手な未来予測に似ていませんか。それとも、丁半のサイコロ賭博に似ていますか。このように、英語の発音は、キツネとタヌキの化かし合いに似て、摩訶不思議であり、一見したところ、どこまで行っても正体が見えないのが現実です。このような英語に付き合わされる日本人としては、さすがにもう、憮然たる思いになります。でも、ひょっとしたら、例外の多い英文法に似て、全体的にはそれなりに筋が通っている、ということかもしれません。そこで、念のために、もう少し視野を広げるために、全く別の語に当たってみましょう。例えば、「豆」を意味するpea、「平和」を意味するpeaceに共通の要素であるeaは、ご承知のように、鋭く長めに「イー」と発音しますが、それではeaはいつでも「イー」と発音するのでしょうか。もしそうなら、話は簡単です。ところが、「頭」を意味するhead、「牧場」を意味するmeadow、「物差し」を意味するmeasure、「皮」を意味するleatherなどに共通するeaは、短く緩めに、「エ」と発音します。一方、「離れる」という意味のleaveや「指導者」を意味するleader、「葉っぱ」を意味するleaf、また「読む」を意味するreadに共通に含まれるeaは、「イー」と、鋭く長く発音します。また、leapは「跳ぶ」という意味の自動詞で、発音は鋭く長い「イー」を含む「リープ」ですが、その過去形と過去分詞は、いずれもleapt（米語ではleapedが一般的。発音は「リィープト」もしくは「レプト」。）で、発音は「レプト」です。ここではeaは、明らかに、短く緩く「エ」と発音します。また、「読む」という意味の動詞readの現在形はreadで、発音は「リード」ですから、そこに含まれるeaは鋭く長い「イー」ですが、その過去形と過去分詞は、形こそ同じreadですが、発音は、短く緩い「エ」を含む「レッド」です。いかがですか。ここでもまた、学習者をあざ笑うような、説明しがたい不規則性が露呈しています。では、私たちは、これまで多くの実例を見てきた、複雑骨折を思わせる英語のスペリングとその発音の間の謎に包まれた一連の不整合を、一挙に、総体として説明してくれる何らかの複雑精妙な計算式ーーもしそれがあるとしてーーを見つけることができるのでしょうか。U.発音教育を完全に放棄してきた日本式英語教育しかし、その前に、日本の教育の現場で、この問題に関して取られてきた「現実的」な対応策をおさらいしておきましょう。日本の中学・高校における戦後の英語教育では、日常よく使われる1000～1500くらいの単語を第一段階として、次に3000～5000くらいの単語を第二段階として、そのスペリングと発音と意味をひたすら丸暗記させ、高校入試、大学入試の厳しい関門を潜り抜けさせようとしてきました。これは、エリートたち、親の期待を一身に背負う全国の受験秀才には、ひょっとしたら、なんら問題のない方法かもしれません。彼らは学校や塾の教師に、入試を突破するまでのわずか数年の辛抱だからと、呪文のように言い聞かせられ、ひたすら、膨大な数の単語の意味と発音を暗記します。しかし、平均的な日本人の場合はどうなるのでしょうか。例えば、海外で売られているベストセラーの一冊をたまたま買って読んでいたとしましょう。教科書で習ったことのない、見知らぬ単語が次々に出てきたら、彼らはどうするでしょう。スペリング通りに発音すると危ないかも、と思いつつ、とりあえず何らかの発音をするかもしれません。何しろ、発音の伴わない語は存在しないのですから。でも、もうお分かりのように、当てずっぽうで英単語を正しく発音できる確率は極めて低いのです。見知らぬ単語を、我流発音で覚える悪い癖がついた人の人生は、譬えが悪すぎるかもしれませんが、まるで車の無免許運転者並みに悲惨なものになるでしょう。これが国民の大多数に及ぶとなると、想像するだに恐ろしく、断じて許容しがたい事態です。日本の英語教育に、このような盲点があることを天下に晒すことになりかねません。単語を覚えれば覚えるほど、その人の英語が海外で幾何級数的に通じにくくなるとしたら、背筋が凍る悪夢です。そもそも、これがすでに現実でないと、誰が言いきれるでしょう。V.発音記号を教えることによる英語発音教育の実践についてでは、この悪夢を遠ざけるにはどうすればよいのでしょうか。私たちに必要なのは、前途有為の若者が、英語の発音に正面から取り組み、堂々と正攻法でマスターする方法です。私の知る限り、無数の地雷の仕掛けられた戦場にも似た、英語発音の無法地帯を、無傷で、安全に、走り抜ける方法が、たった一つあります。それは、発音記号を用い、合理的、実践的に、英語の発音を教える方法です。これは、私が、自分の責任において、普通、日本の学校では絶対そうしないことを承知しながら、これまで敢えて採用してきた教育手段です。学生諸君は、ほぼ例外なく、学校現場で携行が求められる英和辞典には、必ず発音記号が使われていること、そして、それぞれの発音記号に対応する発音を正しい方法で個別にきちんと習得しさえすれば、どんな英単語語でも正確に発音できることをすでに知っています。私はこの事実に目を付けたのです。では、私は一体どんなふうに教えたのでしょうか。実際の授業風景を分かりやすく端折って再現してみましょう。私は、具体的な単語を例に出して、自分で発音してみせ、その発音を各自、自分の耳で聞いてもらいます。悪びれることもなく、自信をもって自分の発音を聞かせる教師は、学校にも自分の周囲にも、一人もいないので、彼らは最初、あっけにとられ、びっくりしますが、同時に、興味津々で聞いています。やがて、彼らの短い「試し聞き」の時間が経過すると、私の発音が、意外にも、正確であるとの認識が、天から授かった自分の聴覚を通じて、心の奥深くまで、浸透していきます。次に私は、その単語に含まれる難しい発音を個別に取り出し、それに対応する発音記号を板書します。その記号が表す音の特色を続いて説明し、その音を出す方法を具体的に教えます。次いで、銘々、自分でその音を出してもらいます。その後、私は、各自、できるだけ多くの時間を割いて、帰宅後も、英語の発音の練習に励むことを勧めます。彼らは総じて熱心に学びました。破裂音の実演を交えた練習では、クラス全体が爆笑して笑い転げる場面がありました。クラスの全体が爆笑したのは、何だそんな風にすれば正しい/p/の音が出せるのか、という新しい発見の意外さと、自分にもその音が出せるかもしれない、いや出せそうだ、という健全な期待感と、抑えようもなく内部に膨れ上がる強烈な意欲が、一度に各自を襲ったときの自然な反応なのです。そしてこれこそが、起死回生の奇跡なのです。では、なぜ、これだけのことが一瞬で起こったのかと言えば、彼らが、真剣に、虚心坦懐に、正しい発音を、正しく聞き、それが正しい発音だと確信した瞬間、今度は、自分が正しく発音し、それを徹底反復すれば、やがて必ず、自分も、正しい発音ができる、ということを、100％ポジティブに受け止め、各自の身体的直感が、理屈を超えて、正しく理解したからです。でも、発音練習の実際の効果が一人一人の「心身」に「命」となって定着するまでには、一定の時間がかかります。長い練習期間が必要なのです。長期にわたるフォロー・スルーを組み込んだ授業システムが別途必要なのです。英語リーディングは、単に英語を黙読するだけでなく、音読を前提としています。実際には、徹底したリーディング（=音読）指導が求められるのです。W.日本語にない英語の発音をどうするか？ところで、英語発音の難しさは、スペリング通りに発音しても必ずしも正しい発音にはならない、ということに留まりません。すでに述べたように、もう一つ大きな問題があります。それは、英語には日本語にない音がいくつも存在する、ということです。これは日本人にとって、そんな馬鹿な、と開いた口が塞がらないような、克服不可能としか思えないほどの深刻な問題です。発音の学びに苦労したことのある多くの方が、すでにご存じのように、例えば、lとr、sとshとth、bとv、fとhなどの子音の区別は、日本語には元々微塵も存在しません。これは、英語学習の観点から見るとき、一体、何を意味するのでしょうか。これは、それらの音が、ネイティブの人たちと同じようにきれいに区別して発音できるようになるまで、英語の発音の仕方を、一から徹底的に学び、口がだるくなるまで、毎日何時間も、繰り返し練習しない限り、決して正しく発音することはできない、ということを意味しています。一方、教える側に立てば、これらの区別を一通り初心者に教えるだけでも、実は何日もかかります。また、教え方の一例としては、right-light,sign-shine,sick-thick,see-she,berry--very,find-hindなどをペアーで発音する練習などがあります。学習者はこれらを区別して発音することができるようにならなければなりません。また聞いて差異が分かるようになる必要もあります。そのためには、基本的な口慣らしと耳慣らしを、毎日一定時間、ノルマとして、厳しく行わなければなりません。X.アルファベットaの発音の四変化を誘発する取り巻き子音の存在ところで、英語の発音の難しさは、子音の発音の難しさに留まりません。母音にも及ぶからです。そもそも、英語のほとんどの単語は、26個あるアルファベットのうちの、1個から十数個の異なる組み合わせで出来ているのですが、例えばアルファベットのaで表される母音の場合、この母音を前後に取り巻く異なるアルファベットの組み合わせによって、aの音が何通りにも変化します。日本人の場合、母音は「ア」「イ」「ウ」「エ」「オ」の五つと決まっているので、「ア」が四通りに変化すると聞かされると、唖然とし、眩暈を感じます。例えば、中央にaを持つ四つの語cat,cake,call,carを見て下さい。この四語においては、発音されたときのaの音は、お互いに他と全く異なります。しかし、それを確かめる前に、これらの四語に共通する音韻構造を確認しておきましょう。これらの四語はいずれも「子音＋母音＋子音」という構造を持っています。次に相違点がどこにあるかを見てみましょう。相違点は四語を区別する要素として、異なる子音が使われているということです。上記の四つの語の場合、それぞれ、互いに異なるアルファベットが、母音aの前後を取り囲むことで、四つの異なる語が形成されていますが、互いに異なるそれらのアルファベットの組み合わせは、aをあんこのように中央に挟みながら、四つの異なる単語を構成する、弁別的子音群を提供していることが見て取れます。このように、互いに異なる子音が同一の母音をはさんで、四つの単語の弁別要素として働くのは、地球上の全ての言語のメカニズムにとって、おそらく当然のことです。しかし、英語の場合、特殊と言えるのは、同一の母音を表すはずのアルファベットaの発音が、この四語間で、なぜか四通りに異なるということです。この四語をカタカナで表記すると、「キャット」、「ケイク」、「コール」、「カー」となります。母音のaに対応する発音だけを抜き出すと、「ヤッ」、「エイ」、「オー」、「アー」と四通りになることが確認されます。ここから分かることは、英語のアルファベットaの音は、前後の子音の組み合わせが機縁となって、自らも四通りの異なる発音に変化する、ということです。したがって、英語を学ぶものが、予知的に、これらをすべて正しく発音できるためには、子音の特定の組み合わせと、母音aの特定の発音との間に存在する、四通りの関係方程式を、予め知っておかなければならないということになります。Y.オーストラリア式英語発音教育実は英語圏では、小学1年生に文字の読み方を教える際、単語のスペリングとそれに対応する発音を、歴史的経緯を組み込んだある種の方程式を使って、原理的かつ組織的に、教える教育手法が採用されています。英語ではそれをphonicsと言います。一方、発音一般を専門に研究する学問は別個に存在し、それには「音声学（phonetics）」という名称がついています。ところで、phonicsは日本ではフォニックスと片仮名で表記され、これが一般的呼称となっています。正式な日本語訳は、私の知る限り、まだ存在していません。日本の代表的な英和大辞典を見ると、phonicsは「初歩的な英語の綴り字と発音との関係を教える教科」（研究社の「新英和大辞典第五版」より）と説明されています。では、英語圏でなぜフォニックスが教科になっているかというと、前節でも見たように、英語ではスペリングと発音の関係が一定ではなく、一見、不規則そのものに見えるからです。すでに検証した事例の他にも、例えば、bookは「ブック」と発音しなければなりません。「ボーク」ではありません。また、timeは「ティメ」ではなく「タイム」と発音することは誰でも知っています。同じく、schoolは「スチョール」と発音していては全く通じません。英語圏の小学生たちが新聞やエッセイを読んで見慣れない単語に出会ったとき、もしスペリング通りにしか発音できなければ、英語の読み書きができなくなることは目に見えており、これは一大事です。そこで、英国の過去の歴史において、どんな予期せぬ不幸な事態が発生し、その結果、英語ががいかなる言語的損傷を被ったにせよ、結果として、スペリングと発音の関係が複雑にゆがんだことを、不幸な特殊事例として認め、その上で、多くの不規則性の集合の中に潜む、隠れた驚きの規則性をあぶりだすことに成功しました。教師や研究者が大いに努力をした結果です。こうして、英語の特異なスペリングと、特異な発音との間の、十分密接な、しかし秘密の、関係を暴き、それを法則化することで、彼らは、英語独特のスペリング特性から正しい発音を導き出すことのできる、実践的な英語発音教育法を編み出したのです。Z.フォニックスを取り入れた日本の英語発音教育の可能性私はこれまで、フォニックスの存在をある程度知っていましたが、それを詳しく調べたり学んだりしたことはありませんでした。ただ、自分流にではありますが、発音記号に頼る発音学習の無味乾燥から逃れるため、密かにスペリングから発音を予測する、一種のゲームを楽しんでいました。それは次のようなことをするゲームです。自分の知らない単語に出会うたびに、その単語の発音を辞書で確かめる前に、その単語のスペリングのちょっとした特徴から、その発音を推測するのです。最初の一年目は、正答率は極めて低かったのですが、二年、三年と、同じことを繰り返し、ゲームにある程度慣れてくると、このアルファベットの組み合わせだと、発音はきっとこうなるはず、という法則の存在が見えてくるようになりました。例えば、night,light,right,sight,fightはいずれも、子音+母音＋ght、という基音構造を持ち、終わりに、ightという共通のスペリング集合を持っています。ightの発音は「アイト」です。これらにおいて、ghは発音しませんが、この子音集合が現れると、iの発音は「イ」ではなく、「アイ」となることが暗黙の規則として働いていることが分かります。例えば、sighはtを欠いていますが、発音は「サイ」です。つまり、iは「アイ」と発音するのです。同様に、highも「ハイ」と発音します。したがって、iはここでも「アイ」と発音します。iは勿論、fit,kid,pink,window,listen,hipなどでは、すべて「イ」と発音します。ですから、どのようなスペリング環境のときにiが「アイ」と発音されるかは、そこに法則性が見出され鵜限り、フォニックスの研究テーマになるのです。例えば、line,fine,dine,mine,nine,pineという一連の語群を見て下さい。ここでは、iは「アイ」と発音されます。そして、ineというスペリング集合は「アイン」と発音されます。注目すべきは、子音＋母音＋子音＋eという基音構造です。ちょうどghが発音はされなくとも、直前のiの発音に影響を与えたように、語の最後にeが存在することによって、それ自体は発音されませんが、これらの語の最後の子音の一つ前の母音、iに影響を与え、これを「イ」ではなく「アイ」と発音させる因子として働くのです。実はこれと同じ原理がもう一つの母音aをiの代わりに持つ次の語群においても働いていることが分かります。それらは、hate,late,mate,fate,gateです。ここでも、発音されないeの存在が、直前の母音aの発音を「ア」から「エイ」に変えます。すなわち、ateの発音を「アット」でも「アテ」でもなく、「エイト」に変えるのです。でも、実際にはeが最後の子音の後ろについている場合、前の母音の発音を変えるという規則はもっと広く適用されています。iが「アイ」と発音される例を幅広く収集してみましょう。例えば、knife,life,nice,rice,price,westernize,recognize,ripe,pipe,rise,size,site,cite,fire,quite,spiteなどがすぐ思い浮かびます。英語には不思議な子音集合が多く存在しますが、それらはしばしば発音にも見えない影響を与えています。例えば、llという子音集合を見てみましょう。ball,hall,tall,fall,gall,call,mallはいずれもa＋llというスペリング集合を特色としています。そしてこのスペリング集合の発音は「オール」です。他にも、a＋lkでtalk、a＋ldでbaldという子音集合の場合、それぞれ、発音は「オーク」と「オールド」であり、aはいずれの場合も、「ア」ではなく、「オー」であることを特色としています。他にも、注意しなければならない子音集合としては、kn,qu,phがあります。knは/n/と発音します。例としては、knife,know,knaw,knotなどがあります。quは/kw/と発音します。例としては、question,queen,quite,quiet,quest,quoteなどがあります。また、phは/f/と発音します。例としては、photogragh,telephone,phonetic,phonogragh,iphone,philosophy,physical,physicsなどがあります。これらの子音集合は、それ自体が発音記号だと思って覚えればよいのです。なぜなら、これらの子音集合には、それぞれ一個の読み方しか存在しないからです。平仮名を覚えるような調子で覚えるとよいのです。このように、「これこれの場合には…と発音する」という一対一の対応ルールを見つけ、それらを組織化して教程化したものがフォニックスなのです。冒頭で述べましたように、たまたま、弊社の提供する授業の中に、オーストラリア人講師による英会話コースがあり、ネイティブの講師から初級の英語を学びたいという受講要望があったので、その講師を紹介したところ、初級の会話を練習する前に、単語の読み方を学ぶ必要があるだろうということで、オーストラリア式の発音教育がその受講者に実施されるのを、たまたま参観させていただく機会がありました。大変参考になったので、ここで紹介しておきたいと思い、このブログを書き始めました。日本における英語発音教育は事実上何もなされていない、という認識のもと、私の考える方法をご紹介しましたが、もう一つの可能性としてのフォニックスの考え方の概要は、以上の説明でお分かりいただけたことと思います。今まで発音に興味を持たなかったけれど、このブログを読んで一から学びなおしてみたい、と思われた方は「お問い合わせ」からご連絡ください。すぐれたネイティブの講師から英語の発音をもう一度学びなおす良い機会です。
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<link>https://easyspeak-english.com/blog/detail/20230610110316/</link>
<pubDate>Sat, 10 Jun 2023 11:13:00 +0900</pubDate>
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<title>接頭辞（prefix）に親しもう</title>
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接頭辞（prefix)の活躍する言語ー英語１．語彙学習の重要性皆さんは接尾辞（suffix）とか接頭辞（prefix）という言葉を聞いたことがありますか。ひょっとしたら、これらの言葉は、特に初心者の方には、あまり耳慣れない言葉かもしれません。それとも、中級か、それ以上の方なら、どこかで聞いたような気がする、という方が相当数いらっしゃるかもしれません。ただ、その場合でも、多くの方は、ほとんど気にも留めないで来られたのではないでしょうか。けれども、日ごろ、自分のペースを維持しながら、コツコツ英語を学んでいらっしゃる多くの方々、そしていつの日か、真に役立つ英語力を身に付けたいと強く願っていらっしゃる方々には、是非、この際、これらの言葉に親しんでいただきたいと思います。と申しますのも、これらは、英語の語彙を増やしたいと思われたときに、補助ブースターのように、すばらしい力を発揮するからです。ところで、語彙を増やすことはどんな意味を持っているのでしょうか。それは英語学習上、どれくらい必要な作業なのでしょうか。でも、それを考える前に確認しておきたいのは、語彙とはそもそも何かということです。語彙（vocabulary）には二つの意味があります。一つは、所与の言語が持つ全語数という意味です。もう一つは、所与の言語に関して、特定の個人が知識として所有している語の総数という意味です。後者の場合、語彙数は、個人によって大きく異なります。そこで、仮にある個人が、ある外国語の単語を10個知っている場合と、語彙の学びを通じて、1000個知っている場合とを比較してみましょう。その人が、その外国語が使われている国に行ったときを想像すれば、その知識の差は、日常のコミュニケーションの場面で、雲泥の差となって現れるであろうことは、想像に難くありません。同様に、その同じ人が、その同じ言語に関して、語彙数が10,000に達した時点と、学び続けて、100,000に達した場合とを比べるとどうでしょう。コミュニケーションは、質的に大きく変わることが予想されます。いかがでしょうか。発音や文法の、英語学習にとっての重要性を、私は少しも否定するものではありません。しかし、語彙の学びは、発音も文法もその基礎が語彙に包摂されていることも含めて、外国語学習のアルファでありオメガなのです。では、語彙の習得という観点から見たとき、日本の英語教育の現状はどのように見えるでしょうか。具体的な授業風景から、問題点に迫ってみましょう。日本では、英語の学びは英語のリーダー（「読本」）と呼ばれる教科書を開いて、教師の指導の下に、英語で書かれた各レッスンを学びます。先生から、単語の意味や文法の説明をあれこれ聞き、最後に本文の和訳をノートして、学期末のテストの中で、単語や文法のテスト問題、英文和訳、和文英訳、などが出題されたとき、80点以上の成績をとれば、それで勉強は順調に進んでいると、先生も生徒も判断します。ここに決定的に欠けているのは語彙学習への準備です。教科書に相当数の新しく学ぶ単語が使われているはずですが、それらの語の学びは、訳語を一つか二つ提示する以外にほとんど何も手が打たれていません。しかも、教科書の英文は大きな文字で印刷され、分量が極端に少ないのです。そして、英語の試験問題は、原則として教科書に書かれている英文から出題されます。この二つの条件が重なると、学習者にとっての英語の学びは、いわゆる「暗記科目」に限りなく近づきます。事実、学び始めの1～2年は、教科書の英文を読み、その和訳を暗記していれば、結構よい成績を収めることが可能です。でも、現実に、英語が暗記科目でないことは自明です。どの言語でも、それが生きた言語であれば、日々変化する環境の中で、その都度、微妙に言い方を変えて、常に新鮮に、そして何よりも、自由奔放に話されています。ですから、本来なら、英語教育も、実社会で使われる英語を常に念頭に置きつつ、行われなければならないはずです。中間試験、期末試験、実力テストと、試験、試験で明け暮れる学校の英語教育の中で、「おや？英語は暗記科目なの？」と学習者に思わせてしまった時点で、英語教育は、生きた言語としての英語の実態を離れ、効力を失って、空中分解します。入学試験は、暗記で対応してきた教科書から出題されることはなく、それに解答するには、本物の英語力が要求されるからです。ここに、能天気な理想主義と厳しい現実との間に意識の落差が生ずる隙間があります。ここに、誰も望まないはずの「落ちこぼれ」を生み出す陥穽が潜んでいます。そこで学習者が、一周遅れで、「何かが違う」と気づいたときにはすでに遅く、自分の通う進学校のスピードは、自分の理解のスピードを超えて、はるか先を行っています。慌てて塾へ行けば、文法の難しいポイントなどを、きちんと学びなおすことができますが、それでも、当面の遅れを取り戻すのが精一杯で、語彙の習得に向けた学習にまでは手が回りません。薄っぺらな「リーダー（reader）」に頼りすぎる日本の英語教育には、語彙の習得という大テーマに向けた、周到な対策が見られません。例えば、いわゆる八品詞の懇切丁寧な解説、意味の重層性（文脈によってさまざまの異なる意味で使用されるという事実）、発音、慣用句への目配り、豊富な例文の提示、などが、本来の単語学習には不可欠なのですが、「リーダー」(英語教科書）には、せいぜい、文法の習得に資するような配慮が見られるだけです。例えば、中学段階で、動詞の過去形を学ぶレッスンは、なんとなく過去形の目立つ文が並んでいる、といった配慮が見られるにすぎません。では「リーダー」はもっと分厚くすればよいのでしょうか。理想を言えば、「リーダー」は現行の五倍くらい分厚くすべきです。「学習者にいきなり多くの単語を覚えさせようとすれば、学習者への負担はとても重くなる」という理屈、また、「文法の説明と練習問題に割くべき多大な時間を考えると、単語の詳しい解説までは手が届かない」という言い訳ももっともらしく聞こえます。でも結果はどうでしょうか。中学、高校、大学と、10年ばかり教室で英語を学んで社会に出ても、英語に自信が持てない人たちは、圧倒的多数のはずです。はっきり不安だと、焦りを感じている方も、意外に多いのではないでしょうか。そもそも、言語を真剣に学ぶ人にとって、語彙のシステマティックな学習は、基本中の基本です。単語の知識、すなわち語彙が、しかるべき方法によって、言語運用に直結する知識として、5年、10年のスパンで、無理なく積み上がっていかない限り、英語学習は目に見える成果が上がらず、途中で息切れし、頓挫します。積み上がるべき語彙の供給不足から、学習者は、もはや学び続ける意欲自体を失います。「こんなことの何が面白いの？」と、鼻白む気持ちが湧いてきて、それ以上学び続けられないのです。一種の酸欠状態です。こうなると、ちょっと難解な英文は、もう、はなから読もうという気にはなれません。まして、社会に出て難しい交渉ごとを英語でこなすレベルの英語には繋がっていきません。実社会で使われている英語は、一見、どんなに易しい文であっても、また、5分、10分の、ちょっとした会話でも、すでに相当数の語の知識が前提になっています。語彙の重要性は英語に限った話ではありません。例えば、日本語の習得というテーマに限ってみても、語彙学習の重要性は変わりません。そのことを否定する人もいません。語彙の豊かな人のコミュニケーションはスムーズに運びます。豊富な語彙は、幅広い人間関係を、いつでも力強く支えてくれます。無論、仕事にも十分に生かされます。日本語の習得に関して当たり前のことが、学校の英語の場合、なぜか、ほとんど顧みられていないのが現状です。薄っぺらな教科書に頼りすぎ、文法の学びと同じくらい重要な語彙の学習への配慮、ないしは目配りがほとんど感じられません。そもそも予習として、教科書に出てくる語をすべて辞書を引いて調べる、という基本の作業を前提にした英語教育がうやむやになっています。ですが、学校の授業だけで完結する言語教育など、どこにも存在しません。本来なら、なるべく早い時期に、英和辞典の引き方を懇切丁寧に教えた上で、自主的に辞書を引くことを前提にした英語教育が展開されなければならないのです。中・上級者には英英辞典の使い方に慣れ、英英辞典の使用を前提にした語彙学習が継続できるよう、戦略的に一貫した指導が不可欠です。その上で、理想として私が掲げる語彙学習の到達目標は、数字では一概に示しにくい上に、高度な運用に耐えるものでなければならないので、意識的、戦略的な学習をする心の用意のある人にだけ、それを目指して取り組んでいただけるようにできています。私の主たる課題は、日常的な英語の運用をサポートできる基本語彙を、比較的短期間に学習者に身に付けていただくための方法を提示し、その上で、今日のテーマである接頭辞の重要性に注意を喚起することです。そこで、語彙学習を含む、言語学習の参考モデルとして、たまたま、アニメや漫画によって、日本語に多大の興味を持った若い外国人が、日本語を主として自力で学ぶときの手順を想像してみましょう。彼らは、まず、ひらがなとカタカナの読み方と書き方を学び、それから、川、山、木、森、道、雨、風、兄弟、姉妹、父、母、家、人、町などの身近なものを表す漢字を学び、ついでに、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、百、千、万などの漢数字を学ぶでしょう。次に時間、空間、歴史、学校、病院、銀行、会社、国会、外交、戦争、平和、図書館、教科書など、誰でも学ぶべき重要な語彙を、国語辞典もしくは漢和辞典を使って、慎重に学ぶはずです。でも、ご承知のように、当用漢字や常用漢字の数は極めて多く、それらの組み合わせでできている諸概念、諸事物、諸事象の名称も、気が遠くなるほど多いことは、日本人の私たちが一番よく知っています。これまで日本語に接したことのなかった外国人が、日本語で読み書きをし、日本で暮らしても困らないだけの語彙力を獲得することがいかに難しいかは、これでよくわかります。ここで、言語学習のもう一つの参考事例として、日本人が、国内の小学校で日本語を学ぶ場合を想像してみましょう。日本の小学校では、入学と同時に、全国共通の教科書を使って、日常よく使われる漢字や様々な言い回しを学習します。国語だけではなく、社会、理科、算数、図工、音楽、家庭科など、あらゆる他の教科で使われる教科書からも、様々な語彙を吸収します。また、図書館においてある各種の本、例えば、動植物図鑑や料理本、趣味の本、偉人伝、冒険小説、児童小説、SF小説、推理小説、短編小説、小説、エッセイなどを借りて読むと、日本語の語彙を増やすのに役立つので、だれも止めません。むしろ、公認された学びの一環です。ところで、語彙学習の観点から特に興味深いのは、小学校の国語の時間に、遅かれ早かれ、必ず漢字の部首を学ぶことです。例えば、木扁、手扁、サンズイ、禾扁、口扁、鳥扁、魚扁、草カンムリ、竹カンムリ、病ダレ、などの学びです。これはほんのサンプルにすぎず、ほかにも重要な部首が数多くあります。さて、この学習の目的は何でしょう。部首と画数を基に整然と編纂されている漢和辞典を、必要に応じて、直ちに参照できるようになるためです。しかし、副産物として、漢字の形や意味への関心が呼び覚まされます。そして、中学や高校、さらには大学に進学して様々な書物を読むにつれて、漢字を使った無数の熟語と専門用語がその屋台骨を支えている、日本語全体への理解が深まり、情報の収集力が高まり、議論が上手になり、発信力も確かなものになります。このように、漢和辞典を引くのに欠かせない、漢字の部首の学習は、外国人が本格的な日本語の学びに挑戦する際にも、日本人の小学生にとってと同じくらい、有効なはずです。一方、日本人が英語を学ぶとき、肝心の語彙はどのように学習するのでしょうか。近年、日本の小学校では、英語が教科になったため、簡単な単語やフレーズ、また短いいくつかの文の学習に加えて、単語の綴りや文法の初歩にも目が向けられます。中学校では、リーダー（読本）で語彙を増やしつつ、他方で英文法の基礎を固めます。文法については、八品詞、主語、動詞、目的語、補語などの文の要素、文構造の基本、人称に応じた動詞の時制変化、特に、動詞の現在形、過去形、過去分詞、現在分詞、to付き不定詞について学び、疑問文、否定文、感嘆文、複文、重文、受け身、現在進行形、関係代名詞、完了形、仮定法など、実際に英語を聞き、話し、読み、書くために必要な文法の骨格を、学び終えているでしょう。確かに、この時点で、日本の中学生は相当数の語彙を獲得しています。これらをすべて活用できれば、英語による、或る程度のコミュニケ―ションは可能です。でも、それには、各単語のアクセントの位置まで含めた正確な発音や、文中で生じる抑揚への対応や、正しい語順、関連する慣用句の知識などが不可欠です。それらを文レベルで活用できるまで、完全に消化するには、辞書的な知識に加え、徹底したプラクティスが必要です。本当の語彙力は、一個の単語に「対応する」一つか二つの日本語をあてがって済ますようなレベルの英語教育からは生まれません。本当の語彙力は、戦力として使えるレベルの、語や句の正確な実践的知識を意味するからです。真の語彙力が何かは、日本の英和辞典の記述が、或はオックスフォードやケンブリッジの英英辞典の記述が、語っています。発音や品詞の解説、用法の解説、用例の掲載のない英和辞典も英英辞典もありません。その用意周到さが、そのまま、語彙とは何かを最も雄弁に私たちに伝えています。２．高校1年生から始める自主的な学習では、語彙学習という観点から見たとき、日本人の、高校での英語学習はどのようなものであるべきでしょうか。大学受験に備えて、詳しく英文法を学びなおし、格調の高い、息の長い英文に触れ、多くの長文問題を解くのは決して悪くありません。英文読解に関する定評のある受験参考書も、精読すれば、随分効果的です。しかし、大学に合格したとたんに学習を止めたり、社会に出たとき、もう要らないからと、忘れてしまうのではなく、自分のために、一生学び続け、折に触れて積極的に英語を使うことを想定するのであれば、そのための英語は、10代の後半あたりから、寸暇を惜しみ、戦略的、かつ積極的に、自分から学びに行く必要があります。けっして、学校や塾での、集中的、共同的な学びが重要でないというわけではありません。それらも立派に英語の学びの一部です。しかし、言語学習は長期にわたる習慣にならなければ、決して大きな成果は得られません。十分若い年齢のころから、学びのチャンネル増やし、自分の判断と決意が重視される、探求型の学習に切り替える必要があります。それらの要請をすべて満たす英語の学習は、一体、どのようなものなのでしょうか。高校1年の初めから、学校の授業とは別個に、毎日、一定時間、自由に英文を読む訓練をします。自分が読みたい物語やエッセイを、書店や図書館で自主的に探します。これは決して珍しい学習法ではなく、サイドリーディングと言って、基本的には、学校でも推奨されている方法です。このようにして、自分で見つけた、自分用の教材を、英和辞典を片手に、自由に多読するというところが、この学習の味噌です。この学習はスピードを重視します。少々知らない単語が出てきても、読み進めることが大切です。しかし、それが分からないとストーリーの面白みが失われると判断できるほどの、重要な語句に遭遇した場合、携行する英和辞典を引き、その語や句を調べます。知らない単語の場合、その発音、品詞、意味、慣用法などを調べ、単語帳に記入します。教科書以外の本を、こうして、3か月、5か月、と読み進めていけば、やがて、英語の地力が自然につき始めます。この間、あなたの語彙は、良質な土壌に蒔かれた種のように、どんどん葉っぱを伸ばし、成長しているのです。知っている語の数が、いつの間にか、多くなります。知っている語の、慣用句を含めた、様々な使い方が分かってきます。３．語根を自在に成型する下位要素としての、接頭辞（prefix）と接尾辞（suffix）そして、この学習が2年ほど続いたころ、多くの英語の単語には、固有の、内的構成要素、すなわち、分解可能な下位要素があることに、誰に教えられるともなく、自然に気づき始めます。ところで、中級以上の方ならすでにご存じのように、単語には、大抵、語根というものがあります。それらは英語の場合、ラテン語やギリシャ語、もしくは古英語やフランス語に由来します。中には、ドイツ語やオランダ語、アラビア語、その他に由来するものもあります。辞書を引き、単語の身元調べ、すなわち語源調べをするのも、それなりに、面白いものです。しかし、もっと面白いのは、語根にくっついて、単語の品詞や意味を自在に変え、華麗な自己成型を可能にする、特定の下位要素の群れ、すなわち、接頭辞（prefix）や接尾辞（suffix）に注目することです。くどいようですが、英語学習の最大の関門は語彙学習です。そして、この観点から言っても、死活的に重要なのが、接頭辞と接尾辞に関する基本知識を、しっかり身に付けることです。よく観察していると、決まった法則性が見えてきます。例えば、-nessは、kind（「親切な」）という形容詞に付けるとkindness（「親切」）という名詞を生み出すことができます。同様に、sad（「悲しい」）という形容詞に-nessを付けると、sadness（「悲しみ」）という名詞に変わります。一般に--nessは形容詞にくっついて、それを名詞に変えます。また、-tionという接尾辞は、ある種の動詞の語尾につけると、その動詞を名詞に変えることができます。例えば、move（「動く」）という動詞に-tionをつけて、motionとすれば、「動き」とか「動作」という意味の名詞になります。同様に、cultivate（「耕す」）という動詞に-tionという接尾辞を付けると、cultivation（「耕作」）という名詞になります。また、entertain（「楽しませる、もてなす」）という動詞に-mentという接尾辞を付けると、entertainment（「余興」）という名詞に変わります。さらにまた、revive（「生き返る」）という動詞に-alという接尾辞をつけると、revival（「蘇り、再上演」）という名詞に変わります。ところで、今例に挙げた動詞のmoveは、-ableという別の接尾辞をつけると、今度は名詞ではなく、movable（「「動かすことが可能な」）という形容詞に変わります。一方、先ほどのkind（「親切な」）という形容詞に、接尾辞ではなく、-unという接頭辞をつけてunkindとすると、品詞は形容詞のまま、「不親切な」という、逆の意味に変わります。興味深いのは、同様のことが別の接頭辞についても起こります。例えば、今紹介したばかりのmovable（「動かすことが可能な」）という語の頭に、別の接頭辞-im（語によっては-in）をつけて、immovableとすれば、「動かすことのできない」という意味になります。ここでも、unkindの場合と同様、品詞は変わらず、形容詞のままです。しかし、この形容詞に、先ほどの-nessをつけてimmovablenessとすれば、「動かしがたいこと、不動性」という意味の名詞になります。一方、本来は形容詞であるこのimmovableを、土地や家屋など、動かせないもの（不動産）を表す可算名詞として、人が頻繁に使うようになれば、やがて、この形容詞は、「不動産」という意味の名詞として市民権を得ます。世界中で流通し、辞書にも掲載されます。実際、この語のこの形は、「不動産」の意味で辞書に採択されています。今、市民権という言葉を使いましたが、市民権は、英語ではcitizenshipと言います。citizen＋shipでできている語です。もうお分かりのように、-shipも接尾辞の一つで、物事のエッセンスや特質を表現するときに使われます。つまり、市民という身分のエッセンスは、勿論、市民権なのです。同様に、friendship（「友情」）もleadership（「指導力」）もfriend（「友人」）やleader（「指導者」）のエッセンスを抽出したとき出てくる抽象概念として使われます。ほかの例としては、gentlemanshipとかguardianshipがあります。前者はgentlemanが「紳士」という意味ですから、「紳士のエッセンス、」すなわち「紳士らしさ」、「紳士的態度」、という意味です。後者はguardianが保護者とか庇護者という意味ですから、「保護」「庇護」という意味で使われます。抽象化して本質をあぶりだす接尾辞、と覚えておけばよいでしょう。このように、おびただしい数の接頭辞と接尾辞を、既存の語の語頭や語尾に、次から次へと接合することで、それらの語の意味を自在に変更し、また、まるで手品のように、その品詞を変えることが可能になったのです。こうして出現したおびただしい数の新語の群は、歴史的に通覧するとき、まさしく、言語としての英語の面目を一新させてきたことが分かります。時代の要請に応じて、接頭辞や接尾辞を付け加えて生まれた無数の新語は、変わりゆく世界のニーズを満たす便利な符丁、もしくは合言葉として、次々に、新聞、雑誌、テレビ、学会などで公認され、世界中に喧伝され、普及していきました。めぼしいものだけでも、それぞれ数十個以上存在する、接頭辞と接尾辞は、過去数百年にわたって世界の近代化を牽引してきた西洋文明の中核国イギリスの言語、すなわち英語の語彙を、文字通り幾何級数的に増やすことに貢献したのです。これに匹敵する事例としては、日本語の明治維新後の日本の急激な近・現代化の中で達成された新語の造成が挙げられます。この時に西洋近代文明にわずか数十年で完全に追いついた日本を支えたのは、言語の近代化でした。そして言語の近代化を支えたのは、漢字を組み合わせで作られた無数の新語であり、新概念でした。今や日本は、アメリカ、中国に次ぐ世界第三位の経済大国です。太平洋戦争の後半に、めぼしい町や市街地が全面的に焼け野原となり、広島と長崎に原爆が投下され、壊滅的に破壊された日本の、戦後の急速な復興、目覚ましい経済的発展は、またしても世界を驚かせました。でも、それを支えたのは日本人のあらゆる分野における、専門的、かつ高度な経験値です。そして経験値の土台は日本語です。特に日本の近代化以後に生まれた、おびただしい数の、漢字の組み合わせからなる、日常語および専門用語です。例えば、鉄橋、鉄道、電信柱、自転車、自動車、汽車、飛行機、戦闘機、航空機、望遠鏡、顕微鏡、標本、経済、貿易、運輸、心理学、物理学、天文学、科学、生物学、地学、歴史学、医学、医者、病院、患者、外科医、内科医、薬局、処方箋、など無数にあります。これらの事実を対照的に眺めるなら、私たちは改めて、言語の偉大な能力、分けても、英語の持つ底知れないポテンシャルに、気づかせられます。そして、それは、巡り巡って、日本人英語学習者たちへの一大ヒントにもなります。もうお気づきのはずです。接頭辞の学びも接尾辞の学びも、語彙学習の一環として位置付けるのが、正しい選択です。英語学習者は、その学びが中級に達した後は、新しい語を学ぶときの鉄則ルーティーンとして、接頭辞、接尾辞に目を配る必要があります。なぜなら、両者の学習は、英語学習の総合的完成段階に相当する、語彙学習の成否を分ける、死活的に重要な学習だからです。しかも、この学習には、一種特異な、機動力の発揮が求められます。でも、それは、どういうことでしょうか。例を挙げて説明しましょう。例えば、civil（「市民の」）という形容詞は、もともとギリシャに発展した市民国家の構成員である、市民権を持ったcitizen（「市民」）に関係のある語なのですが、この語に、接尾辞の-izeを加えて、civilize（「啓蒙する」）という動詞を作り出すことができます。ところが、こうして出来たcivilizeに、さらにもう一つの接尾辞、-tionを加えると、今度は、civilization（「文明」）という名詞を生み出すことができます。こうして、芋ずる式に手に入る、civil,citizen,citizenship,civilize,civilizationは、明らかに、同族語群を形成していることが分かります。つまり、語根のcivilを中心として、-izeと-tionという、二つの接尾辞が、殊に重要な役割を果たしていることが分かります。これらの一連の学習は、語根＋接尾辞という公式に、常日ごろ、一定の目配りを促す学習です。ルーティーンとしてのこの種の学習は、一つの語の周りに存在する、複数の語群に特別の注意を促すところに特徴があります。ところで、英語では，語根から派生するこれらの一連の語を派生語（derivatives）と呼んでいます。英語の語彙の半分以上を占めるラテン系の語は、極めて高い確率で、複数の派生語を持ちます。例えば、先ほど見たmoveという動詞の派生語を調べれば、motionやmovableの他に、emotion（「情緒」）、emotional（「情緒的な」）、emotive（「感情を誘発しやすい、感情の」）、motionless（「静止した、動きのない」）、motive（「動機」）、motivate（「動機付ける」）、motor（「モーター、動力源」）などの語が、辞書を媒介として、浮かび上がってきます。しかも、これらの派生語は、その多くが、日常的に使われています。ただし、これらの語の具体的な用法は、サイドリーディングの中で、また辞書に引用されている例文から、学んでいきます。語彙の学習は、副読本などの学習教材の中で使われている未知の語を辞書で調べ、説明と例文から、実際的な使い方を学ぶのです。さて、英語の接尾辞は、そのが数が極めて多いのですが、実際には、英語の接頭辞の数の方がむしろ多く、おそらく、実数は何百とあります。そこで、ここからは、語彙学習のさらなる面白さを紹介するために、接頭辞に絞って、話を続けましょう。４．接頭辞に慣れよう
具体的に、英語の接頭辞にはどんなものがあるのでしょうか。上に見たもののほかに、例えば、pro-という接頭辞があります。この接頭辞自体は、「前に」とか「前方に」という意味を持っています。この接頭辞が特定の単語と結びつくと、どんな働きをするのでしょうか。例えば、proposeという語は「提案する」という意味でよく使われます。何故このような意味になったかというと、pro-という接頭辞がくっつく前の語、すなわちposeは、単に何かを「置く」という意味でしたが、pro-が前にくっつくことによって、「何かを、誰かの、前に置く」という意味に変化しました。そこから、「誰かに、何かの、案を提示する」という意味に変わり、最終的に「提案する」という意味に落ち着いたのです。日本人なら誰でも知っている「プロポーズ」も、もとは「（結婚という契約案を）提示する」という意味でした。結婚の提案＝求婚＝プロポーズ、ということなのです。また、提示された設計案を審査委員会が審査する、いわゆるコンペ（competition）において、プロポーザル（＝建築設計案）という言葉が使われますが、これも、proposeという動詞の名詞形proposalから来ています。pro-は他にも、progressという語に使われています。これは後ろの音節にアクセントを置いて「前進する」という動詞として、また前の音節にアクセントを置いて「前進」という名詞として、よく使われます。たとえば、Therewasnosubstantialprogressinourrecentnegotiationswiththecompany.と言えば、「その会社との最近の交渉ではこれと言った進展は何も見られなかった。」というほどの意味です。また、prospectと言えば、「見込み」とか「展望」という意味です。語根のspectは「見ること」という意味のラテン語spectusから来た語で、「前方」を意味するpro-と結びつくと、「前方を見ること」、すなわち「展望」という意味になるのです。また、時を超え、人知を超えた、はるかなる神の配慮、と言いう意味で、providence（「神慮」）という語が時々使われます。pro-は「前方」、videnceはvidere（「見る」）というラテン語の動詞の名詞形です。また、professionalと言えば、いわゆる玄人、プロのことです。これは、接頭辞のpro-（「前方で」）＋fess（「知識や技能を公言する」）から出てきた意味です。また、マスプロ教育などと言うときのマスプロは、mass-productionの簡略式カタカナです。productionはproduce（「制作する」）という動詞の名詞形です。そして、produceは、接頭辞のpro-（「前に」）＋duce（導く、引っ張る」）から生まれた語です。接頭辞はこのように、もとからある語と自由に結びつくことによって、次々に、これまで存在しなかった、新たな語を形成することができます。５．否定の意味を添える接頭辞英語の接頭辞の中でも特に注意したいのは否定の意味を添えるいくつかの接頭辞です。例えば、すでにその一部を紹介した、in-もしくはim-という接頭辞を見てみましょう。誰もがよく知っているimpossible（「不可能な」）は、日常的によく使われる語possible（「可能な」）の頭にim-をくっつけた語です。例えば、Isitpossibleforyoutosignhere、あるいは、Couldyoupossiblysignhere,pleaseと言えば、「ここに署名していただけませか。」という意味です。これに対して、No,I'mafraiditisimpossible,becauseIdon'thaveanythingtosignwith.と答えと、「生憎それはできません、筆記用具を持ち合わせておりませんので。」という意味になります。ほかにもindependentは「独立的な」という意味で使われます。dependupon~は「～に頼る」という動詞句ですが、dependentはdependという動詞の形容詞形です。これにin-がくっつくと、「（誰にも）頼らない」という意味に変わり、「独立的な」という意味に落ち着いたのです。また、insufficientと言えば、「不十分な」という意味です。元の語のsufficientは「十分な」という意味の形容詞ですが、in-がくっついて意味が反転したのです。元の意味を逆回転させる接頭辞は、ほかにもあります。前にも見たun-もその一つです。例えば、kind「親切な」にun-がくっついてunkindとなると、「不親切な」という意味に変わりましたが、動詞のdoに付けてundoとすると、「元に戻す」「解体する」というような意味になります。What'sdonecannotbeundone.は「いったんやってしまったものは、元には戻せない。」という意味です。また、「必要な」という意味のnecessaryにun-をつけてunnecessaryと言えば、「不必要な」という意味です。他にもunfair「不公平な」、uneven「平らでない、でこぼこした」など、un-を頭にくっつけて元の意味を反転させる例がいくつもあります。６．様々なタイプのマイナスを一手に引き受けるスーパー接頭辞dis-についてこのように、英語には多くの接頭辞があり、元の語を様々に加工し、その意味を自在に変える働きがあるということが、実態として、かなり分かってきました。また、元の意味を否定したり、除去したり、反転させたりすることのできる接頭辞に限ってみても、数種類存在することが、上に見た例から分かります。次に紹介するのは、これらの、マイナスの意味を添える、超大物接頭辞のdis-です。その圧倒的な数をご覧ください。disregard,disagree,discount,disclose,discontent,disconnect,discover,dismount,disappoint,disappeare,distort,dissident,dispose,distress,dissatisfy,dispossess,disown,displease,dishonest,disconcert,disharmony,disarm,discharge,disapprove,discredit,disarray,discourage,dishearten,disperse,disparage,disprove,dispute,disavow,discourse,dismantle,disturb,discolor,disbelieve,disdain,disease,dismay,distinct,dislike,disloyal,disorder,displant,dislocate,dissuade,discomfort,disclaim,disorganize,disarrange,disengage,disentangleいかがでしょうか。これらは、英語で言えば、awayfrom,without,not~、というような意味、すなわち、反転、除去、否定などの意味を加えます。ですから、元の語の意味が分かれば、それを「～ではない、反～、不～、非～」と言った意味に変換することで、その意味をかなり正確に推測できます。気になって調べる前に、一呼吸おいて、その意味を、接頭辞と語根から推測する瞬間は、だれでもワクワクします。辞書で確かめる瞬間も同様です。これが、実は、語彙学習のご褒美なのです。どうぞ、語彙学習を、苦しみを逆手に取り、目一杯楽しみながら、続けて下さい。
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<link>https://easyspeak-english.com/blog/detail/20230426180149/</link>
<pubDate>Wed, 26 Apr 2023 18:40:00 +0900</pubDate>
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<title>仮定法って何？</title>
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仮定法(subjunctivemood)と上手に付き合う方法について１．仮定法（subjunctivemood）のわかりにくさ仮定法はどんな状況の下で使われるのか考えてみましょう。例として、「私」が「あなた」を、何らかの点で、手助けできるかどうか、に関する発言として、次の二つの文を比べてみましょう。1.IhopeIcanbeofsomehelptoyou.2．IwishIcouldhelpyou.Ihope~は、何かについて、その実現を期待しながら言う言い方なのですが、Iwish~だと、何かについて、その実現が難しいことを、折り込んで言うときの、言い方です。1の文は、「何かお手伝いできることがあればうれしいです。（もしあれば喜んでお手伝いします。）」と、いう意味です。2の文は、「お手伝いできれば、どんなにかよろしいのですが。（残念ながら、お手伝いはできそうもありません。）」という意味です。1の文も2の文も「あなた」を助けたい気持ちは共通なのに、１は助けることを、大いに希望を持って考えているのに対して、２は助けたくとも助けられないことを知っているのです。一体どうしてこんなに意味が異なることになったのでしょうか。手がかりの一つはhopeとwishの使い分けにあります。確かに、hopeもwishも、日本語流に言えば、「希望する」とか「望む」という意味です。しかし、英語としての使い方にははっきり違いがあります。hopeは、実現可能性を信じ、まっすぐ未来に向かっていくイメージが強いのに対して、wishは、どちらかというと、願い通りになるのは難しいと感じているとき、また神に願いを託すときに使います。他方、このニュアンスの違いを増幅させ、決定的なものにしているのが仮定法です。二つの文を比べてみると、canという助動詞が、1の文ではそのまま、canという現在形で使われているのに対して、2の文では、現在形のcanが、過去形のcouldという形で使われていますが、このcouldこそ、英文法に言う「仮定法過去」なのです。しかし、ここでなぜ、「仮定法過去」が使われたのでしょうか。仮定法過去はどのようなときに使うのでしょうか。ところで、「自分は学校や塾で仮定法について一通り学んだけれども、仮定法の何たるかがもう一つしっくりこない」と感じておられる方はいらっしゃいませんか。「そんなの簡単だよ。」と入試の難しい難関校を突破して、英語には大いに自信をもっている方が多くいらっしゃる一方で、「仮定法はもう一つ・・・。」と自信が持てないでいる方も、少なからず、いらっしゃるのではないでしょうか。そこでお尋ねしますが、「仮定法はなぜ、これほど立派な名称を与えられるほどに、重要なものとして扱われるようになったのでしょうか？」とか、「仮定法の一番の使い道は、何？」などと、疑問を持たれたことはありませんか。「そんなことはどうでもいい。一通り仮定法のことは分かっている。もうそれで充分さ。」ということでしょうか。それとも、「そんな突拍子もないことは考えたこともない。」と思われましたか？実は、私たち日本人が英語を学ぶ際、この程度のことは当然知っておくべきなのです。では、私たちが、仮定法の真実に一歩近づくためには、どうすればよいのでしょうか。２．後出しじゃんけん的に考えるここは、戦略として、後出しじゃんけん的に考えてみましょう。仮定法という独立した名称があるくらいですから、仮定法には「仮定」ということをめぐる、独自の使命があるはずだと、まず最初に仮定するのです。それを基に、こう考えます。日常のコミュニケーションの中で、ここは仮定法だという独自の活動分野があり、その分野は、それ以外の分野から、すっぱり、ものの見事に切り離されているはずだ、と。つまり、仮定法の世界へ足を踏み入れる、その一歩手前までは、私たちは、これまで通りの普通の世界にいるのですが、或る限界を超えようとすると、これまでの世界との間を明確に仕切る、或る境界が目の前に現われ、これまで慣れ親しんできた、地上の重力の世界を離れて、未知の無重力の宇宙空間へ飛び出すときのような、一大変化が起こる、と予測するのです。でも、そうなると、急に、私たちは地上の世界の、普段の話しぶりを確認しておきたい、という誘惑に駆られるはずです。「私たちは普段、どんなふうに話していたのか？」とか、「私たちの普段の会話を全体的に際立たせる特色は何なのだろう？」などと言う疑問が湧いてくるはずです。この種の疑問に答えを見つけたい、という欲求は、先の予測と表裏の関係にあります。つまり、普段の会話の特色が分かれば、逆に、仮定法の世界の特色もわかるのです。これらの問いに対して、私はこう答えます。私たちは、事実（facts）の確認と、その共有（sharing）に、大きなウエイトを置いて日ごろ会話をしいる、と。朝起きると、新聞やテレビで、何か変わったニュースはないかと気を配ることから始め、隣人と出会えば、その日の天気予報を織り込んで時候の挨拶をし、内外の気になるニュースをめぐって友人、知人と世間話をし、仕事では、目の前の事実や懸案事項について、仲間や上司と相談し、行動プランをめぐって、必要な指示を与えたり、もらったりするでしょう。私たちの身の回りの人間関係において、情報の伝達、共有、共通の価値観の確認、学校や地域社会の中での行動規範の見直し、新たな目標の設定、合意形成、などには、周到な意見調整や議論が必要であり、その責務を担うのは私たちの言語です。ただ、私たちは意見の確認や議論のみに明け暮れているわけではありません。朝から晩まで、息継ぐ暇もなく、理性を働かせて、堅苦しく生きているわけではありません。だれでも、ある程度の心のゆとりを持って生きています。私たちは、当然のこととして、定期的に、気持ちをほぐします。気晴らしやリクレーションが必要だからです。例えば、囲碁や将棋、サッカー、野球などに打ち込んだり、それらの試合をテレビで観戦したり、仲間と冗談を言い合ったり、休日や祭日に旅行に出かけたり、買い物を楽しんだり、家族や友人とレストランで食事をしたりします。それらは、体と心の健康のために、とても大切です。でも、人生の暗く長いトンネルの中にいて、全く気が晴れず、友にも家族にも頼れず、何もかも八方ふさがりで最悪の気分のとき、人はどうするでしょうか。そんな時、人は自分の内面に入り込んでいくはずです。そして、自分一人の世界に沈潜したあと、ふと、力を抜いて、事実とは異なる仮定をします。「もしあの時～だったらきっとうまくいったはずなのに」と、言ってもどうにもならないとわかっていても、愚痴ってみるのです。どんなにかっこ悪くとも、全く構わずに、出まかせでいいから、負け惜しみを言うのです。また、「あの時、一瞬でも迷っていたら、もっと大変なことになっていただろう」と、ありえたかもしれない惨事を想像して、自分を思い切り慰めるのです。あるいは、「もしたった今、～だったらどんなにいいか」と、切なる願望を、敢えて、口にするのです。人は、明らかに事実に反すると分かっていても、仮定の話に聞き入ったり、SFなど、完全なフィクションの世界に長時間浸ったり、誰かのためにひたすら祈ったり、ときには、悪いとわかっていても、執念深く人を恨むことさえあります。人の心は常に穏やかなのではなく、時に、人に言えない苦しみを抱えて、懊悩し、惑乱するからです。何かに触発されて、急に何かをつぶやいたり、思わず大声で、きつい一言を言ってみたくなるときがあります。そのようなとき、英語ネイティブなら、一人の例外もなく、迷わず、口にするのが、仮定法（subjunctivemood）なのです。仮定法（subjunctivemood）は、確定的事実には属さないことであっても、一定の条件の下では、現在、もしくは未来において、想定だけはしうる事柄、あるいは過去のある時点に限ってなら、想定しえた事柄、に的を絞って言及する話法です。これに対して、日常の現実をしっかりと踏まえ、もっぱら事実と判断された限りの情報や意見のやり取りに終始する話法があります。それを英文法では直説法（indicativemood）と言います。すでに述べた通り、英語による日常の言語活動の大部分は、直説法（ただし、英文法では叙実法という言い方もあります）で賄われています。しかし、それにしても、直説法と仮定法という二つの話法が、まるで昼と夜ほどに明瞭に、英語において峻別されるのは何故でしょうか。この二つの話法の間には、一体どのような因縁のギャップが広がっているのでしょうか。日本人の英語学習者ならだれでも知っている通り、仮定法については、どの英文法書も、かなり丁寧に、例文をいくつか挙げて、わかりやすく説明しています。ただ、現実の様々な場面に応じた仮定法の実践的な使い方、きめ細かな注意事項については、必ずしも十分ではない印象があります。仮定法が、ほとんど自動的に作動して、有効に働く範囲、使い込んだときの驚くべき効用や効能、などについては、残念ながら、望ましい解説レベルにはないようです。３．仮定法の重要性
しかし、現実には、仮定法は直説法と変わらないほど日常的に使われており、その重要度も、直説法と少しも変わりません。でも、逆に、仮定法がそこまで重要と言えるとしたら、その根拠は何でしょうか。まず第一に、仮定法は、直説法の外側に位置し、直説法では対応しきれない要請や人の願望に、言葉を用いて、即座に、明確な想念を与え、時には、その想念にエネルギーを託すことで、心を癒し、時には、爆発的に心の鬱屈を晴らし、結果として、仮定法の適切な使用は、人の心の健康の回復につながるからです。敢えて俯瞰的な言い方をすれば、仮定法は、一般的特徴として、直説法の彼方に広がる、無限の仮想的世界に通じています。仮定法は、それを上手に使えば、人間の一生の伴侶とも言える私たちの言語世界を、確実に、そして大幅に豊かにしてくれます。一方、仮定法は、すでに述べた通り、日常の会話の中で、当たり前のように、日々多用されています。例えば、CouldIaskyouaquestionは「ちょっと質問があるのですが、よろしいでしょうか。」くらいの意味で、ある程度丁寧にものを尋ねるときに、頻繁に使われます。勿論、仮定法を使わない言い方、すなわち、MayIaskyouaquestionとか、CanIaskyouaquestionという言い方もありますが、仮定法は、総じて、礼儀にかなった丁寧なものの言いよう、あるいは婉曲な表現が求められるときにつかわれます。たとえば、何か具体的な手助けを申し出た人に対して、Yes,Iwouldappreciateitverymuch.と言えば、「これはこれはどうも、ご親切、痛み入ります。（そうしていただけると本当に助かります。）」という感謝の気持ちをしっかり相手に伝えることができます。「これをしなさい、あれをしてほしい」では人間関係は殺伐としてしまいます。用件のみ述べる直説法では角が立ちすぎるときに、仮定法を使えば、相手の気持ちを慮りながら、穏やかな雰囲気の中、会話を円滑に運ばせることができます。また、IfIwereyou,Iwouldneverdothat.「さあ、そこはどうでしょう。（もし僕が君だったら、それは決してしないだろうな。）」と、こちらの反対をやんわりと暗示したいとき、またO,whatshouldIdo「こいつは弱った！（あー、どうすればよいのだ。）」と切羽詰まった強い感情を吐露するとき、また宮崎駿がアニメ化して有名になった『ハウルの動く城』で、ある日母親の留守に店番をしていた主人公で、12歳の少女が、いきなり荒れ地の魔女に襲われ、90歳の老婆に変えられてしまった悔しさを、一日置いて思い出したとき、思わず、O,whatwouldInotdo「ええーい、今に見ておれ！（あー、私は何をしないでおこうか？）」と口走るとき、また、デンマーク王の急死の後、本来ならその跡を継いで王になるはずだったデンマーク王子のハムレットが、得意の早業で母親と再婚し、あっという間に王位についてしまった叔父クローディアスに、何度も息子呼ばわりされた後の悔しさを、舞台上に一人残された際の独白（第一独白）の冒頭で、Othatthistootoosolidfleshwouldmelt,Thawandresolveitselfintoadew!「がっしりと硬い、この肉体が、一思いに溶けて、崩れて、露となってしまえばよいものを！」とぶちまけ、怒りと絶望に苛まれながら身もだえするとき、仮定法は、広大無限の想念の世界の中で、常人の思いもよらない強度と深度で、私たちの魂を鷲掴みにします。仮定法は、それを使いこなす人間の運用能力次第で、得られるメリットは無限に増大し、使い勝手も極めて良く、鬱屈した心を見事に解き放ちます。結果的に、仮定法の使用範囲も、その効果も、幾何級数的に広がっていくのです。４．仮定法は誤解されやすいしかし、日本語の場合、少なくとも表立っては、仮定法という叙法の存在は表明されていません。したがって、主語、目的語、補語という英文法の基本概念、また、他動詞と自動詞の区別など、日本語の文法には、少なくとも明示的には、存在しない多くの文法用語や概念と同様、日本人英語学習者には、仮定法なるものの真の意味は開示されることなく、もっともらしい名称のみが、未習熟の日本人の間を、したり顔で、独り歩きしてきたのです。教える側にも、仮定法をめぐる状況の真の深刻さは十分に把握されないまま、とりあえず、試験対策にだけは資する、いくつかの定番的な表現の暗記を促す、といった範囲内でのみ注意喚起がなされ、日本人学習者に望ましい、本来の、十分に柔軟な、手厚い対策は、ほとんど講じてこられなかったのです。仮定法は、よほど明確で的確な説明がなければ、日本人には、最終的に、理解しがたい叙法です。でも、それでいて、なんとなく分かったつもりでいる人も多いのが、かえって厄介です。詳しく見ていけば、学習の完了していない人の大半は、仮定法の本質をどこかで誤解しているケースが多いようです。日本人の英語学習者のうち、特に初心者にとって、仮定法は、どこが、どのように、誤解されやすいのでしょうか。日本人は、「仮定」という言葉に簡単に引っ掛かります。仮定法と言うくらいだから、きっと何かを「仮定」するに違いない、と考えます。そこで条件反射的に思いつくのが、接続詞Ifを使った文です。「もし～ならば」という条件文を念頭に置き、接続詞ifで導かれる従属節と、それを受ける主節とで構成される文こそ仮定法に違いない、と決めつけるのです。彼らにしてみれば、一応立派に、理屈は通っているので、自分を疑うことをしません。でも、これは全くの誤解です。そもそも、仮定法はif節とは無関係なのです。でも、if節と関係ない、とはどういうことでしょうか。確かに、ifを使った文は、何らかの条件、あるいは仮定の上に成り立つ文です。例えば「もし君にいくらかお金の持ち合わせがあれば、千円貸してくれない？」と友人に頼む場合、この文は、その友人に「千円以上のお金の持ち合わせがある」という仮定、つまり「千円以上のお金の持ち合わせがある場合にのみお願いしたい」という条件付きの依頼文です。でも、ここで考えてほしいのは、仮定法は現実的なことにはかかわらない、という法則があることです。非現実、不確実、100％の空想、仮想世界、の中でしか生き延びられない文が、仮定法の文だということです。これは仮定法の基本的な法則です。誰が何と言おうと、仮定法は非現実しか扱わないのです。ここが根本的に誤解されています。仮定法がもつ、この大原則を目の前において、もう一度、先ほどの文を見て下さい。「もし君にいくらかのお金の持ち合わせがあれば」という条件自体には、特にこれと言った非現実的要素は含まれていません。なぜなら、友人が千円以上のお金をある時点で所持している可能性は、一円が現在の千円以上の価値を持っていた戦前ならいざ知らず、この令和の現代においては、相当、高いはずです。むしろ、平均的な大人なら、所持していない確率のほうが、ずっと低いはずです。同じ仮定でも、「もし君が10億円以上持っていたら、1万円貸してくれる？」という話とは質的に異なるのです。こちらなら、仮定法が成立します。つまり、現実に友人が所持していても不自然でない金額の所持を条件に借金を申し入れた場合、条件自体の非現実性は認められません。「貸してください」というお願いの方に、むしろ文意の重心があります。ですから、この会話の肝は、普通ではありえない条件の設定を敢えてしないところにあるのであって、借金を申し入れる友人が多分千円以上を所持しているこを想定して、「悪いけど、ちょっと千円貸して。」と言っているのです。相手が気心の知れた友人であることに甘え、強要にならない程度に、気兼ねなしの借金を申し入れているのです。このように、現実に満たされる確率が十分に高い条件を織り込んだ、人への頼みごとは、現実にはありえない条件を前提とする（例えば、「もし僕が君だったら」など）本来の仮定法とは関係ないのです。前者の場合は、晴耕雨読式に、条件AにはX、条件BにはYの帰結が、それぞれ待ち受けている、と言いたいだけなのです。A、Bのいずれの場合も考えられる条件の場合には、「千円貸してください。」は、どちらかというと、実質的な命令文と言ってもよいのです。文の種類としても、これは、仮定法ではなく、直説法なのです。５．ifが仮定法を導く場合でも確かに、ifで始まる節が仮定法の文を導く場合があります。たとえば、IfIhadonethousandyenwithme,Icouldcertainlydrinkacupofcoffeehereinthisshop.（「もし今自分に千円の持ち合わせがあれば、間違いなく、この店でコーヒーを一杯飲んでいけるのに。」）というときには、同じようにifが使われていても、実際には「私」には千円の持ち合わせがないのです。したがって、現実には、コーヒーは飲みたくとも飲めないのです。ですが、この文はそういう現実を、動かせない事実として、百も承知の上で、未練がましく、「千円あれば、一杯のコーヒーが飲めるのに」と悔しがっているのであり、この文は、一点の現実も伴わない、仮想に身を置いた「空文（からぶん）」なのです。この「空文（からぶん）」という言葉は文法用語として定着しているわけではありません。ただ、説明の便宜上、間に合わせとして使わせていただきます。そこで、ある文が仮定法であるのかないのかの判断に迷った時は、それが現実を実装した「実文（じつぶん）」（私が今しがた使った「空文（からぶん）」と対をなす説明用語）なのか、それとも現実が実装されていない「空文（からぶん）」なのかを、じっくり見定めるとよいのです。でも、仮定法という文法用語を持たない日本語を母語とする学習者には、この点が誤解されやすいのです。そこで、私たち日本人学習者は、この厳しい現実をひるむことなく正面から見据え、覚悟を決めて、意図的に、何度でも踏み迷い、間違う経験を、歯を食いしばって、積み重ねる必要があります。それは痛みを伴う訓練です。でも、私たちは、この厳しい試練を、勇躍、一気に、畳みかける如く、乗り越えることが肝要なのです。それには、いくつもの紛らわしい例文に当たり、それらの正しい解釈と正確な分析を精読し、辛抱強く、最後まで立ち向かい続けることが大切です。そうしているうちに、私たちに、ふと、仮定法の神髄に触れる時が必ず訪れます。そして、何年も、あるいは何十年も、仮定法とつきあっているうちに、もはや、それと意識することなく、仮定法と直説法を瞬時に見極めるコツが身につきます。そこで、早速ですが、典型的な仮定法の例文を見ていきましょう。６．仮定法の例文次の例文を見て下さい。これらを一目見て、何か気づくことはありませんか。仮定法はcouldやwouldが使われることが圧倒的に多いのです。ほかにも、mightやshouldなどがよくつかわれます。1．CouldIhaveaglassofwater,please2.Wouldyouliketohavesomemorecoffee3.Couldyouspeakalittlelouder,please4.Iwouldliketostayhereforanotherweek.5.Howcouldyoudothistome6.Agentlemanwouldneverdothat.7.Youcouldhavelostyourlife.8.Itshouldbeallrihgt.9.Couldbe.10.Hemighthavemadeafatalmistake.例文1は、聞きなれた表現の一つで、「申し訳ありませんが、水を一杯いただけないでしょうか。」という意味です。この文の最後のpleaseは、ifyoupleaseの短縮形であり、多分、s'ilvousplaisというフランス語から来ており、このフランス語を直訳すれば、ifitpleaseyou（「もしそれがあなたを喜ばすなら、～していただけないでしょうか？」）です。このように、pleaseは、もともと条件節を構成していたのですが、「それがあなたを喜ばせるならば」という条件自体が「そのことはめったにあり得ないことであり、もしそれをしていただければ、私には大いに名誉なことであり、この上ない喜びです」という含みを前提にしています。また、ものを頼むのに、ここまで謙虚になれるか、というくらいにへりくだっているからこそ、この文は、礼儀にかなった言い方と受け止められるのです。めったにないこと＝非現実＝望外の喜び、という公式が成り立っていることに注意してください。同じように、CouldIhaveyourname,pleaseという言い方も、へりくだって、「お名前をお伺いしてもよろしいでしょか？」という意味になります。このように、めったにない、すなわち、起こる確率が極めて低い、という意味での「非現実性」を発条（ばね）にした謙譲表現である、というところが仮定法のこのタイプの、一種、パターン化した使い方の肝です。そして、この種の言い方は極めて広く応用が利くことに注意してください。例えば、Couldyouwaithereforanotherfiveminutes,pleaseと言えば、「ここでもう五分だけお待ちいただけませんでしょうか？」という丁寧なお願いになります。同様に、Coulditbepossibleforyoutogivemejustfiveminutesformyvindicationといえば、「誠に申し訳ありませんが、五分だけ私に申し開きの機会をお与えいただけないでしょうか。」という意味であり、礼儀を弁えたの嘆願文になります。couldは仮定法でよく使われる助動詞ですが、元来はcanの過去形なので、当然、canの元の意味を継承しています。canは能力と可能性の両方で使われる助動詞です。Icanswim.は勿論「私は泳げる。」という意味ですから、「私」の能力を述べています。同様に、ShecanspeakFrench.も「彼女はフランス語が話せる。」という意味ですから、「彼女」の語学能力について述べています。ところが、CanIhelpyouはご存じのように「私はあなたをお助けしてもよろしいでしょうか？＝（あなたは私に）何か御用がありますか？」という意味です。ですから、このcanは自分が相手を手助けする「許可」をもらおうとする表現です。同様に、CanIsithereは、「この席に座ることはできますか？＝この席は空いていますか。」という意味で、「この席」に座ることの「可否」について尋ねる文です。少し紛らわしいの例として、Canyouspeakalittlelouder,pleaseは、「もうちょっと大きな声で話してくれませんか。」という意味です。これは、相手の能力を尋ねる文としても機能しえますが、そこから転じて、「あなたにそれができれば（＝可能であれば）もっと大きな声で話してもらいたいのですが」という依頼文にもなるのです。ですから、Willyouspeakalittlelouder,pleaseとほぼ同じ意味になります。こういうわけで、仮定法でcouldを使う場合、「わずかでもできる可能性があれば、～してもらたい」という意味になるのです。couldの場合には、相手の気質や、たまたまその時、相手が持ち合わせていた気分など、センシティブな要素が絡んでいて、実現の可能性が極めて低い事が前提になっているため、それでも、もし、あなたがそれをやっていただければ、本当に、感謝です、という気持ちが前面に出るのに対して、canの場合は、先ほどの例文Canyouspeakalittellouder,pleaseのように、「あなたにそれがお出来になるのは分かっています。お願いですから、そうしてくださいね。」というニュアンスで、ストレートに、押しの強い要求、要望を、相手に伝えるのです。ですから、3の例文のように、Couldyouspeakalittlelouder,pleaseと言えば、今度は打って変わって、「あなたにそれをお願いするのは心苦しいのですが、特別のお計らいで、そのようにしていただければ、望外の幸せです」いうニュアンスが、相手に伝わります。例文２のWouldyouliketohavesomemorecoffeeは「コーヒーのお代わりはいかがですか？」という意味で、招待したお客様などにコーヒーのお代わりを勧めるときに使う定番表現です。wouldはwillという助動詞の過去形であり、willが本来持っている「意志」の意味を常に保持しています。ですから、コーヒーのお代わりに対しても、相手の意志を重視していますよ、という意味合いが相手に伝わります。「ひょっとしてあなたは～する意思をお持ちでいらっしゃいますか」という風に、相手の意志があるのかどうかの確認を細心の注意をもって行い、その上できちんと対応いたします、という姿勢が、相手に伝わるのです。例文４のIwouldliketostayhereforanotherweek.は「私としましては、さらにもう一週間、ここに滞在していたいものですね。」という意味です。「私はどちらかと言えば、そうしたい」という意思を婉曲に表明するときの決まった言い方です。この言葉の背後には、「そちら様のご事情もおありでしょうから、決して無理をなさらないでください」という、心遣いと余裕が感じられます。まさに、大人の表現です。例文5のHowcouldyoudothistomeは「君、よくもまあここまでやってくれるな。」というほどの意味です。あきれてものも言えない、というショック状態の表現なのです。「こんなひどいこと（ありえないほどに）を僕に対してやってのけるとは、どういう了見だ？」と目をむいて相手に迫る雰囲気もあります。「どうしてこんなことを僕に？」といぶかる気持ちもこもっています。かなり複雑な思いが交錯している表現なのですが、通奏低音の如く一貫しているのは、「信じられない、ありえない」という驚きです。この文のcouldは助動詞canが元来持っている能力と可能性という二つの意味のうち、可能性の例文に属します。例文６のAgentlemanwouldneverdothat.は「（もし彼が）紳士ならあんなことは決してしないさ。」というほどの意味です。何か紳士らしからぬことをしでかした「彼」のことをこき下ろしている場面です。「もし彼が紳士ならば」という条件がAgentlemanに隠されているのです。仮定法過去の助動詞wouldを使うことで「きゃつは人でなしだ。」という強い非難の意味が、これを聞く人に伝わります。例文7のYoucouldhavelostyourlife.は「君はもう少しで命を落とすところだったよ。」という意味です。この文に使われたcouldは、先に見た助動詞canの二つの意味のうち、可能性を引き継いでいます。つまり、couldはここでは、「まかり間違えば」というニュアンスの意味合いを伝えます。したがって、「君は、君自身のほんのちょっとしたミスでも、間違いなく死んでいたよ。」という、生死を分ける危機一髪の恐ろしさ、危うさを強調する仮定法の典型例です。ニュアンスとしては「九死に一生を得た君は、よほど強運の持ち主だったんだね」という意味合いが、この言い方の背後に張り付いています。例文８のItshouldbeallright.は「それでいいはずなんだが。」という意味です。自分としては最善と思われる手を打ったが、それで安心かと言えば、全くそうではない、という強い不安が覗いている表現です。仮定法は、このように、事態の不確実性を強くにおわせる必要があるとき、使われるのです。これにたいして、mustを使って、Itmustbeallright.（「きっと大丈夫さ。」）と言えば、自分が自信を持っていいることを強くアピールするときに使われる表現になります。例文9のCouldbe.は「かもね。」というくらいの意味で、よく使われます。聞かれた方も多いと思います。可能性は決して高くはないが、さりとて完全には無視できない、というとき使う表現です。ここでも真実は藪の中、と言わんばかりに不確実性が、かなり露骨に匂います。例文10のHemighthavemadeafatalmistake.は「彼はひょっとして、致命的な間違いを犯したかもしれない。」という極度の心配、不安、を伝える文です。ニュアンスとしては「彼はとんだドジを踏んだかもしれない。」という強い疑い、懸念、危機感を伝えます。では、どこが仮定法なのでしょうか。mightはmayの過去形ですから、本来の意味は「～してもよい」という許可と、「～かもしれない」という可能性の二つを伝えることができます。例えば、Youmaygonow.は「君への用は済んだから、お帰り。」とか、「お前は下がってよろしい。」という上から目線の許可を与える言い方です。ところが、Itmaybeagoodidea.と言えば、「それは案外いい考えかもしれないね。」という意味で、ポジティブな可能性を表明します。ですから、mayを使って、単なる可能性の問題としてHemayhavemadeafatalmistake.という言い方もあり得ます。その場合は「彼は致命的なミスを犯した可能性がある。」という客観的な可能性、起こり得る確率の問題として処理されます。ところが、Hemighthavemadeafatalmistake.だと、「（まさかとは思うが）彼は致命的な間違いを犯したかもしれません。」と言っているのであって、ここでは、それが虚報であってほしいと祈りつつ、同時に、その可能性が排除できない深刻さに愕然としているのです。７．まとめいかがだったでしょうか。仮定法が少しは整理されたでしょうか。仮定法の難しさ、仮定法のすばらしさが、多少なりとも分かっていただけたなら、本当にうれしいです。仮定法は使えてなんぼです。使わなければ、使えないのと一緒です。人間は理性の動物であると同時に、それ以上に感情の動物です。仮定法は、可能な限りの想念を解き放つことによって、人間の内なる感情に影のようにぴったり寄り添う叙法です。叙法一般を英語ではmoodと言います。moodは気分という意味です。人間の気分は、まるで天気のように、晴れたり曇ったり、雨が降ったり、雪が降ったり、時に激しい嵐になったりします。直説法、命令法、仮定法が、人間のどんな気分にも寄り添えるように、いつでも待機してくれるているのです。直説法が普通の話し方だとすると、命令法は少し声を大きくして命令します。仮定法は、通常のコミュニケーションが取れないときの、切羽詰まった心を映します。それはしばしば、悲痛な、あるいは絶望の叫びです。IwishIcould.は「それができるとほんとによかったのですが。」と、可能性が皆無であることを、絶望的に伝える一言なのです。わざと過去形を使うことで、絶対的非現実性を示唆しているのです。「一昨日（おととい）来い。」という表現に似ています。ですから、couldは、非現実の世界のことを扱うときの符丁として使われているのです。私の示した日本語訳でも過去形が使われていることに注意してください。過去形は、日本語においても、妄想や空想の世界のことだ、ということを人に知らせる働きをするのです。「お手伝いできるとよろしいのですが」と「お手伝い出来たらよかったのですが」との違いと、英語における直性法と仮定法の違いとが、見事にパラレルなのは面白い現象です。冒頭の議論で述べた、現実と非現実とを分ける境界線とはこのことです。時制を一個ずらすのが法則だ、というのは現象面の指摘としては正しいのですが、なぜそうするのか、という理屈は置いてきぼりにされています。私たち日本人学習者には、両方が必要なのです。
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<link>https://easyspeak-english.com/blog/detail/20230213161926/</link>
<pubDate>Mon, 13 Feb 2023 16:39:00 +0900</pubDate>
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<title>完了時制が可能にした時間視野（time view）の拡張</title>
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現在完了をスマートに使いこなすために１．なぜ完了時制の公式は「have＋動詞の過去分詞」なのか？完了時制の公式は、誰もが知っている通り、「have+動詞の過去分詞」です。しかし、その公式の意味を、公式の構成要素にまで目配りしつつ、きちんと納得のいく説明をしている文法書は見たことがありません。それを丁寧に説明しないのは、英語圏では自明の公式だから、ということなのでしょうか。でも私たち日本人の多くは英語圏で暮らしているわけではありません。そこで、日本語母語話者の私は、敢えて問います：「なぜ現在完了の公式は《have＋動詞の過去分詞》なのか？」と。私たち日本語母語話者たちが学校で学ぶのは、現在完了の公式の構造的な意味ではなく、現在完了の「用法」です。それは、完了と継続と経験に分けられると教えられます。しかし、現在完了と言う公式は勿論、それに似た概念すら持たない日本語の母語話者たちである日本人英語学習者が、学校でそれを学び、その三つの用法とやらを教えられても、すぐさま完了時制に習熟し、日常英会話において正しくそれを活用できるかと言えば、実際はかなり難しいかもしれません。ひょっとしたら、何年経っても自在に使いこなせないかもしれません。そこで私は、それらの各用法を明確に区別し、実際の場面でも有効に使いこなせるようになるための基本例文を紹介し、それぞれの文の意味と用法を懇切丁寧に解説し、併せて、先ほどの質問、すなわち、「なぜ完了時制の公式は《have＋動詞の過去分詞》なのか？」について、基本的な考察を加えます。そしてその際、完了時制が可能にした「時間視野（timeview）の拡張」と私が呼ぶ、特殊な、そしてよく考えられた、言語上の仕掛けを、日本語にも見られる類似の仕掛けと比較しながら解説します。そしてその後に、もう少し広い視野に立って、完了時制一般の戦略的役割に触れながら、シェイクスピアの名作『ハムレット』の原文から興味深い事例を取り上げ、参考に供します。1.Everthinghasgonewiththewind.（何もかもが風と共に消えてしまった。）[完了]2.Ihavebeenreadingthisnovelallthisweek.（僕はこの一週間、ずっとこの小説を読んできた。）[継続]3.IhaveneverbeentoNewYork.（私はまだ一度もニューヨークに行ったことがありません。）[経験」4.Ihaveseenhimseveraltimes.（僕は彼に何度か会ったことがある。）[経験]5.Hehasfinishedreadingthenewspaper.（彼はたった今、その新聞を読み終わりました。）[完了]6.Shehashadnodoubtabouthisintegrity.（彼女はこれまでずっと彼の誠実さを疑ったことがない。）[継続]例文1は、「（大切な）何もかもが、風と共に消えてしまった」と言う意味です。windに定冠詞theが伴っていることに注してください。一陣の風ならawindと表現するところですが、thewindと言ったのは特定の「風」（比喩的に言及された疾風怒濤の出来事）を指しています。この文は、自分の周囲の物や人や生活が、ある驚天動地の出来事によって、忽然と眼前から消え去ったことを述べているのです。それらは失ってはじめてわかる極めて大切なものだったのですが、それらが根こそぎ失われ、二度と戻ってこないことが引き起こす失望と悲しみ、手痛い喪失感を伝えています。アメリカの作家マーガレット・ミッチェルが、アメリカ南部に住む激しい気性を持つ美貌の女主人公の恋を、雄大なスケールの南北戦争を背景に描いたベストセラー小説、そして映画でも大ヒットした『風と共に去りぬ』GonewiththeWindを思い出す人も多いでしょう。goneはgoの過去分詞で、goには本来、「～の元を去る」「～を辞する」「～から消え去る」というような意味があります。命令法では「さあ、行け」という意味でも使われます。いずれにしても、もうここには居ない、あるいはもういなくなる、という意味を持つところに全体的な共通項があります。hasgoneだと、「行ってしまった」「消えてしまった」「もう、ここには居ない」あるいは「もう無くなってしまった」という感慨、一種の喪失感が漂います。それにしても、完了形を使うと何故こんなに激しい感情や、尋常ならざる深い含意が伝達できるのでしょうか。全くもって、魔法的ではありませんか。これでも、この公式の、ほんのちょっとした、しかし決定的な効果を伴う、言語上の「仕掛け」を論ずることは、学習者にとって、一顧だに値しないほど無価値で無意味でしょうか？うーん、言われてみれば少々不思議だなと思われた方は、さきほどの問題に答えを出すチャンスに巡り合っています。早速、解答への取っ掛かりを見つけに行きましょう。私がお勧めするのは、次のように問うことです――「hasgoneにおいて、hasが果たしている役割は何か？」と。あるいは、もっと一般化して「完了時制においてhaveが果たす役割は何か？」と問いかけることです。それは、「～を持つ」、あるいは「～を所有する」と言う意味で使われる他動詞のhaveが、何ゆえに、完了時制の公式の一部として使われているのか、と尋ねることに等しいのです。しかし、この問題に答えるには、もう一つの素朴な問い、すなわち、なぜここで現在形のgoではなく、過去分詞のgoneが、他動詞haveの目的語として用いられているのか？という問いを発し、これにも同時並行的に答える必要があります。なぜなら、完了時制には、現在完了形（have＋過去分詞）のほかに、過去完了形（had＋過去分子）、未来完了形（willまたはshall＋have＋過去分詞）という形もあり、それらのすべての形に共通している要素こそ、動詞の過去分詞だからです。ここに見られるhaveと過去分詞の何とも奇妙な取り合わせは何を意味するのでしょうか。そして何よりも、完了時制の公式に見られる過去分詞へのこの偏執的なまでのこだわりは、一体何を物語っているのでしょうか。私の見立てでは、haveと過去分詞とは、ある一つの共通の目標を果たすために、離れ業的な連携をしているのです。まず、過去分詞が使われた意味を考えてみましょう。私の見るところ、過去分詞は、所与の動詞の意味を、その現在性においてではなく、過去性において把握し、それをそのまま、永久保存する方便として使われたのです。そう考えない限り、つじつまが合いません。つまり、一旦、過去性を際立たせる語形（=過去分詞）を所与の動詞に与えることで確保した動詞の過去性を、今度は、改めて、私たちの現在の意識に手繰り寄せるための牽引装置として、「（～を現在において）持つ」と言う意味をもつ他動詞haveが用いられたのです。haveはこうして、過去分詞という独自の形式に永久保存された過去性とののっぴきならぬ連携を通じて、現在という時間視野（timeview）の中に過去が入り込み、その過去が現在に包摂される道を開いたのです。先ほど、haveと過去分詞とが、ある共通の目標のために連携していると言ったのは、このことを指します。私のこの作業仮説を踏まえて、もう一度、例文1の意味を考えてみましょう。この作業仮説に従えば、goneはgoの過去分詞ですから、goの意味を、現在性ではなく過去性において把持しています。つまり「～が行く」ではなく、「～が去った」状態、または「～が空無化した」状態を、goneという過去分詞が固く堅持しているところに、haveが加わります。するとそのhaveは「～が去った」状態、もしくは「～が空無化した」状態を所有することになります。言い換えれば、haveは「すべてが空無化してしまった状態」を「（現在において）把持する」のです。それは、一般化して言えば、「haveは所与の動詞の過去性を現在において把持する」ということです。これは一体、どういうことなのでしょうか。これに正しく答えるには、haveという動詞のある特徴をおさらいしておく必要があります。例えば、Ihavethreebrothers.と言えば、「私には三人の兄弟がいます。」という意味です。日本語の感覚では少しおかしいのですが、英語のhaveは何かを「所有している」というよりも、何かの存在を宣言するときに使われるのです。ほかにも、Ihaveaheadache.と言えば、「私は頭痛がする。」という意味です。これは、「私は頭痛を（内部に）所有する」というよりも、「頭痛が（私の内部に）存在している」というのが日本人の感覚だということです。このような例から、日本人が「～が（私の中に）存在する」ととらえる現象を、英語の母語話者はしばしば「（私は）～を持つ」と捉える傾向のあることが分かってきました。日本人には少しなじみにくいhaveのこの意味特性を頭に置きながら、英語の完了時制の戦略をさらに深く読み解いていきましょう。２．完了形におけるhaveの役割現在完了の公式は、すでに明らかになった如く、「何らかの（過去の）変化」を、「（今現在も）把持する」ためのものです。それは、過去を忘却の淵に追いやるのではなく、現在において生かす作業を意味します。つまり、現在と過去とを、その間の変化や変容をふくんだまま、一つの地平において繋ぐことを意味します。完了時制は、大切な過去の出来事を、何らかの方法で、現在も保持し続けたいと願う人間の切なる思いを受け止める装置なのです。逆に言えば、現在完了の公式は、haveによって確保される「現在」の視野（viewofthepresent）をそのまま時間軸に沿って後ろ向きに（＝過去に向かって）拡張していきます。そして、そこで遭遇する過去の出来事を、このようにして拡張された「現在」の時間視野（extendedtimeviewofthepresent）の内部に取り込み、包摂する作業（reachingoutintothepasteventstoincludethemwithinthisextendedtimeviewofthepresent）こそ、現在完了という公式が果たしている作業任務であり、その作業を実務的に可能にすることこそ、完了時制においてhaveが果たすことを求められている戦略的な役務なのです。以上をまとめると、現在完了は過去に始まった行為や事象の、現在までの継続状態、もしくは、過去に起こったことの大いなる影響が、途切れることなく持ち越されて、今もなお色濃く存在していることの確認です。このことを、早速、例文2に適用してみましょう。すると、この文は「僕はこの小説を、この一週間ずっと読んできた」と言う意味であり、「（私の）読書行為の（称賛に値する、熱烈な）継続的実在」を、ある種誇らしげに、伝える文だということが分かります。つまり例文２は、「僕は、この一週間一日も途切らすことなく、その小説を読み続けている」のであって、それを読み始めたのがたまたま「一週間前」だったということなのです。３.beenの役割例文3は、「経験」にまつわる完了形の使い方を説明するためによく使われる典型的な英文です。意味は「私はまだ一度もニューヨークに行ったことがありません。」です。なるほど意味はすっきりと明確であり、これが「経験」を表す英文であることは即座に分かります。けれども実は、この英文は見た目ほどに簡単ではありません。なぜなら、「行く」と言う意味を伝えるのに、goではなく、been（be動詞の過去分詞）が使われているからです。日本人はきっと戸惑うはずです、「なぜ、goではなく、beenなのか？」と。その理由は、もしgone（goの過去分詞）を使うと「（ニューヨークへ）行ったことがある」ではなく、「（ニューヨークへ）行ってしまった」という意味になるからです。というのも、goは「～から去る、いなくなる」という意味を伝えるときに使う語であって、「行ってきた」体験、すなわち、「（私がニューヨークへ）行って戻ってきた」体験を語ることはできないのです。例えば、HehasgonetoNewYork.と言えば「彼はニューヨークへ行ってしまいました。（当分は戻ってきません。）」という意味です。彼がいつ帰ってくるか、またそもそも帰ってくるかどうかも不明です。そこまで関知しない突き放した言い方なのです。つまり、goは「片道切符」の旅には使えますが、「往復切符」の旅には使えないのです。ではなぜ、be動詞の過去分詞beenが代用されたのでしょうか。それは次のような理由によると考えられます。be動詞の本来の意味は、「～が存在する」であり、be動詞自体には「（～から～まで）往復する」という意味はありません。しかし、過去分詞のbeenをneverと共に使うと、「一度も～に存在した（居た）ことがない」という意味を伝えることができます。これは、見方を変えれば、そのままで、「自分は～に一度も行ったことがない」という意味になり得ます。ただし、本来は、「（～が～に）存在する」というとき使う前置詞はinもしくはatです。でも、ここでは、なぜかtoが使われています。それは、toはgoto～（「～へ行く」）という慣用的な言い方を条件反射的に思い出させるからかもしれません。toの方が「移動」の感覚を付与するのに都合がよい、と誰かが判断したからなのかもしれません。もしそうなら、ちょっと強引で姑息な感じもしますが。４．日本語の完了時制への挑戦ところで、一つ非常に面白いことがあります。日本語でも、ある種の、というよりもほぼ同種の、工夫を施すことで、一定程度まで英語の完了時制に似た効果をおさめることが可能なのです。私のこの説は、いくつかの事例から論証できます。例えば、１．「この写真の人を見たことがありませんか？」２．「実は以前に、こんな話を聞いたことがある。」３．「こんなに凄い演奏家には今まで一度も会ったことがない。」もうお分かりですね。上の例文では「見たこと」が「ありません」、「聞いたこと」が「ある」、「会ったこと」が「ない」、というように、「見る」「聞く」「会う」という動詞に「こと」をつけて名詞化し、次に「が」を挟んで「（～が）ありません」、「（～が）ある、「（～が）ない」、というように「ある」という動詞を公式的に使っていることが分かります。そして、「ある」は「在る」ですから、「存在」を表す大和言葉です。ところで、英語で「存在」を表す代表的な語は、勿論、be動詞です。例えば、HeisinNewYorknow.言えば、「彼は今ニューヨークにいる。」という意味です。日本語の「ある」は、「～は～である」という使い方をすることで、be動詞の第二文型のの使い方とそっくりな働きをさせることができます。例えば、「吾輩は猫である」は、英語ではIamacat.と言います。ここでは、日本語の「ある」から派生した「～である」の使い方と、be動詞の一人称単数、現在のamとは、日英両言語に通有の語順の違いを除けば、ぴったり対応しています。日本語の「あるーなし」に英語のhave--havenotが対応しているケースが、完了形以外にもかなり見受けられるのは、日英両言語に見られる共通要素、または類似的言語特性の存在を立証する事例として大いに注目に値します。次の例を見て下さい。１．「彼には三人の兄と二人の妹がいます。」（Hehasthreebigbrothersandtwolittlesisters.）２．「私にはその車を買うだけのお金がありません。」（Idon'thaveenoughmoneytobuythatcar.）３．「何も心配することはありませんよ。」（Youdon’thavetoworryaboutanything.）４．「何か質問がありますか？」(Doyouhaveanyquestions）これらの例は、英語のhaveと日本語の「～がある」が、本来は同一の事象を、二様に捉える言語的方便として、また、取り分け、日英両言語間に見られる対照的な言語的対応事例として、私たちの記憶にとどめる価値があります。これはまた、同一の事象を切り取るのに、複数の異なる言語の型がある、という一般命題としてまとめることが可能かもしれません。５．seenの役割次に例文4は「僕は彼に何度か会ったことがある。」と言う意味です。seeは一般に「～を見る」とか「～を理解する」と言う意味でよく使われますが、ここでは「～を見る」ことも含めて、「（人に）会う」と言う意味で使われています。この文では「何度か（severaltimes）」と言うフレーズが「誰かに会う」というという「文脈（context）」を形成する決め手になっていることに注意しましょう。そして、「会う」は通常、人間同士の「出会い」であって、短時間、かつ「一回性の事象」を強く暗示します。seeの類語であるobserveやwatchが含意として持っている「行為の継続性や観察の客観性」はseeには元々ほとんど認められません。そこで、例えば、「私」が日を改めて「何度か」彼に会ったとしても、そのこと自体は自然なこととして受け止められるのです。つまり、一定の期間幅の中で、数次にわたる会見が彼との間に存在した、ということが述べられているのですから、現在完了の三用法のうちの「経験」を表すと解釈するのが自然です。ただし、この表現は、「私」が彼に会った正確な回数が問題になっているのではなく、自分には「何度か彼に会ったこと（＝経験）がある」というこが、この発言を聞く相手に、含意として、伝わるのです。言い換えれば、「（自分は彼を）ある程度知っている」と言う意味合いが重要なメッセージとして相手に伝わるのです。したがって、例えば、「彼をあなたに紹介することもできますよ」と言う意味すら、言外に含めることも可能です。逆に、何らかの含みを相手に伝えたいと思うとき、好んで完了形が選ばれるのです。会話はコミュニケーションの代表的手段です。そして言語によるコミュニケーションが十分な意味を持つかどうかは、「誰に何をいつどのように伝えるか」にかかっています。完了形は、タイミングを選んで正しく使えば、「人を動かす」強力な梃子となることは明白です。６．現在完了の完了が持ちうる余韻、または含意＝「時間の奥行き（depthoftime）」例文5は「彼は今しがたその新聞を読み終わった」という意味ですが、finish~ingという決まった言い方が使われているため、「～し終わる」という意味が明確に相手に伝わります。しかし、そうなら、単にHefinishedreadingthenewspaperjustnow.でも同じ意味が相手に伝わるのではないかとの疑問が湧いてきます。けれども、完了形を使うと、「彼は今までその新聞をずっと読み続けてきたのだが、今やっとそれを読み終えた」という意味が伝わり、一定程度の緊張の持続、なにがしかの達成感が、そこに付随的に感じられるのです。これを一般化して言えば、現在完了の完了を表す文からは、特定の行為や事象の継続、もしくは連続が前提となることによって、それを聞いたり読んだりする者にとって、「時間の奥行き（depthoftime）」が感じられると言っても同じことです。新聞を読むという行為に引きつけて言えば、例えばある場合には、重厚な記事がいくつもそこに書いてあって、それを今やっとすべて読み終えた、ということを伝えたい発言であるかも知れません。この場合、時間の奥行きとして、彼の新聞を読むという行為の連続性、もしくは注意深く読む作業の継続性、といった超密な時間の厚みの感覚に触れる思いがするのです。他の例を挙げれば、Hehasbeenlivingherefiftyyears.と言えば、「彼がここに住み続けてもう五十年です」という意味になります。「そんなにも長い間～してきた」との感慨が、それを言う「私」から、それを聞く「相手」に伝わるのです。ところが、Helivedherefiftyyears.と言えば、「彼がここに住んだのは五十年です」と単なる一過性の事実を指摘するだけになります。年代記作者か歴史家にふさわしい言い方です。また、Ihavejustreadthebook.と言えば、「僕はたった今その本を読み終わったところだ。」という、ある種の余韻、もしくは共有されうる臨場感が、それを聞く相手に伝わります。言外の意味としては、「今ならいつでもあなたとその本に関する感想の交換をすることができますよ」とか、「その本は、読むのは骨が折れたけれど、内容には十分満足しています」というような意味合いが、一つのニュアンスとして漂いうるのです。これに対して、ItisabookIreadsometwentyyearsago.と言えば、「それはかれこれ二十年位前に読んだ本（の一冊）です」という意味であり、その本をほとんど「自分が読んだか、読まなかったか」にだけ焦点を絞ったような言い方になります。７．経験と継続のはざま例文6のShehashadnodoubtabouthisintegrity.は「彼女は彼の誠実をずっと疑ったことがない」という意味です。「疑わない」という状態がこれまでずっと続いてきている、という意味で、用法は「継続」です。これがもしShehasdoubtedhisintegrityseveraltimes.（「彼女は何度か、彼の誠実を疑ったことがある」）なら、明らかに疑うという行為を何度かしたことが分かるため、用法としては「経験」です。しかし、例文6はそのまま素直に読めば「彼女は、彼の誠実を疑わない状態を、これまでずっと持ち続けてきた」と解釈できるのです。勿論、Shehasneverdoubtedhisintegrity.と言い換えても、同じ意味が通じますが、これだと、「彼女は彼の誠実を一度も疑ったことがない」という意味となり、「疑う」という行為が積極性をもってイメージされます。すると、その行為が「一度もない」と強く否定されても、その行為への言及があることによって、いわば「架空の行為」として、「疑う」という行為のイメージが残像のように残ります。すると、用法としてはむしろ「経験」として分類されるかもしれません。この場合、分類自体にさほど大きな意味はありませんが、聞く人に伝わる微妙な違いをよく噛みしめて表現を選んでください。８．時間に奥行きとダイナミズムを付与する完了時制の効用完了時制は時制一般の中のほんの一部を引き受けるだけですが、これを他の時制、とくに過去、現在、未来、また仮定法と組み合わせることで、私たちの日常のコミュニケーションは、見違えるほど確かで、実り豊かなものになります。完了時制がどのような時に、どんな働きをするかは、文脈がはっきりしている事例にあたると、なるほど、と理解が進みます。実例を挙げてみます。『ハムレット』の第一幕第一場はデンマーク王の亡霊が出る場面ですが、それを見た見張りの兵士たちの会話の中に、さりげなく完了形が使われています。それらはどのような効果をもたらすのでしょうか。BARNARDOItwasabouttospeakwhenthecockcrew.HORATIOAndthenitstartedlikeaguiltythingUponafearfulsummons.Ihaveheard,Thecock,thatistrumpettothemorn,Dothwithhisloftyandshrill-soundingthroatAwakethegodofday;andathiswarning,Whetherinseaorfire,inearthorair,Th'extravagantanderringspirithiesTohisconfine.AndofthetruthhereinThispresentobjectmadeprobation.MARCELLUSItfadedonthecrowingofthecock.Somesaythatever'gainstthatseasoncomesWhereinourSaviour'sbirthiscelebrated,Thisbirdofdawningsingethallnightlong,Andthen,theysay,nospiritdarestirabroad,Thenightsarewholesome,thennoplanetsstrike,Nofairytakes,norwitchhathpowertocharm,Sohallowedandsograciousisthattime.HORATIOSohaveIheard,andinpartbeieveit.Butlook,themorninrussetmantlecladWalkso'erthedewofyonhigheastwardhill.Breakweourwatchup,andbymyadviceLetusimpartwhatwehaveseentonight.UntoyoungHamlet,foruponmylifeThisspirit,dumbtous,willspeaktohim.(HamletPrinceofDenmark,TheNewCambridgeShakespeare,ed.byPhilipEwards,1985,ActI,147-171.)赤で表示した三つの完了形をご覧ください。これらは、「（私はこんな話を）聞いたことがある・・・」とか「（私もそのように）聞いたことがある」とか「（我々が今夜）見たことを（ハムレット王子にお伝えしようではないか）」というように、明らかに兵士たちが噂で聞いたこと、また自分の目で見たことを、目の前にいる相手、またはハムレット王子に、伝えるという文脈で使われており、現在完了の用法としては「経験」であることも容易に見て取れます。では、その効果はどのようなものでしょうか。現在完了は、これまでの議論から明らかなように、何らかの理由で、時間視野の拡張の必要が感じられたときに使われます。特に最後の例は、先ごろ亡くなったデンマーク王ハムレットの亡霊が、深夜、城の見張りの兵士たちの前に現れ、呼びかけても何も言わずにそばを通り過ぎたので、ハムレット王子になら何か言うかもしれない、と思う場面です。この時、完了時制を使った時間視野の拡張は、これらの出来事を一旦言語に封じ込めることを可能にします。兵士たちの脳裏に刻まれたその記憶は、王子ハムレットとの、時間差を置いた経験の共有に生かされます。しかし一方では、「今夜我々が見たこと」という風に、一個の「特異な経験」として兵士たちの脳裏に刻み込まれたことが、台詞において、現在完了という処置を施されることで、私たち読者、あるいは観客にも、その経験が生き生きと伝わってくる仕掛けになっています。また、「聞いたことがある・・・」というホレイショ―の言い方は、これから自分が語ることは、不特定多数の人間に共通する記憶として保持されてきた、というニュアンスで語られます。確かに、イエスの降誕は、聖書の中の特異な出来事、とりわけ、世界中のクリスチャンにとって極めて重要な出来事として、キリスト教の中核的伝承に組み込まれています。聖なる神の権威をもって生まれた、光り輝くイエスの存在の前では、あらゆる悪霊や魔物は、恐れをなして地下に潜り、地上から一切の姿を消す、という言い伝えが、『ハムレット』というドラマの中で、デンマーク宮廷の中の隠された悪行と背徳を炙り出し、間接の外れた世を正常に戻すという、崇高な使命を帯びたハムレットの登場を、私たちに期待させる効果につながっています。それにしても、亡霊は一体何を語りたかったのでしょうか。その答えは第一幕第五場まで持ち越されますが、それはこのドラマのメインテーマに関係することです。であれば、ここで使われた現在完了の劇的な効果は、正に、抜群だと言って差し支えありません。
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<link>https://easyspeak-english.com/blog/detail/20221209130748/</link>
<pubDate>Fri, 09 Dec 2022 16:19:00 +0900</pubDate>
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<title>現在完了って何？</title>
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現在完了形を使いこなすには１．完了形を学ぶ難しさ英文法が説く重要な概念の一つは現在完了です。現在完了は、時制（tense）一般の範疇に入ります。そして時制は、私たち日本人も無関心ではいられません。ある行為や事件や事象が、なぜ、どのように起こったのか、また、今も起こっているのか、将来、起こるのか、などの時間意識を含んだ議論は、国会や地方議会、また会社などのあらゆる会議で毎日行われているからです。大災害への備えや対策、パンデミックの反省や予防措置にも、いつまでにどうする、などと、時間意識が必ずついて回ります。人間が、日常生活の中で、時間との絡みにおいて、物事をどう管理し、処理するかを、自分でも考え、人にも伝える際、欠かせない言語上の諸規則が時制なのです。そして、残念ながら、多くの他の英文法事項同様、時制も、日本人の英語学習者が、学習の初期の段階で躓きやすい性質を持っています。なぜでしょうか。それは、日本語の時制は、英語と違って、必ずしも専用の語形変化によらないからです。例えば、「私は昨日病院へ行きました。」は過去のことで、「私は今日もその病院へ行きます。」は近い未来、もしくは現在のことを表します。「～へ行きました」と「～へ行きます」のわずかな違いで、過去と近未来、もしくは過去と現在が区別されています。「行く」という動詞の連用形「行き」そのものは時制の決め手にはなりません。つまり、日本語の動詞の本体には、時制の区別・識別に関する情報は組み込まれていないのです。また、漢字を組み合わせたある種の名詞は、もともと動詞の意味が閉じ込められていて、それに「する」を加えると簡単に、名詞から動詞を作ることができます。例えば、「勉強」や「旅行」や「料理」は、それぞれ、「勉強する」「旅行する」「料理する」というように動詞化することができます。そして、「～する」を現在、「～した」を過去として使うことができます。そして、これを丁寧に言いかえるには、「～します」「～しました」とすればよいのです。ところが、かなりの数の日本語の動詞は、語尾変化に似た語形変化で、現在と過去を区別することができます。「飛ぶ」ー「飛んだ」、「死ぬ」－「死んだ」、「書く」ー「書いた」、「買う」-「買った」、「落ちる」－「落ちた」、「剃る」－「剃った」などがそうです。でも、やはり、日本人の感覚としては、語尾が変わるという印象はあっても、語形が変化したとは思えません。これに対して、日本語の「行く」に相当する語の場合、英語では、１．Iwenttoahospitalyesterday.（「私は昨日病院へ行きました。」）は過去の事柄を述べ、２．Igotothesamehospitaltoday,too.（私は今日も同じ病院へ行きます。」）は現在、もしくは近未来のことを述べます。このように、日本語の「行く」に相当する英語の動詞には、過去時制のwentと、現在時制のgoという語形が存在します。これは一見して明らかなように、同一の語の語形変化であって、決して同一の語の語尾変化ではありません。このように、英語では、ある種の動詞の時制変化は、あらかじめ予想しがたい、不規則な形をとります。しかし、一方で、大部分の一般動詞は、先ほど見た、日本語の語尾変化に似たやり方で、規則的に変化します。例えば、walk（「歩く」）と言う動詞の場合、現在形はwalk、過去形はwalkedです。次の二つの文を見て下さい。３．Wewalkedtothestationyesterday.（「私たちは昨日駅まで歩きました。）４．Let'swalktotheparktoday.（「今日は公園まで歩きましょう。」）同様に、work（「働く」）と言う動詞の場合、現在形はwork、過去形はworkedです。次の二つの文を見て下さい。５．Weworkedeighthoursyesterday.（私たちは昨日８時間働きました。）６．Wewillworkonlyfourhourstoday.（私たちは今日は4時間しか働きません。）例文3では、動詞walkの原型であるwalkに-edをくっつけたwalkedが過去形として使われています。他方、例文4では、動詞walkの原型が、そのまま現在形として使われています。例文5においても、動詞workの原型であるworkに-edをくっつけたworkedが過去形として使われており、例文5では、動詞workの原型が、そのまま現在形として使われています。英文法では、例文1および例文2で取り上げた動詞goのように、時制の変化に応じて、動詞本体の形が、予想を超えて不規則に変化する（時制によるgoの変化は、現在形＝go、過去形=went、過去分詞形＝gone）動詞を、不規則変化動詞と呼んでいます。これに対して、walkやworkのように-edのみを語尾にくっつけることで、現在と過去と過去分詞を区別できる（時制によるwalkの変化は、現在形=walk、過去形=walked、過去分詞形＝walked）動詞群を、規則変化動詞と呼びます。規則変化動詞は、すべての動詞の95%以上を占めます。ちなみに、不規則変化動詞の例を挙げれば、be,have,make,say,take,sing,speak,tell,drink,drive,come,fly,blow,sleep,cutなどがあり、極めて使用頻度の高い動詞を多く含みます。ですから、不規則変化動詞は規則変化動詞より数が圧倒的に少ないからと言って、決して軽んずべきではありません。不規則変化動詞の歴史的由来は古英語研究者の研究に俟たねばなりません（時制によって動詞の形が大きく変わるのは、フランス語の特色でもあり、一般にラテン系の言語の特色です。ですから、日本語の時制との違いは極めて深刻であり、明らかに、語族間の違いに淵源します）が、日本人が、ほぼすべての不規則変化動詞について、現在、過去、過去分詞の、それぞれ異なるスペリングや発音を、きちんと正確に覚えるのは、相当に骨の折れる話です。ところで、言語的に親戚同士のヨーロッパ諸言語とは、かなりかけ離れた文法体系を持つ日本語の母語話者が、英語の時制を学ぶとき、be動詞においては、過去、現在、未来の「時制」と、一人称、二人称、三人称の「人称」との組み合わせで、動詞の語形が目まぐるしく変化することを知って驚きます。ところが、さらに、同じ時制でも、進行中の運動や作業や変化などを表現する「現在進行形」や、様々な事象・運動・行為についてのある種の叙述は、「完了」、「継続」、「経験」の三相に使い分けられる、と知るのは、これに輪をかけた驚きです。そして、後者は「現在完了」と呼ばれます。このように俯瞰的に見るとよくわかるのですが、英語は、実は、きちんとルール化された時制が、複雑に、しかし、整然と機能している言語なのです。ただ、ここまでくると、日本人の初歩の英語学習者は、言葉を失ってしまいます。果たして自分は、いつの日か、これらの規則を十分に使いこなせるのか、と不安になるはずです。そして二言三言の短い説明ではとても把握しきれず、それらの有用性もしくは必然性の議論については、これまでのところですでにパニックに陥るか、意気消沈するあまり、説明を求める気さえ起きないかもしれません。はっきり言って、日本に生まれ、すでに10歳前後まで日本で生活してきた幼い日本人にとっては、これらの法則は理解不能です。従って、この壁を突破しようとすれば、手厚く、思い切った量の学習支援が必要なのです。そこで、すでに自分の経験に照らして危惧を持つ親たちは、現行の学校教育では不十分であることに鑑み、せめて次の世代にはあのつらい思いをさせたくないと思って、子供たちを最寄りの塾に通わせます。しかし、肝心の塾での時制の教え方はどうでしょう。ひょっとして、テストで追い立てたり、和訳を添えた例文をいくつか示すだけに終わってはいないでしょうか。与えらえた英文の和訳がなぜそうなるのか、また、現在完了の例を示した英文は、「完了」、「継続」、「経験」のいずれに属するか、なぜそう判断するのか、などを学習者が完全に納得できるまで、みっちり指導する必要があります。２．現在完了に関して、血の通った説明をする必要性ところで、このような学習支援を行う場合、勿論、しかるべき指導効果を挙げる責任は教える側にある、と言えます。日本人が英語を学ぶ際の厳しい現実をしっかり踏まえたうえで、私たちは、通り一遍の説明に終わることなく、それに「血の通った」説明を加える必要があります。一般論として、英文法は、平等にその恩恵が行き渡ってほしいものです。でも、どの言語を母語に持つかによって、明白なハンディキャップが存在します。日本語文法と大きく異なる英語文法は、公式化できるものは全て公式化し、これを徹底的に覚えることが先決であり、それが日本人の英語学習の基礎を構築します。ただし、それを学習者が自家薬籠中の物として、自在に応用が利くレベルにまで高めるには、教える側に、その目標値を設定する意味において、十分な時間を割き、しかるべき例文を用いて、血の通った説明をする義務が存在するのです。現在完了形は、誰でもすぐそのありかを指摘できます。それは「have＋動詞の過去分詞」という目立った、特別な形をとっているからです。そこで私は、公式としての完了形が、一旦、学習者の頭に入った時点で、次の質問を発します。「英語の現在完了は、どんなとき、効果的に使われるのでしょうか？」日本人の英語学習者は、現在完了形の公式を正確に覚えた時点で、早とちりをして、自分は現在完了をすでにマスターしたと思いがちです。しかし、もしこの質問に答えられなければ、まだ完了形を自在に使いこなせる段階にはないかもしれません。習熟するには、現在完了形が効果的に使われた実例をじっくり味わうことが一番の近道なのです。３．『嵐が丘』に使われた現在完了形そこで、現在完了形の典型的な事例を一つ、皆さんにご紹介します。そして、ここでなぜ現在完了形が使われたのかを考えてみましょう。それは、EmilyBrontёの『嵐が丘』の書き出しに出てきます。まずは、岩波文庫版の『嵐が丘』（河島弘美訳）の冒頭部分を、日本語訳で引用します。「一八〇一年――家主をたずねて、いま戻ったところだ。厄介な近所づきあいもあそこだけですむ。じつにすばらしい土地だ。騒がしい世間からこれほど隔絶したところは、イギリスじゅうさがしても、おそらく見つかるまい。人間嫌いにとっては、まさに天国のようだ。そしてこの寂しさを分かち合うのに、ヒースクリフ氏とぼくはちょうど似合いの相手である。なんと素敵な男だ。ぼくが馬で乗り付けると、ヒースクリフ氏は眉の下の黒い両眼を疑わしそうに細め、ぼくが名乗るのを聞いて、ますます油断なく両手をチョッキの奥に押し込んだ。それを見てぼくの心がどんなに和んだか、向こうは想像もできなかったことだろう。」次に対応する英語、すなわち原文を、原作のWutheringHeights(PenguinClassics,1995,p.4)から引用します。1801--Ihavejustreturnedfromavisittomylandlord--thesolitaryneighbourthatIshallbetroubledwith.Thisiscertainlyabeautfulcountry!InallEngland,IdonotbelievethatIcouldhavefixedonasituationsocompletelyremovedfromthestirofsocoiety.Aperfectmisanthropist'sHeaven--andMrHeathcliffandIaresuchasuitablepairtodividethedesolationbetweenus.Acapitalfellow!HelittleimaginedhowmyheartwarmedtowardshimwhenIbeleldhisblackeyeswithdrawsosuspiciouslyundertheirbrows,asIrodeup,andwhenhisfingersshelteredthemselves,withajealousresolution,stillfurtherinhiswaistcoat,asIannouncedmyname.(p.3)1801は西暦1801年を表しています。ただし、月と日付は省略されています。投げやりに感じられるかもしれませんが、これは小説です。ドキュメンタリーや日記ではないので、私たちは日付まで求めないのです。およその年代がわかれば、ああ大分前の話なんだな、と「およそ」の時代感覚が情報としてインプットされます。それ以上に詳しく特定しないところが書き出しの奥ゆかしさというものです。例えば、「昔々あるところに・・・（Onceuponatime...）」という物語の定番の語り口をここで思い出してください。そして改めて、"1801--Ihavejustreturnedfromavisittomylandlord--thesolitaryneighbourthatIshallbetroubledwith."（「一八〇一年――家主をたずねて、いま戻ったところだ。厄介な近所づきあいもあそこだけですむ。」）という書き出しの、現代小説としての類まれなすばらしさを味わってください。その自然な口調と、この書き出しがおもむろに私たちを拉致する物語世界の、立ち上がりの見事さを賞味しましょう。まったく、小説の書き出しはこうでなくてはなりません。でもこの書き出しの、何が私たちの心をこれほどまでに鷲づかみにするのでしょうか。４．現在完了形のかっこよさそのからくりは、Ihavejustreturnedfromavisittomylandlord.という一口サイズのこなれた一文にあります。英語として、これほど自然な文もめったにないでしょう。この文は、使い方次第で、英語レッスンの基本文としても機能します。この文を起点に、様々な質問を相手に投げかけることができるからです。「その家主とやらはどこに住んでいるのですか？」「彼はどんな人物でしたか？」「彼とどんな話をしましたか？」「あなたは家主からどんな家を借りるのですか？」「その家主の家はどんな家でしたか？」「その家はどんな間取りでしたか？」「あなたの借りる家の周囲はどんな環境ですか？」「そこからの眺めは良いですか？」「どのくらいその家を借りる予定ですか？」などと、いくらでも質問が思いつきます。でも、このように始まったこの小説は、実際には、家主の風貌やしぐさや、それから想像される性格など、およそ読者が語り手に語ってくれることを期待するほどのことはすべて、冒頭の一連の語りを通じて、生き生きと描写します。この小気味よい語りこそ、主人公への興味を、読者の心にき立てる装置であり、私たちをこの小説に引き付けてやまない理由の一つなのです。一般に小説の書き出しは、言葉による一種の魔法が読者にかけられる瞬間です。『嵐が丘』の書き出しも例外ではありません。では、ここにどんな魔法がかかっているのでしょうか。この最初の一文は、現在完了形のhavereturnedの効果を最大限に生かしています。この場合、returnは「行って戻ってくる運動」にかかわる動詞ですから、使われた現在完了形は、「語り手」の"I"と「家主」の"mylandlord"の間に存在した一個の往復運動を証するものです。しかも、justが、「今ちょうど～したところ」という極めて鮮度の高い《生の時間感覚》を読者に伝えます。ですから、この現在完了形は、「私」、すなわち、"I"と名乗る一人の人間のとった、ある場所への往復運動について、それが「今終わった（＝完了した）」ばかりだ、と告げているのです。完了形は、文脈に応じて、経験と完了と継続を表す、と言われますが、ここは、だれが考えても「完了」を表すことは明白です。この文は「家主のところから今帰ったばかりだ」と言っているからです。５．語り手の魔術でも私たち、すなわち、この小説の読者は、だからこそ、一瞬、語り手が伝える、家主との間の、あまりにも明確な「一往復運動」の報告から、いきなり置いてきぼりにされそうになっているのを見出すはずです。え、どこへ行っていたのですって？と思わず聞き直したくなるのです。いきなり「私の家主」って、言いましたよね、それはどこの家主なの？と、0.1秒の間に、鋭い疑問がわくからです。一般に、何か面白そうな話題が新たに持ち出されたとき、それに関する情報から取り残されるのは、誰でも嫌なものです。「ねえ、私も仲間に入れてよ」と言いたくなります。ところが、語り手は、そのような読者の気持ちをもてあそぶように、「近所づきいあもあそこだけですむ。」という一文を加えて涼しい顔をしています。あなた、それで何かを説明したつもりのようですが、私たち読者には何のことかさっぱりわかりませんよ、と言いたくなるのです。しかし、勿論ここは、この語り手にこのように語らせる作者の、小説家としての手腕の見せ所なのです。語り手を縦横に操る作者は、この時の読者の感じる「もどかしさ」を百も承知で、わざと一拍、間を外しているのです。この絶妙なとぼけによって、読者である私たちは、「近所づきあいもあそこだけですむ」って？それどういうこと？と、またしても次の疑問がわいてきます。ところが、作者はその疑問には答えず、いわば、満を持して、すごい変化球を投げてきます。「じつにすばらしい土地だ。騒がしい世間からこれほど隔絶したところは、イギリスじゅうさがしても、おそらく見つかるまい。」がそれです。語り手がいきなり、「じつにすばらしい土地だ」と悦に入っても、読者は、そうたやすく、その気持ちに入っては行けません。「え、そうなの？」と、むしろ、鼻白む思いです。続いて、「騒がしい世間からこれほど隔絶したところは、イギリスじゅうさがしても、おそらく見つかるまい。」と言われると、え？、もしかして、君は、今現在、「世捨て人」の心境なの？と尋ねたくなります。騒がしい世間から隔絶したところをわざわざ探すとなると、私たちなら、どこか人里離れた山村をイメージします。例えば、冬の間、完全に雪に閉ざされる、白川郷のようなところを。でも、なぜそんなところをわざわざ・・・？と言う疑問が残ります。６．「人間嫌い」の意味しかし、その次に、私たちの脳天に衝撃が走るような、どんでん返しが待ち受けています。「人間嫌いにとっては、まさに天国のようだ。」という一文が来るからです。「人間嫌い」となると、世捨て人というよりも、人間不信の人、誰とも打ち解けることのできないない「引きこもり」に近いイメージです。しかし、本来、「引きこもり」は自分の家に引きこもって一歩も外に出ない人であって、都会から田舎に移住する願望、それを実行に移す行動力、都会よりも田舎を評価する評価軸、などは間違っても持ち合わせていないはずです。となると、ここで言われている「人間嫌い」は、精神にダメージを受けた人でも、社会への適応異常者でもなさそうです。自分にとって、この土地は「天国のようだ」と言って、これから家を借りようとしている場所を手放しで称賛する語り手は、世間一般に対して、しかるべき真っ当な批判をもちつつ、独自の世界観、哲学、美意識を持っていそうな気配です。少なくとも、都会とは正反対の、人里離れた田舎に、何か特別の思い入れを持ち、そこに住むことに、「（魂の）救い」という価値（「天国」＝Heaven）を見出しているようにも見えます。7．stirofsocietyの意味でも、原文に見られるstirofsocietyとは何でしょうか。この言葉は岩波文庫版では「騒がしい世間」と訳されていますが、stirは、例えば、様々な薬品がごちゃまぜに入った水溶液を掻き混ぜたときのような、予測不能の乱雑な展開、反応、混乱、などを指す言葉です。societyは「世間」と訳されていますが、これは人間づきあい、人と人の出会い、交際、世間の習わし、などを意味します。一般に「社会」と訳されることが多い語です。でも、社会はいつも「騒がしい」でしょうか？人間の付き合いを「騒がしい」とか「面倒くさい」と感じる人は確かに人間嫌いになりますが、そこには人を住みにくくする何かが既に存在するのです。では、何故、いつ、社会は「騒がしく」なるのでしょうか。ここには大都市ロンドンの雑踏や都会の人間関係のわずらわしさが暗示されているように、私には思われます。天下の政都であることに加えて、天下の金融・商業の集中する大都市でもあるロンドンが、この語の背後に暗示されているとしたらどうでしょう。あくまでも推測でしかありませんが、大都会の上層部を支配する社交界の際立った階層性、面倒な仕来りの数々、などが、名もない無数の人たちをひたすら疎外してやまない現実が、その当時、既に、作者の目に、明らかに存在し始めていたとしたらどうでしょう。もしそうなら、語り手のこの往復運動は、そこに人間嫌いを見つけた喜びという形をとることで、私たち読者に向けた、一つの明快なメッセージ性を獲得します。語り手がこれから借りることにした、明るく健全な田舎の家に、これまで自分が住み続けてきた、暗く不健全な都会のアンチテーゼを見出した、とみることは強ち的外れではないのかもしれません。自称「人間嫌い」の語り手は、おそらく、と私は言いたいのですが、近代が到達した、病んだ大都会からの回復、近代人の生活のゆがみの全面的な修復を夢見る、時代に先駆けた、第一級の、ロマンチストに違いありません。
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<link>https://easyspeak-english.com/blog/detail/20221121111731/</link>
<pubDate>Mon, 21 Nov 2022 12:13:00 +0900</pubDate>
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<title>二種類の自由：freedmとliberty について</title>
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freedomとlibertyの違いについて１．libertyの意味自由民主党のことを英語ではLiberalDemocraticPartyと言います。liberalは「自由な」という意味です。democraticは「「民主的な」という意味です。ですから、自由民主党とは自由で民主的な党ということになります。でも、liberalとはどんな意味なのでしょうか。政治的に「リベラル」というと少し改革派的なイメージがあるようです。「古き良き伝統や習慣を重んじる、保守的な（conservative）」人々に対抗する「自由闊達で進歩的な、個人の権利をより重視する」人たち、という意味合いを表す言葉として使われます。アメリカの議会で言えば、バイデン大統領が率いる「民主党（DemocratcParty）」は妊娠中絶の自由など、個人の権利を重視し、きめ細かい個人の選択や好みを擁護する、という意味においてリベラルであるのに対して、トランプ前大統領の所属する「共和党（RepublicanParty）」は、例えば、分厚い中間層をなしていた昔の中流家庭の衰退を嘆き、聖書の教えにより忠実であろうとし、加えて、古き良き伝統を重んじるところに特色があるとされています。学生や知識人など、より多くの自由を求める人達は民主党に、伝統や家庭を何よりも重視する人たちは共和党に一票を投じる傾向があります。ところで、アメリカに行った人は自分の乗った飛行機がニューヨークの市街地に近づいたとき、遠方に自由の女神の像が目に入ってくるはずです。女神は片手に高く「自由の灯」を掲げて、「自由の国アメリカへようこそ！」と言っているかのように見えるかもしれません。ところで、すでに多くの人が知っているように、この自由の女神は英語ではtheStatueofLibertyと言います。この像は、アメリカのイギリスからの独立100周年を記念して、1886年にフランスから送られたのです。つまり、それより100年前、長い間イギリスの植民地であったアメリカが、当時すでに強大になっていた大英帝国と戦い、自分たちを押さえつけていた母国の国家権力に勝利した日を祝って、同じく国民が王政をひっくり返して自由を勝ち取った歴史を持つフランスから、記念として送られたのです。ですからこの像は、自由と民主主義を標榜するアメリカ合衆国の誕生の歴史と深くかかわっているのです。女神像の乗っている大きな台座の足元には足かせと鎖があって、女神はそれらを踏みつけて立っているのですが、足かせと鎖は奴隷の身分を象徴します。女神像は、その身分から解放されたアメリカ国民の喜び、すなわち独立を勝ち取って自由の身になった国民の幸せを象徴するのです。こういうわけで、libertyという語は、単に「自由」である前に、「圧政や束縛からの自由」という含意を持つのです。同時にこれは、アメリカという新興国家の国家理念でもある民主主義とも深く関わりのある言葉です。ギリシャのデモクラシー、つまり、民主制度の歴史を紐解けば、奴隷ではない自由市民が共同で管理する政体、という意味のポリス、すなわち都市国家がその起源であることがわかります。都市国家を指導・制御し、切り盛りしていくのは自由市民であって、自由も権利もない奴隷ではない、ということがポイントです。奴隷は、所有の対象であり、自由市民にお金で買い取られ、買い取った人間に仕える立場の人間でした。ということは、逆に、自由市民も身分制度を前提とする存在であり、れっきとした一つの身分だったのです。今日、私たちは市民社会という言葉を日常的に使っています。私たちは何となくくすぐったい感じを持ちつつ、市民運動とか「～市の市民の皆様」などという言い方に、自分たちのことだという思いでつい反応してしまいます。ここでいう市民は、英語ではcitizenですが、この語も、元来はギリシャの都市国家、すなわちポリスの自由市民のことを指しました。でも、私たち日本人には「自由な市民に与えられる権利」、すなわち「市民権（citizenship）」が与えられていることを忘れがちです。私たちには、民衆として強大な国家権力と戦った経験がないからです。倒幕という、唯一成功した政治革命であった明治維新も、一般民衆が立ち上がった戦いであったわけではなく、薩摩や長州など、雄藩の下級武士が徳川政権と戦ったのでした。そして、明治維新は自由を求めて武士が戦ったのではなく、武家が持つに至っていた政権を再び天皇に返すことを大義としていました。徳川幕府最後の将軍であった慶喜の「大政奉還」はあまりにも有名ですね。維新とは王政復古を意味しました。ですから、革命の中身は徳川幕府による武家政治を排し、天皇を中心とする立憲君主制への移行を促すものでした。欧米先進国に倣って国会が開かれると、日本の針路は、国民の代表である議員が国会で審議して決める、という民主主義的な体制が確立しました。「万機公論に決すべし」という方針の提示は日本の政治にとって画期的でした。しかし、日本政府は、欧米の顰に倣って富国強兵策を追求していく中で、日清日露の戦いに勝利したあたりから、帝国主義的な領土拡大の夢を追い始め、益々軍国主義的になっていきました。満州への進出や日中戦争に足を取られている間に、米国との摩擦が大きくなり、暴発的に真珠湾攻撃に走り、太平洋戦争がはじまると、中国に加えて英米、さらにはオーストラリアまで敵に回して苦戦しました。やがて本土が空襲され、全国のめぼしい都市はほとんど焼け野原になり、東京大空襲では10万人もの死者がでました。戦争中は軍部がますます政治に介入し、強健な男子はすべて戦場に送られ、残された国民の生活は困難を極めました。戦後になって、外国であるアメリカから、制度としてのアメリカ流の徹底した民主主義が、学校教育を通して、また新憲法を通して、いやおうなしに生活の中に入ってきました。けれども、私たちにとって「自由」を基調とする民主主義は、身体にも心にも、今もって、もう一つしっくりこないのです。それは、自分たちが血を流して勝ち取った権利ではないからです。ですから、突き詰めていけば、おそらくキリスト教に根拠を持つと思われる、この「自由」という尊い権利を奪うものには命がけで戦いを挑む、というアメリカ合衆国の国民が持つ気概も、当事者意識も日本には存在しません。ただし、たとえ敗戦によってアメリカ合衆国から、断る権利もないまま、つまり奴隷状態において、連合国の占領下において、有無を言わさず、一方的に与えられた権利であっても、それが現在、私たち日本人が日本国内で行使できる重要な権利であることに変わりはありません。そして、人間宣言をされた天皇を国民統合の象徴とする新憲法の制定を起点に、日本の学校で行われた、アメリカ合衆国主導の戦後の民主主義教育のおかげで、市民権がどんなに素晴らしいものであるか、今では理念的にも感覚的にも、なんとなく分かったような気にさせられています。例えば、市民税を収める代わりに定期的なごみ収集、治安維持、救急医療など様々な行政サービスを受けられます。また投票権が与えられており、不正をした議員は、次の選挙で落選させることができます。ところで、忘れてならないのは、日本人が英語を学ぶということは、実はこういうことを付随的に学ぶこととイコールだということです。仮に、これが付随的に学べない英語学習があるとすれば、それはどこかに欠陥があり、不完全なのです。なぜなら、言葉にはその言語の歴史が刻まれており、また言語の歴史には社会の歴史が刻まれているからです。語源にさかのぼって英語を学べば、ヨーロッパの歴史を刻印している英語の精髄に通暁することにつながっていきます。例えば、自由市民と一対の言葉である「民主政治（民主主義的な政治）」は英語ではdemocracyと言います。demo-はギリシャ語のdemos、すなわち「民衆（people）」」のことであり、cracyは-kratiaすなわち「権力」「支配」のことです。ですから、民主政治とは民衆が支配する政治のことです。これに対して王侯貴族が支配権を握る社会は貴族社会で、「貴族政治（王侯貴族による政治）」のことをaristocracyと言いました。日本で言えば、平安時代までは天皇とそれを補佐する公家などの貴族が政治を行っていた政治体制に相当します。２．freedomの意味これまでの議論から、libertyという言葉の中身が、「（主人に奉仕する）奴隷ではない身分」すなわち、「束縛からの自由＝独立している状態」ということとイコールだということがわかってきました。ではもう一つの自由freedomはどのような自由なのでしょうか。というのも、私たちは「言論の自由（freedomofspeech）」を、何の留保もつけずに賛成します。でも、自らに問うてみましょう。「言論の自由というときの自由と、自由の女神というときの自由とは中身が違うのか、それとも同じなのか」と。なぜなら、freedomもlibertyも普通「自由」と訳すことを私たちは知っています。ですから、freedomが何らかの自由を意味することは間違いありません。しかし、もし両者が完全に同じなら、どちらか一つに絞られ、他方は廃れていっていたはずです。なぜ現在も、「自由」を意味する二つの異なる語が、ほぼ同じくらい頻繁に使われるのでしょうか。考えられるのは、freedomとlibertyは、どこかが微妙に違うということ、そして両者の棲み分けがなされているということです。ただ、この推測が正しいとしても、即答できるほどの目立った違いは見えてきません。皆さんはどのようにお考えでしょうか？私は次のように推理します。まず、libertyの意味をおさらいをしておくと、libertyは奴隷ではないこと、すなわち自由市民である、ということを意味しました。それは、絶対王政などの圧迫から解放された状態、言い換えれば、国家を含む、他者のいかなる理不尽な掣肘からも守られた、自由で恵まれた境涯にある、ということを証する言葉でした。確かに、奴隷という身分に所属する者には、投票権も、土地や物品の所有権もありませんでした。彼には旅行の自由、物品の売買の自由、余暇を自由に過ごす自由など、自由市民が持つどんな当たり前の権利もありませんでした。したがって、freedomという語も、元来、奴隷にはほとんど縁のない言葉だったのかもしれません。逆に、freedomは多分、勝ち取られた権利であるlibertyの中に位置づけることができる語であり、中身もそれに近いと言えるでしょう。freedomはまた、自主独立、すなわち、independenceという言葉の中身を構成する要素の一つとして、含意されているかもしれません。ただ、残念ながら、日本語ではどちらも「自由」と訳しますから、日本語で考えている限り、両者の区別は不可能です。これは、日本語の訳に頼りすぎることの弊害を示す良い例です。そこで、英語では当たり前に行われている両者の使い分けを見ておきましょう。典型的な例で言えばfreedomは、freedomofspeech（「言論の自由」）というフレーズの中でよく使われる言葉です。ここにofspeech（「言論の」）という限定語句がくっついているのが気になりますね。そういえば、libertyと違って、freedomはめったに単独では使われない印象があります。つまり、それだけだと坐りが悪く、不用意に使うと、大抵、「何の、あるいは、何からの、自由？」と相手に聞き返される可能性が高いのです。なぜなら、例えば、集会の自由はfreedomofassemblyと言い、結社の自由はfreedomofassociationと言うからです。ほかにも信教の自由（freedomofreligion）、職業選択の自由（freedomofchoceinemployment）などがあります。ですから、私には、freedomは人民が圧政者から一つ一つ獲得していった歴史的な戦利品としての「個別具体的自由」という意味合いが強いように思われます。「言論の自由」がなければ、個人は自分の意見が自由に言えないため、息が詰まりそうになります。また、結社の自由がなければ、個人の自由意思による参加で成立している数多くのNPO法人、財団法人、新聞、テレビ、ラジオなどのすべてが取り締まりの対象になることでしょう。例えば、今まで慣習的に制限されていたことを、憲法に照らして理不尽だと訴え、民事裁判にかけて勝利するとき、理不尽な特定の制限から私たちは一挙に解放されます。部分的ではあっても、そこには新たに獲得された新しい自由が存在します。これが個別具体的に取り上げられるfreedomの中身だと考えてよいのではないでしょうか。圧政からの自由であるlibertyの中身が、歴史的に獲得されてきた個々の「自由」、すなわち、個別具体的な戦利品としてのfreedomを合算したもの、と考えれば辻褄が合います。３．「法（law）」の支配と「自由（liberty）」との関係昔フランスのルイ14世は「朕は国家なり」と言ったそうですが、これはひとりの特定の個人、すなわち独裁者に、すべての国家権力が集中した状態を表しています。けれども、国法はギリシャやローマの時代から存在しました。では、なぜ国法がそれほどの権威を持っているのでしょうか。国法は万民に平等に適用されることが前提となっている法規だからです。法は決め事という意味では一種の規則（rule）ですが、規則よりも一般的で、高度に普遍性を帯びています。規則だと、及ぶ範囲が小規模ですが、法はまず現行法の問題点を国民を代表する議員が集まって協議し、その修正案なり、新法案などを、集団で国会に提出し、審議し、評決を経て成立するものです。つまり、法案は、ありとあらゆる事態を想定しつつ、念を入れて、慎重かつ厳重に審議されるので、重さが違います。特に、民法や刑法などの普通の法よりも上位に位置する「憲法（constitution）」は国の最高法規であり、国家としてのありよう、すなわち、国家の基本体質、もしくは国家としての品格を最もよく表す法体系です。近頃、日本でも憲法の一部改定の是非が取りざたされるようになりましたが、勿論、軽々に変更すべきでないことは誰でもよく理解しています。では、自由と法とはどんな関係にあるのでしょうか。油断しているとつい勘違いしがちですが、自由は実は「わがまま、勝手気まま」を意味しません。なぜなら、「自由な（liberal）」な国民国家は国民が主体ですから、もし、国民の一人一人が自由気ままにふるまったら、私たち国民の安心、安全は守られません。人の車などを勝手に使ってよい、ということになれば、確かにそれも自由かもしれませんが、明らかに行き過ぎた自由です。とても許容されません。人の財布やキャッシュカードを盗み、人の家に勝手に侵入し、気に入らない友人や知人を殺したら、勿論逮捕され、厳重に法で裁かれます。当然です。自分の身に置き換えて考えたら、そのような行為が全く許されないことは子供にでももわかります。ですから、自由には一定程度の制限が伴い、付随的に守らなければならない数々の規則が存在するということも十分理解できる話です。自由と義務、すなわち自由とそれに付随して遵守しなければならない諸規則とは、セットで存在するのです。これが法の意味なのです。自由の裏側には数々の義務が張り付いていることを、私たち日本人はどこまで深く理解しているでしょうか。私たちの住む社会が、私たちの安全と幸福を守るに足る健全な組織体、あるいは機構として存在するためには、様々な権利を行使する自由と、それを担保するために存在する諸規制が整合的に、バランスよく配置されていなくてはならないことを、しっかり認識したいものです。これが生活の隅々にまで行き渡っている国がいわゆる法治国家です。自由は、人の行動を縛る諸々の規則によってのみ完璧に守られ、確保されているという逆説を、この世を住みよい場所にするための道理としてきちんと理解しましょう。明治の昔に、libertyをどう訳すかで、西周、福沢諭吉など、錚々たる学者が頭を抱えて悩んだそうです。「自由」と訳すと、「自由気まま」「好き勝手」のことかと誤解されるのを恐れたのです。フランス革命に立ち上がった人たちは、国王を処刑すれば、後は自分たち人民の思うままになり、自分たちがすべてを上手く取り仕切ることができるはずだと将来を楽観視していたかもしれませんが、結果は悲惨なものでした。何でも自分たちの思いのままになる、という意味での自由の実現どころか、血で血を洗う危険、かつ不条理な抗争を生みました。ワーズワースなどは、革命の理想に浮かれてフランス入りはしたものの、悲惨な現実を目にして打ちひしがれ、トラウマを抱えて母国イギリスに逃げ帰りました。革命当時、フランスの人々は疑心暗鬼になりました。互いに相手を探り合う不信と密告と抗争が収まらない社会が待っていました。ロシア革命でも反革命を恐れて人々は疑心暗鬼になり、粛清と称する筆舌に尽くせない殺戮が大規模に発生しました。こうして彼らは、意図せずに、パンドラの箱を開けてしまったのかもしれません。クーデターを起こして政権を手に入れた国民は、領土をめぐって、敵対する他国民との間の争いにのめりこみました。そして、やがて、徴兵を前提とする国家間の総力戦を仕掛けるようになりました。これが近代以降の戦争のスタイルです。総力戦の時代になると、国家としての力が常にものを言います。高度に機械化され、高度に統合された実践的軍事力だけでなく、経済力、工業力、国土の広さ、エネルギー資源の保有量、などが勝敗を分けます。では、パンドラの箱を閉める方法はないのでしょうか。ヒントは、いつか必ず永久に平和をもたらすはずの世界政府樹立構想です。仮にまだ実現していない人類の高度に完成された世界政府の高みから眺めるならば、これまで私たちが知っている戦争は、第一次世界大戦も第二次世界大戦も、実は仲間同士の戦い、身内の争いに見えるはずです。「～の主権を回復するため」とか、「取られた領土を取り返すため」など、取ってつけたような大義名分が、開戦の口実に使われます。複数の国家間で、すさまじい情報戦が繰り広げられ、お互いに総力を挙げて騙し合います。戦争は結果がすべてです。勝てば官軍なのです。騙された方が悪いのだ、という論理がまかり通り、歴史が書き換えられます。それが繰り返された結果が、現在の不安定な、危なっかしい世界情勢なのです。「自由」には「支障がない」とか「制限がない」という語感が伴います。ですから、抑圧からの解放感にいざなわれて、誰でもつい羽目を外しがちです。この時必要なのは自制です。自己抑制機能を働かせる必要があるのです。自分の判断で発揮できる「節度（temperance）」を養っておくことが必要です。本格的な節度を身に着けるには、年少のころに課される一定の鍛錬が必要です。特に組織の長など、人の上に立つ者ほど、この鍛錬が求められます。そして、紛糾した国家間の争いをなくすには、国家元首同士の間に全幅の信頼が醸成されなければなりません。そこに至るには、各国の国民がそれぞれ真実を言い、真実に基づく行動に出ることが求められます。人を騙すのではなく、真実を言うためには、大変な訓練と勇気が必要です。付和雷同的な忖度は許されません。しかも真実を見極めるのは極めて難しく、大変な努力が必要です。日ごろの鍛錬と真摯な学びだけが、それを保証します。でも、国民の弛まぬ努力が積み重なれば、それは確実に国力を生み、国家間の信頼を醸成します。そこを目指した草の根の学び、草の根の協力だけが真に私たちの世界を変えます。
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<link>https://easyspeak-english.com/blog/detail/20221009170133/</link>
<pubDate>Sun, 09 Oct 2022 18:01:00 +0900</pubDate>
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<title>能力、可能性、蓋然性、実現性をめぐる類義語について</title>
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単なる可能性と実現可能性は違います。英語ではどのように使い分けるのでしょうか。possibilityとprobability、またprobabilityとfeasibility の違いは何でしょうか。例文から読み解いていきます。
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<link>https://easyspeak-english.com/blog/detail/20220910094818/</link>
<pubDate>Sat, 10 Sep 2022 10:21:00 +0900</pubDate>
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<title>コレクトコールって、何？</title>
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collectの意味１．「鍵をもらいに来るから」大学の2年生になったある日、ある英語の先生から、「君たちはもう2年生になったんだから、これからはPOD(PocketOxfordEnglishDictionary)を使いなさい。」と言われ、その日の内に丸善へ行ってPODを買い求め、以後その辞書を使いました。PODは使ってみると、非常にとっつきにくく、不親切な辞書でした。説明の文字数をこれでもかというほど少なくした携帯サイズの英語辞典だったからです。その先生が、説明が丁寧な卓上型の兄弟辞書、COD（ConciseOxfordEnglishDictonary）ではなく、ぶっきらぼうなほどコンパクトなPODの方を推奨された理由は、そのときは分りませんでした。でも使ってみて分ったことがあります。PODの方が早く引け、必ず最短距離の説明に接することができるので、辞書を引くストレスがかからず、読んでいる英語に集中でき、読書の質が上がったのです。４年生の夏休みには、シェイクスピアの『オセロー』を卒業論文の対象に選び、図書館に通ってアーデン版のテキストに取り組み、何とかそれを読みこなし、英語で論文を書き、ノートに清書して提出しました。それから2年後の修士論文は、シェイクスピアの『ハムレット』について書きました。今度はタイプライターを買って、毎晩、遅くまで書きました。しかし、日本語の下書きは一行も書きませんでした。実は『オセロー』のときもそうでした。私流にあえて理屈をつければ、アーデン版のテキストも、使う英英辞書も、目に入るものは全部英語なので、頭の中は英語しかなく、それ以外の選択肢がなかったのです。しかし、英語学習一般に関してここから得るべき教訓は、英語は、英語を使って考え、かつ感じてこそ、本当に身に付く、というメッセージです。英語の論文を書くに当たって、まず日本語で下書きを書いておいて、それを英語に翻訳するとなると、それだけ余計な時間と労力を課すことになります。それを回避する唯一の方法がPODの推奨、というより、ほとんど命令に近い学生への指示だったのです。英語を英語で理解することに徹した「英語エキスパート」の養成が、大学の英文学科の使命だったのです。それから20年以上経ち、文部科学省派遣の在外研究員として、当時、英国バーミンガム大学のキャンパス内にあった『シェイクスピア研究所」（ShakespeareInstitute）に滞在中のある日、研究所にいる私に電話がかかりました。研究所の助手の方が取り次いでくれたその電話に出てみると、私より半年遅れで、同じバーミング大学の工学部に若手枠の在外研究員として10か月間滞在するためにやってきた、私と同じ大学に籍を置く、知り合いの若い同僚からでした。それは急を要する依頼でした。彼が言うには、「大学から紹介された借家を借りようと、管理人の不動産屋を訪れたところ、自分には理解できない理由で貸さないというので困っている。今は家族と共にホテルに滞在しているのだが、ホテル暮らしは一日1万円以上かかり、大変だ。ついては、不動産屋と交渉してもらえないだろうか。」ということでした。一家で一か月ホテルに滞在すれば、40万円近い出費になります。私の場合、一か月7万円くらいで一軒家を家族で借りていたので、その差は莫大でした。翌日その不動産屋に行ってみると、家主が海外に住んでいて、なかなか連絡がつかず、しかも法律上、家主の許可が出ないと貸すわけにはいかない、自分としてもどうにもならない、という説明でした。「イギリスの法律を私も最大限尊重するが、こんなことをしていては誰も得をしない。あなたは仲介料がもらえないし、家主は家賃収入が入らない。勿論、ここにいる私の同僚は、只今ホテル住まいで、毎日の経費が多く掛かって困っている。ここはあなたの裁量で何とかしてもらいたい。今日は週末だから、来週の月曜日にもう一度来る。そのときには部屋の鍵を渡してもらいたい。」と、ざっと、こんなことを英語で一方的にしゃべって、その場は一旦引き上げ、翌週の月曜日に、再び、同じ不動産屋に二人で出向きました。すると不動産屋の主人は、今度は、全回とは打って変わって、どこかさばさばした様子で、「警察沙汰にするのは止めました。法的には問題があるが、鍵を渡します。」と言って鍵を渡してくれました。あっけない幕切れです。同僚は、本当に助かったと言って感謝してくれました。「来週の月曜日にもう一度来る。そのときには部屋の鍵を渡してもらいたい。」という趣旨のことを、私は、"WeshallbecomingbacknextMondaytocollectthekey."と言いました。出てくる言葉を、私の意識が追跡していましたが、「おや、自分はこんなことを言ってしまったな。」という思いが、そう言ってしまった自分自身を、0.1秒だけ時間的距離を置いて見ている、という状況でした。「そのときには鍵を渡してもらいたい。」というのは、「来週の月曜日には、私たちはあなたから鍵を受け取るつもりですからね。」という言い切りであり、私たちの不退転の決意を表す言葉です。それ以来、その時のやり取りが何度か思い出され、その都度気になったのは、なぜcollectthekeyという表現を使ったかということでした。この表現を直訳すれば、普通なら「鍵を集める」となりがちです。でも、勿論、私たちがそこでしたかったのは「次の週に鍵を受け取る」ということでした。ではなぜ、"...toreceivethekey."と言わなかったのか、ということです。あるいは、"...totakethekey."ではいけなかったのか、という疑問です。でも私は、日本語を英語に訳す、ということは人に頼まれたとき以外、したことがありませんでした。「鍵を受け取る」という日本語が最初に頭の中に出てきて、それを英語に翻訳する、という二度手間は、英語を使う場面ではしたことがなかったのです。不動産屋は英国人ですから、英語で話しをするのが当然です。ですから英語で考え、英語で交渉したのです。逆に、日本人と話しているときは、日本語で考え、日本語で話します。全く、当たり前ですね。私にとっては、実はそれ以外、あり得ないのです。では、"...toreceivethekey"とか、"...totakethekey."ではいけないのでしょうか。いけなくはありませんが、相手がネイティブの英語話者なら、多分、引っ掛かります。そういう英語は、はっきり言って、気分が悪くなるのです。でも、その英語は「当たらずとも遠からず」ですから、敢えて点を付ければ、50点か、せいぜい60点です。「君の言いたいことは分かる、でもそれって、本物の英語ではありませんよ。」と言いたくなるのです。昔見た西部劇映画の一コマに、列車強盗が銃を突きつけながら乗客に金品を要求する場面がありましたが、盗賊の一人が帽子を回して金品を「集める」際に、私の記憶が正しければ、collectという動詞が使われていました。「警察沙汰にするのは止めた」と借家を管理する不動産屋が、私たちを見るなり、私たちに言ったのは、「本来なら警察を呼んで、君たちを捕まえてもらいたいところだが、それをやめた。」という意味です。私の使ったcollectは、あのような状況の下では、強盗まがいの恐喝、と受け取られる可能性が全くなかったとは言えなかったのです。それを思うと、危なかったな、という思いです。不動産屋は、すぐに鍵を渡してくれました。でも一つ間違えば、私たちは逮捕されていたかも知れません。2．collect考前回のブログでgather,assemble,collectの三つの語を取りあげ、いずれも「～を集める」という他動詞として使われるが、自動詞としても使われることがある、と断った後、それぞれの使い分けを、事例を出しながら説明しました。gatherはあたりに散らばっているものをかき集める、という意味が主体であり、assembleはしかるべき人がどこかに集合したり、部品などを集めて何か複雑なものを組み立てたりすることが主な意味であり、collectは何か意味のある物、価値のある物を収集家が収集する、会計係が会費などを集める、親が下校時に子供を迎えに行く、預けた品物を回収する、というとき使われる、とそれぞれの使い方の特色を説明しました。collectは語源的には「選ぶ」という意味と「一か所に集める」という意味とが合体してできた言葉です。「一か所に集める」という意味はともかく、「選ぶ」という意味は、日本語にもなっているコレクトコール（collectcall）にも当てはまります。それは、電話の相手に電話代を払ってもらう電話のことです。例えば、都会に下宿している大学生が、田舎の親に電話して、電話代を親に払わせて話をする場合など、相手が電話代を払ってでも電話に出たいはずの電話を掛けたいとき、交換手に、collectcallでお願いしますと言えば、この制度を使った電話ができるのです。普通の電話と異なるのは、コレクトコールでは電話代を払うのが自分ではなく、相手だということです。一方、電話を受けるほうは、電話代を払えばその電話に出ることができ、いやなら断ることも出来ます。それを受けるか受けないかは、その都度事情を勘案して判断すればよいのです。コレクトコールを受けるか受けないかは、その電話を受けた側の自由な判断に任せられており、法律で保障された権利ですが、受ける選択をした場合は、逆に、費用を自分が払う義務も生じるのです。先の話に戻れば、「鍵を受け取る」とき、gatherもassembleもあり得ないことは、すでにこれまでの説明からお分かりのことと思います。問題はcollectでよかったのかどうかです。消去法で行けば、collectしか残りませんが、他方で、collectが正しかった、それしかありえなかった、と言えるだけの、決定的な証拠はあるのでしょうか。「鍵を受け取る」ことに「選択」の意味は入ってきません。「一か所に集める」という意味も入ってきません。ここで入ってきそうな意味は、「（自分、もしくは他者にとって）大切なものを受け取る」という意味です。例えば、親が学校に子供を迎えに行くとき、また、レストランなどに預けていた傘を、そこを去るとき忘れずに受け取って帰るとき、強盗が強奪品を受け取るとき、献金や会費を集めて回るとき、などにこの意味がかかわります。問題は、「鍵を受け取りに来る」と普通に言えるためには、不動産屋が「その時までには問題を解決して、きちんとお渡しすることをお約束します」と言ってくれている必要があったという一点です。実際にそう言ってくれておれば、私のcollectは、これしかない一言だったはずです。「大事なものを権利としてきちんと受け取る」という意味がしっかり相手に伝わるからです。しかし、実際のところは、こちらが一方的に話を進め、「自分たちは決して引き下がらないぞ」という本気度だけはきっぱりと相手に伝えつつ、こちらの言いたいことはすべて言って、相手から見ればさぞかし「不法な」言い分にこだわったのでした。私たちは日本の紳士であって、決して強盗ではない。その証拠に、週末の二日間、警察沙汰にするかどうかも含めて、相手に考える猶予を与えたのであり、日本人の誇りと威信をかけた交渉に他ならなかったのです。そして、相手が理論的な敗北を認めるか、あるいは根負けして折れるか、それとも、「負けて勝つ」式の「粋な計らい」で、笑って決着を付けるか、それらのいずれかの対応を取ってもらえる可能性に、一縷の望みを託したのでした。後日、その同僚の話によれば、シェイクスピア研究所に英語のできる日本人の教授がいる、ということがもっぱらの噂になったそうです。当時シェイクスピア研究所には、私を含め、3人の日本人が滞在していましたが、私が一番年上でした。あとの二人はまだ20代後半か30代前半でした。ここはやはり、不動産屋の一件が噂の元である確率が一番高いと思われました。となると、私のcollectを「これしかない一言」にしてくれたのは、その不動産屋さんだったのです。結果的に言えるのは、この言葉の使い方は、会話教室などで、誰かに教わった使い方ではない、ということです。強いて言えば、自分がPOD以来、英語を英語で理解する訓練を欠かさず、日々精進している間に、いつの間にかマスターしていた英語だったのです。そして、それゆえに、時を得て、不動産屋を動かすほどの「自然な」一言にもなり得たのです。
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<link>https://easyspeak-english.com/blog/detail/20220805123042/</link>
<pubDate>Fri, 05 Aug 2022 13:28:00 +0900</pubDate>
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<title>類義語を学ぶ――gather, assemble, collect の使い分け</title>
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gather,assemble,collectの使い分けgather,assemble,collectはどのように違うのか１．「集める」と「集まる」日本人は、それと全く意識することなく、ある種の動詞をいとも簡単に、自動詞と他動詞に使い分けています。すべての動詞について言えるわけではありませんが、かなり多くの場合に、その使い分けが可能です。例えば、今日、話題にしたい三つの類義語、gather,assemble,collectについても、この点で面白い比較が可能です。gather,assemble,collectは、いずれも「集める」という意味で使われます。例えば、gatherevidenceと言えば、「証拠を集める」という意味であり、assembledataforareportと言えば、「報告書を作るために資料を集める」という意味であり、collectstampsと言えば、「切手を集める」という意味です。面白いことに、これらの動詞は他動詞ですが、時には自動詞としても使うことができます。例えば、Alotofpeoplegatheredaroundhimtoaskhimquestions.と言えば、「彼に質問しようとして多くの人が彼の周りに集まった。」と言う意味です。また、Thechildrenwereaskedtoassembleinthahall.と言えば、「子供たちはホールに集合するように言われた。」という意味であり、Dustwillcollectonunreadbooks.と言えば「読まない本の上には埃がたまります。」という意味です。一方、日本語では「証拠を集める」と言う代わりに、「証拠が集まる」と言えば、簡単に「集める」という他動詞を自動詞に変えることができます。「集まる」は何かが、あるいは誰かが、自ずと「集まる」という意味ですから、「～が集まる」と言えば、自動的に「（誰かが何かを）集める」という意味は消えます。他の例としては、陶工が粘土を「固める」と言えば、粘土という「固める」対象が存在するため、「固める」は他動詞です。しかし、「雨降って地固まる」の「固まる」は、雨が降って地面が緩んだ後で、自ずと、以前にもまして地面が「固まる」という意味ですから、自動詞です。また、物価が「上がる」と言えば、諸々の要因で物価が「上がる」のであり、「上がる」は自動詞です。しかし、ある会社が社員の給料を「上げる」と言えば、「上げる」対象は給料であり、給料という「上げる」対象が意識されている限りにおいて、「上げる」は他動詞です。また、「下げる」と「下がる」も、例えば、「～さんが自分の評判を下げる」に対して「～さんの評判が下がる」を比較すれば、自分という対象の「評判を下げる」ことが主として意識されている前者は他動詞であり、何らかの原因で「～さんの評判」の「下がる」局面に主たる意識を集中させている後者は、自動詞です。このように、ある種の動詞は、語尾を少し変えることで、行為の対象を意識しない自動詞にも、行為の対象をしっかり意識する他動詞にも、きれいに使い分けることができます。他にも、「治める―治まる」、「絡めるー絡まる」、「休めるー休まる」、「降ろすー降りる」、「揺らすー揺れる」、「乗せるー乗る」、「すぼめるーすぼむ」、「開けるー開く」、「分けるー分かれる」、「裂くー裂ける」、「溜める―堪る」などの動詞は、同様に使い分けられます。ところが英語では、上のgatherの例文で見たように、同一の動詞が、スペリングも発音も全く同じのまま、ある場合には他動詞として、別の場合には自動詞として使えます。一見すると、日本語よりもさらに便利ですが、それを使う側にも、使われる側にも、どちらなのか決める決断と判断が求められます。これは、英語を外国語として学ぶ日本人には多少きついところがあるとしても、ネイティブの人たちには何ということはありません。と言うのも、他動詞は目的語を取り、自動詞は目的語を取らない、という決定的な、そして明確な、違いがあるので、使う方はそのいずれにするのか、また、聞く方は、そのいずれだったのか、0.01~0.1秒の間に決断し、また判断すればよいだけの話だからです。いや、ネイティブの英語話者たちは、特に考えるまでもなく、時間も掛けず、自動的に決断をし、自動的に聞き分けます。では、具体例を見てみましょう。例えば、Thesunsankbelowthehorizon.は「太陽は地平線（または水平線）の下に沈んだ。」という意味で、sankはsink（「～が沈む」）という自動詞の過去形として使われていますが、Agalesanktheboat.では、「強風がボートを沈めた。」（＝「強風でボートが沈んだ。」）という意味で、sankはsink（「～を沈める」）という他動詞の過去形として使われています。ところで、belowは前置詞で、すぐ次の語thehorizonと結びついて「前置詞句」を形成し、「前置詞句」は形容詞句もしくは副詞句の働きをしますが、ここでは、直前の動詞sankを修飾するので、副詞句と判定されます。belowは「～の下に」という意味をもち、sank（「沈む」という意味の自動詞sinkの過去形）に沈んで行く方向を示しています。一方、Agalesanktheboat.では、sankの後ろに前置詞はなく、名詞のtheboatが来ています。そこで、theboatはsankの目的語となります。全体としては、主語のagaleが、目的語のtheboatを「沈めた」と言う意味になります。２．gatherの意味さて、gatherは多くの場合、「集める」という意味で使われますが、何をどのように集めるときに、使われるのでしょうか。gatherは「あたりにあるものを集める」という感覚で使われます。例えば、Thestreetperformergatheredacrowdaroundhim.と言えば、「大道芸人は彼の周りに群衆を集めた。」という意味です。gatherは「あたりのものを寄せ集める」、「あたりのものを拾い集める」、「あたりのものを摘み集める」、「（庭に干したものなどを）取り入れる」と言う意味で使います。huntingandgatheringと言えば、gatheringは、縄文時代の人たちの生活の基本であった「狩猟」と「採集」のうち、「採集」を指します。また、上に紹介したgatherevidenceは、例えば刑事が犯行現場やその周辺を探索し、遺留品や指紋、あたりの住人からの聞き込み情報など、「証拠」を残らず集める、といった意味合いがあります。他方、「あたりにあるものを集め」という意味を、多少、比喩的に使った興味深い例としては、Thetraingatheredspeed.があります。これは「列車はスピードを上げた。」と言う意味ですが、「自分の中に備わっている余力を一か所にき集める」＝「結果としてスピードを上げる」と言う意味で使われています。これに対して、Thetrainpickedupspeed.と言うと、単に列車がスピードをぐんと上げた、という意味になります。また、衣装に関する用語でギャザーと言う言葉があります。これは、例えば、衣服にアクセントをつけるために、腰のあたりなどにひだを取る作業、すなわち、すでにそこにある布を、ある一点に向かって「寄せ集める」作業から生まれた言葉です。「そのあたりにある」ものを自分の近くに、あるいは、一か所に寄せ集める、という一般的な意味合いが、ここでも確認できます。３．assembleの意味では、assembleはどのような意味を持っているのでしょうか。assembleは必ずしもあたりに散らばっているものを集めるのではなく、集められる資格を持っているもののみを、集められるべきタイミングで集め、何事かを成し遂げるときに使う言葉です。assembledataforareportという例をすでに紹介しましたが、この場合も、データをむやみに多く集めるのではなく、報告書（report）をまとめるために必要なデータを必要なだけ集めるのです。ここでは、当然のこととして、役立つデータと無関係なデータが予め選り分けられます。assembleはまた、完成品の素材となる「部品」を集めるときにも使います。厳選され、過不足なく集められた、何千、もしくは何万、もの部品が何かの目標（=完成品）に向かって正しく組み立てられることで、当初に予定され意図されていた製品が世に送り出されることになります。スマホでもコンピュータでも自動車でも原子力潜水艦でも、そこに必要不可欠な、無数の部品が使われることは言うまでもありません。それらがあるべき場所に集められ、あるべき順番で組み立てられて初めて、一個の完成品となり、しかるべき価値が付与されます。自動車の組み立てラインのことをアセンブリーライン（assemblyline）と言いますが、これが日本語の一部にもなっていることを、ここで思い出してください。また、assembleの名詞形であるassemblyは、多くの場合、「集会」「会合」と言う意味で使われますが、当然、そこに出席する人は、特定の組織の委員など、そこに集まることが期待されている人たちであり、見識も資格もなく、何処からともなく集まる烏合の衆ではありません。烏合の衆なら、crowd（群衆、人だかり）と言います。また、generalassemblyと言えば「定期総会」と言うほどの意味ですが、この総会では、過去1年間の活動が報告され、次年度の予算案や活動目標が審議され、それが可決されれば、次年度へ向けてさらなる活動が展開されます。会社でも、NPO法人でも、その他どんな組織でも、定期総会の重要性は変わりません。所与の組織がそこに向かって進むべき共通のヴィジョンを確認する意味でも、意義深い会合です。assemblyには「結果を出してなんぼ」に近い、高次の期待が付きまとうのです。４．collectの意味次に、collectはどのような意味を持っているのでしょうか。collectは、何かを、ある目的をもって「集めて回る」「収集する」「徴収する」と言う意味で使われる言葉です。すでに紹介したように、collectstampsと言えば、「切手を集める」と言う意味ですが、もっと言えば、切手の収集を趣味にしている人が、ある種の情熱をもって、例えば記念切手を求めるのに、発売日に郵便局まで行って、朝早くから列に並んで買い求めるような行為を指します。自分にとって、またある特定の人たちにとって、価値のあるもの、例えば骨董や珍品、嗜好品などが、多くの場合、密かな情熱をもって、「集める」対象になります。面白いことに、collectはまた、親がきちんと下校時に学校へ行って、自分の子供を「連れ帰る」ときにも使います。学校へ預けていた自分の子供を、学校から引き離して、自宅へ連れ帰る、と言う意味です。それは親の義務であると同時に、親の権利でもあります。collectはまた、会費を「集めて回る」ときにも使います。会費を納めるのは会員の義務ですが、会計係がそれを集めるのは、決まりを実行する行為でもあります。これらの場合、集められるのは、子供であり、会費ですが、いずれにしても、それ相応の価値を持ったものが「集める」行為の対象になることには変わりはありません。パリコレ（Pariscollecton）は年二回、フランスのパリで開かれるファッションブランドの新作発表会です。コレはcollectionの略語です。collectionは「集められたもの」を指す言葉です。そこに集められ、発表されるのは、一人のデザイナーが仲間と共に知恵を絞って創作した、選りすぐりの衣装作品です。ですから、作品を「集める」のはデザイナーです。世界をリードする気鋭のデザイナーのセンスや経験、またビジョンが、それらのコレクションから伺われます。また、collectedbooksあるいは、collectedworksと言うと、ある一人の高く評価されている作家もしくは著述家の「全集」と言う意味です。（collectedは「集められた」という意味です。collectの過去分詞が形容詞として使われています。）しかるべき出版社から委嘱された見識のある編集者が、自分の判断と責任において、特定の作家や著述家のめぼしい作品をすべて収集し、全集本として刊行したものを指します。ここでも、編集者のセンスや経験、またビジョンが問われます。また、絵画の収集についても、集める人のセンスや経験、またビジョンが問われます。実際には、例えば財界の大物などが、しかるべき人に依頼して、金を惜しまず、本当に買う価値のある物のみを、相当数まとめて買い求めさせるのです。例えば、こうして戦前に収集された松方コレクションなどは、今日なお、収集者のセンスが高く評価されています。
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<link>https://easyspeak-english.com/blog/detail/20220708110857/</link>
<pubDate>Fri, 08 Jul 2022 14:51:00 +0900</pubDate>
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